天明義民糀屋伝兵衛墓所
天明5年11月11日 於東京没
大正5年11月事跡發・
伏見義民會
伏見義民 関連 ➡ 人物004 伏見義民
寺院前回の記事 ➡ 寺院伏0226 来迎寺 浄土宗
川柳
このことも孫の記憶に残るかな /小西
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天明義民糀屋伝兵衛墓所
天明5年11月11日 於東京没
大正5年11月事跡發・
伏見義民會
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川柳
このことも孫の記憶に残るかな /小西
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寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0225 欣浄寺 曹洞宗 小野小町 道元禅師 伏見の大仏さん
川柳
旅のあと地図でたどって二度楽し /石黒
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深草 加賀屋敷町
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0275 止水弁のハンドルかな
川柳
制服が似合わなくなり辞めていく /ファミレス
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柵を設置するときには すでにここにあったようだ
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0274 下ノ郷橋 新しい
川柳
太陽と思った人が今空気 /イーちゃん
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清凉山と号する曹洞宗の寺。はじめ深草の興聖寺内にあった寛喜2年(1233)まで道元禅師が此の地で教化に務め、当寺を創建したといわれる。当初、真言宗であったが応仁の乱(1467)後曹洞宗となり、天正年間(1573~92)の頃、僧告厭が中興し浄土宗に改められ現在の地に移った。さらに文化年間(1804~18)にもとの曹洞宗に改宗した。
曹洞宗の宗祖、道元禅師の「深草閑居」の旧跡として知られる。本尊が「伏見の大仏さん」 本堂内陣の中央に、寄木造りの毘盧遮那仏で、高さ5.5m。木造では日本一の大きさといわれる。体内銘によると、頭部は安永3~5年(1774~1776)、胴は寛政3~8年(1791~1796)り製作とある。「どんな仏師がなんのためにつくったのかわからないそうだ。文献も残っていない」とのこと。江戸時代の義民一揆の犠牲者の供養に発願されたとの説もあるがはっきりしていない。大仏殿はかつて現在地より少し西よりに建っていたが、前年に東山区の方広寺の大仏殿の全焼を教訓に昭和40年鉄筋コンクリート造りに建替えられている。大仏のそばには、釈迦・弥陀・大日三如来の合体仏といわれる異相の阿弥陀坐像や道元禅師の石像を安置している。
京都市内に小野小町(小町塔)とつたわるものが、3ケ所ある。
山科区小野御霊町 随心院
伏見区西桝屋町 欣浄寺
左京区静市市原町 小町寺
伏見区にある小町塔は、小五輪石塔からなり、深草少将塔とならんでいる。ここは深草少将の宅跡といわれ、少将はここから山科小野の小町のもとへ百夜かよったという伝説に因んでつくられた供養塔である。塔の傍らには「少将姿見の井戸」があって、「涙の水」ともいわれたが、今は埋没している。
少将と小町の供養塔がまるで、二人が夫婦であったかのように並んでいる。願いが叶わなかった少将の涙水だという深草少将遺愛の井戸が残っている。欣浄寺から随心院までは、およそ5キロ、往復10キロになる。
背後の竹藪の中には「少将通い道」といわれる小路があって、秀吉の伏見在城の頃、訴訟あるものはこの道を通ると願い事が叶わなかったと伝わる。今は、そのような道はない。宅地になっている。
池畔には「昭宣公塔」と称する小五輪塔がある。
また、道元禅師の詩碑がある。
3つある塔の内、 左の石塔が 小野小町 その隣の中央のが 深草少将の石塔
関連記事 ➡ まとめ017 道元禅師
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0224 墨染寺 日蓮宗 桜寺 秀吉 瑞竜尼 長谷川等伯
川柳
旅館でもまめに灯を消す貧乏性 /赤井
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川も改修されています
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0273 この角石の役割は何
川柳
寝返りを打って女房に誤解され /トロと猫
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この清和荘には 名水 「清和の井」 がある
街道の宿場町としての拠点がここ墨染界隈にもありました。京都へ通じる伏見街道、大津へ至る大津街道、そして、八科峠を越えて六地蔵から宇治に向かう道、墨染は大きな3つの街道の分岐点にあたり、人馬の往来が激しく、土産物屋では伏見人形・深草団扇・深草焼塩・伏見鋸などが売られていました。参勤交代の大名行列はこの墨染から藤森神社の南鳥居の前を進み、西寺町、谷口町を経て山科の勧修寺前に出ます。そして、山科川を渡り、小野随心院を北に折れて追分けへと大津に向かう道が定められていました。
幕末の慶応3年(1867)12月18日、伏見奉行所に陣を移した新選組の隊長・近藤勇は京都町奉行所の若年寄・永井玄播頭との軍議のため、二条城に赴きました。この頃すでに、幕府軍と薩摩長州軍との間に戦いがいつ始まっても不思議ではない緊張関係にありました。近藤は護衛約20名を伴っての帰り道、伏見街道が屈曲する墨染通り附近で狙撃されました。狙っていたのは御陵衛士の生き残り阿部十郎と、伏見薩摩藩邸にいた篠原泰之進、加納道之助、富山弥兵衛らでした。弾は左肩に命中しましたが致命傷には至らず、そのまま馬を走らせて伏見奉行所逃げ込みました。近藤は治療のため大阪に退き、副隊長・土方歳三が新選組の指揮を執り、近藤は鳥羽伏見の戦いへ参戦するすることができなかったのでした。
伏見観光協会 (社)伏見納税協会 青年部会
平成21年12月 建立
遭難の地 こちらを主張する人もある ➡ まち歩き伏0269 墨染 の 交差点
関連記事 ➡ 新選組
まち歩き 前回の記事 ➡ 伏0271
川柳
2億円買えば当たるか2億円 /茂木
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墨染櫻寺
深草山と号する日蓮宗の寺。俗に「桜寺」とよばれる。天正年間、秀吉の姉瑞竜尼は日秀上人にふかく帰依し、秀吉もまた上人を厚遇し、深草貞観寺の旧地に一宇を建立したのが当寺の起こりで、その後現在の地に移ったと伝わる。
創建当初は多くの堂があり、秀吉も親しく当寺を訪れたと言われている。今は本堂と庫裏があるだけ。寺宝に長谷川等伯の筆と伝わる秀吉の画像や秀吉自筆の短冊等がある。
墨染桜 本堂の前にある。
この桜は平安時代の歌人 上野岑雄が昭宣公基経の死を傷んで
深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け
とうたったことから墨染に咲くようになったといわれ、これに因んで墨染寺といい、地名も墨染とよぶようになったと伝わる。
今のは何代目かの桜であり、花は小さく白色の単弁で、
薄墨にようなところからこの名が生じた。
壽碑
惟るに当寺は清和天皇の勅創たる貞観寺の旧跡なり堀川左大臣藤原基経昭宣公 薨じて遺骨を此の地に殯したもうや上野峯雄哀傷の情を和歌に托して曰く
「深草の野辺の桜之心有らば今年ばかりは墨染に咲け」と
此の地の墨染めの称は(或は此の地を墨染と称するは)蓋し此の歌詞に因るなり後に大僧都日秀上人道譽頗る崇し
豊公(秀吉)深く之を信じ挙げて此の地を上人寄附して本宗に属し銘を墨染桜寺と改む殿堂高閣にして輪かんの美備わる爾来星霜数百年寺運振わず塚を破り碑を断ち累々として四方に狼藉する荒涼の状轉感慨の情堪えざるなり爰に第三十七世学妙上人先に宇治直行寺に住し次いで梅津本福寺に転ずるも夙に当山の廃類せるを慨き意に回復の事を期し入りて此寺に主となるや乾々赬尾寒暑にして虚日なく復興に是務む 依って聊か師恩に酬いんがために寿碑を寺の側に建て日常の微事をきざみて之を伝へて不朽ならしめんと欲し文を余に微す
余と上人とは同じく達門の流類なり敢て辞せす゛乃ち上人の行跡を按じて其の梗概の系を叙し以て銘じて曰く
千載跡遠く 廟影空しく 傾く
乾に力を致して 忽ち法城を現す
顕徳測叵し 誠の点睛を積むは
維れ労維績 勒んで永く 彰旌
平成十六年 十二月吉祥
西村慶珠翁之塔
関連記事 秀吉の姉 ➡ 善正寺 豊臣秀次の菩提寺・母の悲しみ
秀吉のゆかりの地 ➡ 有名人ゆかりの地
寺院 前回の記事 ➡ 寺院伏0223 西福寺 浄土宗 光厳天皇ゆかりの寺
川柳
安全な道だけ回るパトロール /Q太郎
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ここは 墨染会館の看板も出ています
墨染地蔵尊 です
ゴミだしのお知らせ看板に覆われて全容はわからず
千六百年記念
伏見 こちら側も ゴミだしお知らせに覆われて全容わからず
関連記事 ➡ 紀元2600年石碑・献木・奉納額 等
地蔵尊 前回の記事 ➡ 地蔵尊上021 騎士像と地中から出てきた地蔵尊のある児童公園
川柳
話すたび振り向くタクシー運転手 /のん太
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北方向を見る
南を見る
関連記事 ➡ まち歩き滋賀0209 琵琶湖疏水 第1取水口
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0270 京阪電車 墨染駅
川柳
セールスの押しの弱さに買わされる /荘田
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三条・四条 方面行きの電車が止まっています
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0269 墨染 の 交差点
川柳
もう3日私の携帯鳴らないの /かざぐるま
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南方向を見る このあたりで
近藤勇が襲撃されたという人もある。
まち歩き 前回の記事 ➡ まち歩き伏0268 昔風の家
川柳
行く先の雪を知らせる対向車 /小沢
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椿堂のあゆみは、明治12(1879)年、椿屋宗吉(初代当主)が伏見区深草大亀谷の
自園にて玉露の製造・販売をはじめたことに遡ります。
以来、大本山東福寺・伏見稲荷大社など社寺御用達をはじめお客様のご愛顧を頂戴し、 今日まで歩んでまいりました。 平成12年には、創業120年に際し、茶房「竹聲」の併設など、店舗の全面改装を行いました。 今後とも日本茶の販売はもとより、お茶をより一層愉しんでいただけるよう努めてまいりたいと考えております。
老舗 前回の記事 ➡ 老舗東002 赤尾屋 京つけもの 創業元禄12年(1698) 318年前
川柳
マドンナもよいしょと座るクラス会 /穴六
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