アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

祠中043 鵺(ぬえ)大明神   石碑中0186 鵺池碑

2019年01月26日 06時07分55秒 | 町内の小さな祠

 

 『平家物語』によると,近衛天皇(113955)の代,毎夜黒雲が立ち込めて御所を覆い,天皇を怯えさせていた。源頼政(110480)が,怪しい姿を発見し弓矢で射殺したところ,頭は猿,胴体は狸,尾は蛇,手足は虎,鳴き声がトラツグミ,という怪鳥(ぬえ)であった。この碑は,鵺退治で使用した矢の鏃を頼政が洗ったと伝承される池跡を示すものである。なお,元禄13(1700)年に建てられた原碑が摩滅し,現在では北面の題額部に「鵺池碑」の3字が確認できるだけなので,昭和11(1936)年に復元碑が公園の北に隣接する鵺大明神社内に建てられた。碑文は復元碑による。

鵺池碑

元禄13(復原碑1936)

建立者  太田毎資(復原碑出水学区有志)

我源朝臣松平紀伊君在京之日家臣太田毎資亦来居焉其宅後有

一池曰鵺池俗伝以為頼政卿嘗滌射鵺鏃之地矣今毎資者道潅七

世之孫而頼政卿遠裔也故聞斯事喜適居其地且懼其就泯減因使

予録其事上石鳴呼追遠之心不亦美乎遂書銘曰

   怪鳥当射   志不可敵   休矣邦彦   其声太逖

      元禄庚辰三月望日                              松崎正祐記

鵺池碑 碑文の大意

 わたし(筆者松崎正祐)の主君であるは丹波篠山藩主松平紀伊守が京都所司代に任じられ京都に赴任していたとき,家臣の太田毎資もまた主君に従い京都に滞在していた。毎資の官舎の庭に池があり,鵺池と呼ばれていた。源頼政卿がかつて鵺を射た矢じりを洗った地だと伝えられていた。

 実は毎資は太田道灌の七世の孫で,頼政卿の末裔である。だからその地に居をかまえた事をたいへん喜んだ。それだけではなく,この池の伝承が消え失せることを心配し,石碑を建ててわたしに碑文を書かせた。なんと美しい先祖を思う心情ではないか。この碑文は以上のような次第で書いたものである。(以上原碑の碑文)

この地は昔から鵺池と呼ばれていた。池のほとりに碑がある。しかし徳川氏の世になり京都所司代屋敷の中に取り込まれてしまった。だからその当時出版された京都ガイドブックの類には記されていない。

 明治の初めに所司代屋敷跡に監獄が置かれた。それでもなお碑は大切に保存された。ただし雨風にうたれ文字は次第にすり減って見えなくなった。昭和2(1927)年に京都監あらため京都刑務所が山科に移転し,昭和9年,跡地に二条公園が設けられた。そのころにはまったく碑文が読めなくなっていたので,心ある人は残念に思っていた。

 ところが元看守長青山咸懐氏という人がいて,在職時に原文を写していた。かすかに残る碑文の跡と青山氏が写した碑文の二つを総合したら碑文がはじめて明らかとなった。そこで有志が相談し,もとの碑とは別に新しい碑を建てて碑文を刻み,後世に伝えるものである。(以上昭和11年復元時の碑文)


 

此地古来称鵺池池辺有碑詳誌其伝説而及徳川氏執政柄地属所

司代之邸内以故当時所刊行名所誌之類或憚而不記焉維新之初

就邸址而置監獄猶用意於保存但碑石則風餐雨虐文字漸磨滅後

撤獄舎昭和九年新設二条公園之比至不可復読有志以為恨也偶

有元看守長青山咸懐氏在職之間手記原文両者相対照而主文始

歴如恨事乃除矣於是有志相謀更選碑石刻之以伝後世云爾

      昭和十一年三月望日                  出水学区建碑有志

 

関連記事 ⇒ 神社下0033 神明神社 鵺退治の矢じりがあります  綾小路東洞院

       鵺(ぬえ)の正体 トラツグミ 恐ろしい声で鳴く

前回の記事 ⇒ 祠北042 岩倉川 十王堂橋 付近 の草に覆われた祠

        寺院南0545 法傳寺   石碑南185 戊辰東軍戦死者之碑

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源氏物語の遺跡 40ヶ所

2019年01月25日 17時53分36秒 | 平安京

 

 

1  平安宮内裏遺跡(源氏物語の中心舞台) 上.下立売通智恵光院西入下丸屋町(上京歴史資料館前)

2  平安宮内裏凝華舎跡(梅壺)・飛香舎跡(藤壺) 上.土屋町通出水下る西神明町(民家)

3  平安宮内裏弘徽殿跡    上.出水通千本東入下る東神明町(民家)

4  平安宮内裏清涼殿跡(天皇の居所)  上.下立売通千本東入田中町(民家)

        源氏物語遺跡19 平安宮朝堂院昌福堂跡

5  平安宮内裏承香殿跡     上.浄福寺通出水下る西入東神明町(民家)

6  平安宮内裏蔵人町屋跡    上.下立売通千本東入田中町(民家・店舗)

7  史跡平安宮跡 内裏跡(内郭回廊跡) 上.下立売通千本東入田中町(史跡指定地)

