豊臣公参朝のうち、慶長元年(西暦1596年)5月の秀頼初参内(朝廷へ参上すること)と、同2年9月の元服の時は最も盛儀であったと伝えられていて、本列はその様相を模したものです。
乗物は特に盛儀に使われた牛車で、檳榔毛唐庇車(びんろうげからひさしぐるま)といい、蒲葵(びろう)の葉で葺き、すだれなどの色文(いろあや)装具は最高の様式のものです。前後に従う大名は実際はもっと多数ですが、本列はその一部を現わしたものです。また服装は当時特に「一日晴れ」として規則以外に許されたもので、衣冠の姿も普通ではなく、袴をつけ、太刀も武家風です。徒歩の者は当時の武家風の特徴を現わしています。
この行列の中に前田玄以、石田三成、浅野長政、増田長盛、、長束正家 が参列しているなのだか、名前を描いた旗がない。
前田玄以
秀吉の命により、石川五右衛門を捕え、三条河原で釜煮の刑にされた。五右衛門の子、一郎も一緒。同時に母と一味の者20人も処刑された。 五右衛門37歳。天正19年(1592) 正月から4月にかけて市内20数キロに及ぶ御土居(土塁)が造られた。その総指揮が前田玄以。天正11年(1584)、前田玄以は釜座を保護。聚楽第を平常は前田玄以が預かる。
秀次の詰問の使者となる。大仏殿建立の主奉行となる。
明智光秀の本能寺の変の時、前田玄以は三法師、織田秀信とともに岐阜に逃れた。
浅野長政 初代大仏が地震で大破した時、本尊となる仏像を信州・善光寺から京に運ぶ役割を秀吉から命じられた。
増田長盛 五条大橋・三条大橋を造った。
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