網代とは、氷魚をとるために竹や木を編んで網の代わりとし、川瀬に立てておくもので、氷魚は鮎の稚魚をいう。これらは宇治の名物とされ、氷魚が天皇の食膳に供されたことが『延喜式』にある。
宇治川は水源を滋賀県の琵琶湖に発して、瀬田川となり、宇治川となり、八幡市で木津川と合流する。もとは宇治橋下流で巨椋池(おぐらいけ)にそそいでいたが、文禄年間(1592~96)、伏見城築城に際し池から分離し、現在のごとく流路を付け替えた。
古来、大和から近江に通じる水路として、南都東大寺の建立にあたっては近江の木材を宇治川に下して巨椋池に運び込み、さらに木津川をさかのぼって木津に陸揚げされた。
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昭和28年 重要文化財に指定される。古石塔の中では日本一の高さを誇る。上の基礎石の北面に宇治川網代禁制の官符および石塔造立に関する銘文1000文字が刻まれています。
慶長元年(1596)の大地震で相輪が落ちて砕け、上方4重が傾いたのを、慶安3年(1650)に淀城主永井尚政が再興した時の経過を記した南面にある。
笠石は雄大で、軒反りも大きく、特に初重軸部の金剛界4仏の大梵字は豪快。
この塔は弘安9年(1286)奈良西大寺の僧叡尊(興正菩薩)が宇治橋の架け替えに際して建立したもの。
上人は、橋の流失は乱獲される魚霊の祟りであると考え、殺生の罪をいましめ、網代を棄ててことごとくこの地に埋め、あわせて経巻を収めて供養塔とした。基礎の表面にはその由来をしるした一千文字をこえる銘文が、網代停止の官符ととにきざまれている。
塔は宝暦6年(1756)の洪水で流失し、長らく川中の埋没していたが、明治41年(1908)発掘し、九重目の笠石と相輪を新しく作って再興された。毎年8月16日には塔前で精霊送りが行われるるる。
伏見の藤森神社の境内手洗舎の水鉢は、ここの石塔の層塔を流用したものと伝わる。
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