アートプラス京めぐり

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まち歩き宇治0949  宇治橋

2018年12月13日 22時08分10秒 | まち歩き

 

宇治川にかかる橋、瀬田の唐橋、山崎大橋(現存しない)とともに古来三名橋の1つに上げられた。

この橋は大化2年(646)、奈良元興寺の僧道登または道昭によって架橋された我が国最古の橋といわれる。また天智天皇が近江に大津宮を造営された頃、道昭一派に人々によって造られたともいわれている。

古来大和と近江、京都をむすぶ交通路の要衝となり、一朝有事の時にはこの橋の争奪をめぐって激しい合戦が行われた。この橋の特徴は欄干上流に面して ゛三の間゛といわれる広さ2メートル余りの張出を持つところにある。これはむかし橋の鎮守(橋姫神)を祀っていたところといわれる

三の間

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まち歩き中0950 平安宮020  平安宮・治部省跡

2018年12月13日 18時07分27秒 | まち歩き

 

平安時代、国政の中心であった平安宮(大内裏)には、多くの官衙(かんが・役所)が集中していた。朱雀第6小学校の南側には国政を司る重要な機関「2官8省」の1つ、治部省があり、現在地はその北端に位置する。

治部省は、雅楽寮・玄蕃寮・諸陵寮などを管轄し、諸氏の族姓や法事、仏事・雅楽・外交事務などを司る役所で、正庁と甲倉(蔵)などの庁舎から構成された。

これまでの治部省跡は発掘調査が行われておらず、付近で行われる工事中の立会調査でも、平安時代の遺構・遺物は見つかっていないため、実態は不明である。

治部省には寺院や僧尼及び外国公使の接待を司る玄蕃寮、さらに南に、「2官8省」の1つで司法行政を司る刑部省があったが、これらも調査例が少なく実態はよくわかっていない。

朱雀第6小学校は、天皇に供される水を汲む井戸があった御井跡にあたり、御井神一座が祀られ、井戸を管理する守屋が設けられていたという。当初は方1町(約120m)を占めたが、天長7年(830)に南半の町が中務省厨に充てられたことが『類聚国史』にみえる。

この井戸の水は、当地のきたにあった医療・調薬などを司る典薬寮による正月元旦の「供御薬」に用いられる屠蘇を浸す水や、造酒司での酒造りなどに用いたとされる。

1979年に校舎増改築工事に伴って行われた発掘調査では、御井に関連する明確な遺構は見つからなかったが、広範囲に広がる湿地状の凹み地形を埋めて、上面に大量の瓦破片を敷き詰めた、平安時代後期から鎌倉時代の遺構が見つかっている。

これは、湧水による軟弱な地盤を、必要に応じて埋め立てて整地したものと考えられる。また、江戸時代以降の土取り穴の底から、現在も激しい湧水があって、当地の地下水位が高いことを示しており、平安時代においても有数の湧水地であったと考えられる。

 

小学校の入り口

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まち歩き宇治0948  宇治橋西詰 石碑の群れ

2018年12月13日 06時03分05秒 | まち歩き

紫式部の『源氏物語』54帖のうち後半、「橋姫の巻」以下の10帖は、宇治を主題としているところから世に「宇治十帖」とよばれる。

これに因んで後世に次の遺蹟がつくられた。

1 橋姫之古蹟(橋姫神社)

2 椎本之古蹟(彼方神社)

3 総角(あげまき)之古蹟(宇治上神社)

4 早蕨(さわらび)之古蹟(宇治神社北隅)

5 寄木(やどりぎ)之古蹟(槙尾山麓、宇治川畔)

6 東屋(あずまや)之古蹟(京阪電鉄宇治駅横)

7 浮舟之古蹟(三室戸寺境内)

8 蜻蛉之古蹟(三室戸路畔)

9 手習之古蹟(京阪電鉄三室戸駅東)

10 夢浮橋之古蹟(宇治橋西詰)

 

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