和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう、1846年7月3日〈弘化3年閏5月10日〉- 1877年〈明治10年〉9月2日)は、仁孝天皇の第8皇女。江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室(御台所)。家茂死後には落飾し、静寛院(せいかんいん)の院号宣下を受け、静寛院宮と名乗った。
「和宮」は誕生時に賜わった幼名で、「親子」(ちかこ)は文久元年(1861年)の内親王宣下に際して賜わった諱である。孝明天皇の異母妹。明治天皇の叔母にあたる。
孝明天皇(こうめいてんのう)の妹で、5才のときに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約します。
しかし、幕府の公武合体(こうぶがったい)策により、1862年、16才で同じ年の第14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)と結婚することになり、京都を離れて江戸城大奥に入ります。
家茂と仲良く暮らし始めた翌年から、家茂はしばしば上洛する(天皇に会うため京都に行く)ことになり、家茂と離れて過ごすことが多くなりました。
病気の家茂が三度目の上洛をした際は、和宮は心配して何度もお参りをし、京都に手紙や贈り物をしますが、1866年、家茂は病死してしまいます。僅か20歳でした。
家茂の死後、和宮の下に、家茂からのお土産の西陣織が届きます。
家茂の死後、和宮は出家して「静寛院(せいかんいん)」と名乗ります。
戊辰戦争(ぼしんせんそう)中には朝廷に手紙を送り、天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)と共に、徳川家の存続を訴えました。江戸城開城後は、京都に戻りますが、再び東京で暮らすようになり、1877年、病気のため32歳の若さでその生涯を終えます
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