アートプラス京めぐり

京都の探索、記事数6500 いろいろなテーマで京都をめぐります 
京都市外も始めました 先ずは京都南部から

まち歩き中1399 京の通り・富小路通 NO60 四条下ル 付近

2020年10月18日 17時11分53秒 | まち歩き

南を見る

まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き中1398 京の通り・富小路通 NO59 四条通

     次回の記事 ⇒ まち歩き中1400 京の通り・富小路通 NO61 町名・徳正寺町

下の地図のユーザー地図 の囲みをクリックすると 付近の記事が探せます


時代祭行列 明治維新時代 維新志士列  中山忠能(ただやす)

2020年10月18日 06時40分06秒 | まち歩き

中山忠能(ただやす)

天保11年(1840年)、参議となる。この年亡くなった光格上皇に対する諡号復帰の問題で、1人反対論を唱えて注目される(ただし、この反対論は諡号復活に対してではなく、退位した天皇に「天皇号」を贈ることに対しての疑問であり、在位中の天皇が崩御した場合に限るべきというものであった)。

弘化4年(1847年)、権大納言となる。嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航して通商を求めた際には攘夷論を主張し、条約締結を巡り、関白の九条尚忠を批判する。安政5年(1858年)、江戸幕府老中の堀田正睦が上洛して条約の勅許による許可を求めた際には、正親町三条実愛らと共にこれに反対した。

その後、議奏となる。公武合体派の公家として万延元年(1860年)、孝明天皇から和宮と14代将軍・徳川家茂の縁組の御用掛に任じられた。その経緯から翌文久元年(1861年)、和宮の江戸下向に随行するが、これが一部の過激な尊皇攘夷派からの憤激を生み、文久3年(1863年)に議奏を辞職して失脚した。また同年には、子の中山忠光が尊皇攘夷派を率いて、天誅組の変を起こすが敗れ、長州へ逃れた後、暗殺された。

元治元年(1864年)、長州藩が京都奪還のため挙兵した禁門の変では長州藩の動きを支持した。忠能は長州藩を支持して変事を成功させることで、復帰を考えていたらしいが、禁門の変は結果的に失敗し、忠能孝明天皇の怒りを買って処罰された。慶応2年(1866年)、孝明天皇が崩御すると復帰を許される。

慶応3年(1867年)、中御門経之正親町三条実愛らと組み、将軍・徳川慶喜追討の勅書である討幕の密勅を明治天皇から出させることにも尽力。その後も岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ、小御所会議では司会を務めた。その後、曾孫にあたる嘉仁親王(後の大正天皇)の養育を担当。明治21年(1888年)、80歳で薨去。薨去直前に大勲位菊花大綬章を受章した。

 

 

関連記事 ⇒ まち歩き上0530 京都御苑 中山邸跡

       陵墓伏013  伏見桃山陵  明治天皇・昭憲皇后 陵墓

時代祭行列 前回の記事 ⇒ 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列  三条実萬

      次回の記事 ⇒ 時代祭行列 明治維新時代 維新志士列  平野国臣