アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

寺院南0526 東寺  講堂 向こうに 金堂

2018年12月29日 06時24分56秒 | 寺院

 

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寺院 前回の記事 ⇒ 寺院南0525 東寺 宝蔵・平安時代

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寺院南0525 東寺 宝蔵・平安時代

2018年12月28日 21時20分55秒 | 寺院

 

 

宝蔵 (平安時代)

創建当時は、南北2棟存在し、宝物経巻を収蔵していた、長保2年(1000)と大治元年(1198)に文覚上人によって再建されたものが残ったとされていたが解体修理の結果、東寺創建に近いころの建立と考えられる。

伝説によれば、かつて石川五右衛門がこの宝蔵に盗み入ろうとしたが、「文覚再建」の威力によって入れなかったといわれる。


関連記事 ⇒ まとめ038 東寺

文覚上人の話 ⇒ 寺院南0401 浄禅寺 浄土宗

寺院 前回の記事 ⇒ 0524寺院南0524 東寺 小野道風ゆかりの柳

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道標右0202  おんど 車折  遍照寺境内

2018年12月28日 09時49分30秒 | 道標

 

 

 右真言宗広沢派根元遍照寺            おんど 車折

  

 成田と同じ

 木の霊像

   寒月や利剣も凄き赤不動   双湖庵【以下埋没】

 昭和三年秋稟京都三宅安兵衛遺志建之

 

関連記事 ⇒  関連0002  三宅安兵衛の道標

道標 前回の記事 ⇒ 道標南201 新宮神社参道

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寺院南0522 東寺 五重塔

2018年12月28日 06時07分50秒 | 寺院

 

五重塔 高さは 54.84m

国宝・江戸時代 方3間、本瓦葺。我が国最大の五重塔で、各重四方の中央間を板扉、両脇間を連子窓とし、

組勾欄をめぐらした復古的な和様建築。塔は創建以来しばしば焼失したが、今のは正保元年(1644)徳川家光が古制に則り再建した。

内部は心柱を初層まで通し、4天柱には両界曼荼羅、八方の板壁には真言8祖、扉には護法八天などが極彩色で描かれている。


平安末期 落雷によって焼失している。今までに4度焼失している。

避雷針が取り付けられたのは、明治になってから。1893年(明治26年)創業という、日本最古の電気工事店とみられる山科電気工事店によって設置された。各階の屋根の隅からはロープのような物が垂れ下がっていますが、塔先端に取り付けられた避雷針から地中にのびているアースなのだそうです。五重塔は創建以来度々落雷による火災で焼失の被害にあっています

 

関連記事 ⇒ まとめ038 東寺

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院南0521 東寺 夜叉神堂 

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神社南0147  宇賀神社

2018年12月27日 22時08分01秒 | 神社

 

 

 

 

 宇賀神社由緒

当神社は宇賀之御魂神を主神とし、天照大神を奉祀しております。山城名勝誌に「宇賀塚は九条の南、東桐院東、宇賀辻子(現存の札ノ辻)にあり、土人云う判官塚の一町ばかり南なり」と誌されてあります。

また、陶原月輪両槐門図に「昔 藤原鎌足公(1300年前)がこのあたりを遊猟中に金璽を得、後世この辺りに都が遷されて我が子孫亦繁富することを予知して、この金璽を蔵めたのが今の宇賀塚である。」と記載されてあるのをみても、宇賀塚(宇賀神社)の由来は飛鳥時代や大津の宮のころのものであって、京都の数多い神社の中でも極めて歴史の古いものであります。祭神の宇賀之御魂神は五穀の神、産業の神であって、繁栄、福徳を招来し給う東九条唯一の産土神として、古くから崇敬を集め、護持継承されてきましたが、現今商売繁盛、家内息災、学徳成就、芸能上達、交通安全等に霊妙神通、霊験あらたかなものがあると信じられています。なお、当社の例祭は毎年9月に盛大に執り行われます。境内の大椋、銀杏の老木は樹齢500年を超え、大椋は「京都市の巨樹銘木」及び「京都市保存樹」に銀杏は「京都市巨樹名木に指定されています。平成23年7月吉日 宇賀神社敬神会

 

 

東邦砥石株式会社  大正13年(1924) 京都研磨砥石株式会社を設立

          昭和6年(1931)  社名を東邦砥石株式会社に改称

 

 

 昭和11年11月 奉納の絵馬

 

俗に「宇賀塚」といい、もとは葭の生えた沼中の小島とつたえ、「判官塚」とともに東九条に散在する古墳の1つである。

本殿の右には、雷が石に化したという雷石(小隕石)がある。

 

 

 

 

椋の木

 

 

 

 

 

こちらは 銀杏の木

 

 

 神社前回の記事 ⇒ 神社南0146 新宮神社

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まち歩き右0988 愛宕山 月輪寺で シカに出会う 3頭

2018年12月27日 20時49分13秒 | まち歩き

平成29年9月25日 11時10分  月輪寺で  この寺の境内にはよく 現れるようです

 3頭います


山頂 愛宕神社で

平成29年9月25日 午前11時50分  16℃

 

 

まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き南丹0987 かやぶき美術館 美山郷土資料館

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寺院南0521 東寺 夜叉神堂 

2018年12月27日 19時25分49秒 | 寺院

 

 

 

 

 

 

堂前の雨だれの下に白豆を埋めて祈ると歯痛がなおるといわれ、御礼に割飴を供える風習がある。

 

夜叉神堂 桃山時代

東 雄夜叉 本地文殊菩薩

西 雌夜叉 本地虚空菩薩

最初は南大門の左右の安置されていたが、旅人が拝まないで津おると忽ちその罰が当たったという。中門(現在の金堂前燈籠) 中門(現在の金堂前燈籠周辺)の左右に移された。慶長元年(1596年)の左右にに移された。慶長元年(1596)中門東海の後、現在の小堂を建立して安置した。夜叉神像は弘法大師の御作とされ、霊験甚だあらたかで、浮田例の御作とされ霊験甚だあらたかで、仏法守護を本誓となすとある。

歯痛を治してくださると歯痛をなおしてくださるとしたしまれている。

 


関連記事 ⇒ まとめ038 東寺

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院南0520 東寺 食堂・納経所

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まち歩き南丹0987 かやぶき美術館 美山郷土資料館

2018年12月26日 19時07分20秒 | まち歩き

平成29年8月7日 撮影

手前が 美術館          奥が 郷土資料館

 

 

 

美山郷土資料館 この資料館は、私たちの祖先が永い間、営々と暮らしてきたなかで使ってきた数々の道具を収集し展示しています。美山町全域に電灯がついたのは昭和11年、ランプが不要となり、続いて戦後、とりわけ高度経済成長とうたわれた昭和30年代を境にして、農業や林業に機械が導入され始めました。また家庭生活の中にも電化製品が入り込み、プロパンガスや水道が普及してくると、今まで想像もできなかった便利な生活が展開されるようになりました。それに連れて今まで大切に使われていた農具や山仕事の道具、生活用具などは捨てられ、あるいは押し入れや納屋の奥に追いやられてしまいました。しかしこれら昔の道具を、学校の教材として未来へ残そうと、地元、宮島小学校の昭和46年度卒業生は、卒業記念行事として収集・保存に取り組みました。PTAも全面的に協力し、昭和49年度に校内に立派な郷土資料室をつくりました。また鶴ケ丘地区でも同様の声が上がり、小学校の同窓会が中心となり、旧校舎を活用して資料館を開設しました。しかし平成になり両行とも校舎の全面改築が行われ、そのまま地元の倉庫に収納されていましたが、この状況を憂うる声が町内各地からあがり、各地区自治会長連名での郷土資料館を建設するよう美山町に要望書が提出とれました。期を一にしてこのかやぶき民家が空き家となったので町が購入し、1棟を美術館に、1棟を郷土資料館に充てることとなり、平成11年8月、郷土資料館設置委員会を設立。およそ半年間にわたり資料の搬入・整理・陳列などの作業を続け、平成12年の開館にこぎつけることができました。スペースの問題などもあり完璧な資料館とはいえませんが、遂次内容の充実に努めてまいりたいと考えています。先人たちの決して快適とはいえない暮らしのなか、展示された道具から、時代を生き抜く汗と知恵と工夫が見えてきます。すべてがスイッチ1つ僅かな時間で片付いてしまう現代の環境を見つめ直し、人間にとって本当の暮らし方しは何か、今一度見つめ直す空間となれば幸いです。

 

こちらは 美術館

 

 

 

 

 

 

まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き南0986 近鉄電車 東寺駅 付近

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寺院南0520 東寺 食堂・納経所

2018年12月26日 13時16分06秒 | 寺院

 

食堂(じきどう)昭和5年(1930)12月の失火後の再建で、7間4面、単層、入母屋造りの本瓦葺の建物。堂内には本尊として千手観音立像(重文・平安)を安置していたので、観音堂とも呼ばれたが、今は聖衆文殊座像(重文・平安)および地蔵菩薩立像(重文・平安)とともに宝物館に移されている。

食堂(じきどう) 近代

僧侶が斎時に集まって食事をした場所で創建年代は未詳。896年,理源大師・聖宝により6mの千手観音立像(現宝物館安置)と四天王像を憎立・千手堂とも呼ばれ、足利尊氏もここに居住した。昭和5年(1930年)12月21日焼失。昭和9年4月竣工。春日厨子に納まった11面観音立像は明珍恒男氏の作である。


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寺院前回の記事 ⇒ 寺院南0519 東寺 毘沙門堂

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寺院南0519 東寺 毘沙門堂

2018年12月26日 06時02分01秒 | 寺院

 

毘沙門堂 江戸時代 天慶2年(平将門)の乱の際、都の守護神として羅城門に安置されていた兜跋毘沙門天像(現宝物館・国宝)を天元元年(978年)7月9日大風にて羅城門が倒壊の後、東寺に移し食堂に安置したりしたが、文政5年(1822年)現在の堂を建立してお祀りした。創建1200年記念事業で平成6年(1944年)に修復された。


関連記事 ⇒ まとめ038 東寺

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院南0518  東寺 国宝 西院 御影堂

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