アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

まち歩き南丹0987 かやぶき美術館 美山郷土資料館

2018年12月26日 19時07分20秒 | まち歩き

平成29年8月7日 撮影

手前が 美術館          奥が 郷土資料館

 

 

 

美山郷土資料館 この資料館は、私たちの祖先が永い間、営々と暮らしてきたなかで使ってきた数々の道具を収集し展示しています。美山町全域に電灯がついたのは昭和11年、ランプが不要となり、続いて戦後、とりわけ高度経済成長とうたわれた昭和30年代を境にして、農業や林業に機械が導入され始めました。また家庭生活の中にも電化製品が入り込み、プロパンガスや水道が普及してくると、今まで想像もできなかった便利な生活が展開されるようになりました。それに連れて今まで大切に使われていた農具や山仕事の道具、生活用具などは捨てられ、あるいは押し入れや納屋の奥に追いやられてしまいました。しかしこれら昔の道具を、学校の教材として未来へ残そうと、地元、宮島小学校の昭和46年度卒業生は、卒業記念行事として収集・保存に取り組みました。PTAも全面的に協力し、昭和49年度に校内に立派な郷土資料室をつくりました。また鶴ケ丘地区でも同様の声が上がり、小学校の同窓会が中心となり、旧校舎を活用して資料館を開設しました。しかし平成になり両行とも校舎の全面改築が行われ、そのまま地元の倉庫に収納されていましたが、この状況を憂うる声が町内各地からあがり、各地区自治会長連名での郷土資料館を建設するよう美山町に要望書が提出とれました。期を一にしてこのかやぶき民家が空き家となったので町が購入し、1棟を美術館に、1棟を郷土資料館に充てることとなり、平成11年8月、郷土資料館設置委員会を設立。およそ半年間にわたり資料の搬入・整理・陳列などの作業を続け、平成12年の開館にこぎつけることができました。スペースの問題などもあり完璧な資料館とはいえませんが、遂次内容の充実に努めてまいりたいと考えています。先人たちの決して快適とはいえない暮らしのなか、展示された道具から、時代を生き抜く汗と知恵と工夫が見えてきます。すべてがスイッチ1つ僅かな時間で片付いてしまう現代の環境を見つめ直し、人間にとって本当の暮らし方しは何か、今一度見つめ直す空間となれば幸いです。

 

こちらは 美術館

 

 

 

 

 

 

まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き南0986 近鉄電車 東寺駅 付近

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます

 


寺院南0520 東寺 食堂・納経所

2018年12月26日 13時16分06秒 | 寺院

 

食堂(じきどう)昭和5年(1930)12月の失火後の再建で、7間4面、単層、入母屋造りの本瓦葺の建物。堂内には本尊として千手観音立像(重文・平安)を安置していたので、観音堂とも呼ばれたが、今は聖衆文殊座像(重文・平安)および地蔵菩薩立像(重文・平安)とともに宝物館に移されている。

食堂(じきどう) 近代

僧侶が斎時に集まって食事をした場所で創建年代は未詳。896年,理源大師・聖宝により6mの千手観音立像(現宝物館安置)と四天王像を憎立・千手堂とも呼ばれ、足利尊氏もここに居住した。昭和5年(1930年)12月21日焼失。昭和9年4月竣工。春日厨子に納まった11面観音立像は明珍恒男氏の作である。


おみくじ

関連記事 ⇒ まとめ038 東寺

寺院前回の記事 ⇒ 寺院南0519 東寺 毘沙門堂

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


寺院南0519 東寺 毘沙門堂

2018年12月26日 06時02分01秒 | 寺院

 

毘沙門堂 江戸時代 天慶2年(平将門)の乱の際、都の守護神として羅城門に安置されていた兜跋毘沙門天像(現宝物館・国宝)を天元元年(978年)7月9日大風にて羅城門が倒壊の後、東寺に移し食堂に安置したりしたが、文政5年(1822年)現在の堂を建立してお祀りした。創建1200年記念事業で平成6年(1944年)に修復された。


関連記事 ⇒ まとめ038 東寺

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院南0518  東寺 国宝 西院 御影堂

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます