平安時代、国政の中心であった平安宮(大内裏)には、多くの官衙(かんが・役所)が集中していた。朱雀第6小学校の南側には国政を司る重要な機関「2官8省」の1つ、治部省があり、現在地はその北端に位置する。
治部省は、雅楽寮・玄蕃寮・諸陵寮などを管轄し、諸氏の族姓や法事、仏事・雅楽・外交事務などを司る役所で、正庁と甲倉(蔵)などの庁舎から構成された。
これまでの治部省跡は発掘調査が行われておらず、付近で行われる工事中の立会調査でも、平安時代の遺構・遺物は見つかっていないため、実態は不明である。
治部省には寺院や僧尼及び外国公使の接待を司る玄蕃寮、さらに南に、「2官8省」の1つで司法行政を司る刑部省があったが、これらも調査例が少なく実態はよくわかっていない。
朱雀第6小学校は、天皇に供される水を汲む井戸があった御井跡にあたり、御井神一座が祀られ、井戸を管理する守屋が設けられていたという。当初は方1町(約120m)を占めたが、天長7年(830)に南半の町が中務省厨に充てられたことが『類聚国史』にみえる。
この井戸の水は、当地のきたにあった医療・調薬などを司る典薬寮による正月元旦の「供御薬」に用いられる屠蘇を浸す水や、造酒司での酒造りなどに用いたとされる。
1979年に校舎増改築工事に伴って行われた発掘調査では、御井に関連する明確な遺構は見つからなかったが、広範囲に広がる湿地状の凹み地形を埋めて、上面に大量の瓦破片を敷き詰めた、平安時代後期から鎌倉時代の遺構が見つかっている。
これは、湧水による軟弱な地盤を、必要に応じて埋め立てて整地したものと考えられる。また、江戸時代以降の土取り穴の底から、現在も激しい湧水があって、当地の地下水位が高いことを示しており、平安時代においても有数の湧水地であったと考えられる。
小学校の入り口
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