8  平安宮内裏紫宸殿跡     上.下立売通浄福寺西入田中町(民家)

9  平安宮内裏淑景舎跡(桐壺)  上.出水通浄福寺東入田村備前町(民家)

10 平安宮内裏昭陽舎跡(梨壺)   上.浄福寺通出水下る東入田村備前町(ガレージ)

11 平安宮内裏温明殿跡(内侍所跡) 上.下立売通智恵光院西入下丸屋町(ガレージ)

12 平安宮内裏東限跡と建春門跡  上.智恵光院通出水下る分銅町(松林寺)

13 平安宮内裏南限跡と建礼門跡  上.浄福寺通下立売下る中務町(京都市立二条城北小学校)

14 平安宮内裏宜陽殿跡      上.浄福寺通下立売上る下丸屋町(ガレージ)

15 平安宮大蔵省跡・大宿直跡   上.中立売通裏門西入多門町(京都市立正親小学校)

16 平安宮朝堂院大極殿跡     上.千本通丸太町上る小山町(内野児童公園)

17 平安宮西限と左馬寮跡・藻壁門跡 中.西ノ京左馬寮町(京都市立朱雀第2小学校)

  源氏物語遺跡17 平安宮西限 左馬寮跡・藻壁殿跡

18 史跡平安宮跡・豊楽院跡(豊楽殿跡) 中.聚楽廻西町(史跡指定地)

  源氏物語遺跡18 史跡平安宮跡 豊楽院跡(豊楽殿跡)

19 平安宮朝堂院昌福堂跡     上.千本通丸太町下る東入主税町(民家)

20 平安京一条大路跡       上.一条通大宮東入石橋南半町(民家)

21 一条院跡(一条院内裏跡)    上.大宮通中立売上る糸屋町(名和児童公園)

22 二条院候補地(陽成院跡)    中.夷川通小川東入東夷川町(夷川児童公園)

23 大学寮跡           中.西ノ京北聖町(京都市立中京中学校)

   源氏物語遺跡23 大学寮跡

24 斎宮邸跡           中.西ノ京東中合町(京都市立西京)

25 朱雀院跡           中.壬生花井町(日本写真印刷株式会社)

26 西鴻臚館跡          下.朱雀堂ノ口町(京都市中央卸売市場第1市場)

   源氏物語遺跡26 西鴻臚館跡

27 羅城門跡           南.九条通新千本東入唐橋羅城門町(唐橋・花園児童公園)

28 鞍馬寺 北山の「なにがし寺」候補地 左.鞍馬本町(鞍馬寺境内、由岐神社横)

29 大雲寺旧境内 北山の「なにがし寺」候補地  左.岩倉上蔵町北山病院敷地内(旧大雲寺境内)

       源氏物語遺跡29 大雲寺旧境内 北山の「なにがし寺」候補地

30 雲母坂(比叡山延暦寺の横川への上り口)   左.一乗寺竹ノ内町(関西セミナーハウス敷地)

31 雲林院            北.紫野雲林院町(雲林院)

32 遍照寺境内(夕顔のモデル大顔の舞台)    右.嵯峨広沢西裏町(遍照寺境内) 

      寺院右0014  遍照寺 昔は大規模だった

      道標右0202  おんど 車折  遍照寺境内

      石仏右031  遍照寺の石仏 と 石柱2本

33 棲霞観跡(清涼寺) 源融別業跡  右.嵯峨釈迦堂藤ノ木町(清涼寺境内)

34 野宮(野宮神社)         右.嵯峨野々宮町(野宮神社境内)

35 大堰の邸候補地(明石君邸推定値) 右.嵯峨天竜寺芒ノ馬場町(宿泊施設らんざん)

36 法成寺跡(藤原道長建立の寺院跡) 上.荒神口通寺町東入荒神町(鴨沂高校北側グランド南塀沿)

  源氏物語遺跡36 法成寺跡(藤原道長建立の寺院跡)

37 蘆山寺(紫式部実家推定地)    上.寺町通広小路上る北之辺町(蘆山寺境内)

38 梨木神社(中川の家候補地)    上.寺町通広小路上る染殿町(梨木神社境内)

39 鳥辺野(葬送の地)        東.妙法院前側町(豊国廟参道・七条通東大路東入北側)

40 大原野神社(藤原氏ゆかりの地)  西.大原野南春日町(大原野神社)

 

41 まち歩き下1594 京の通り・堺町通 NO71 石碑・源氏物語 夕顔


源氏物語遺跡19 平安宮朝堂院昌福堂跡

2019年01月25日 17時51分29秒 | 平安宮

 

 

平安宮朝堂院昌福堂跡

朝堂院は八省院とも呼ばれ、国家の政治や儀式を執り行う中枢の場であり、現在の国会議事堂に相当する施設である。

昌福堂は、平安宮朝堂院の12堂の1つで東側北端の最上位に位置する。規模は、72間の南北棟で、

東・西各3ヶ所に階段があり、建物内には太政大臣や左大臣・右大臣の座が設けられていた。

2007年に当敷地で行われた発掘調査では、昌福堂跡の北辺基壇最下段を構成していた凝灰岩の延石4石が

東西に約3m残存していたことから、ここが昌福堂の北端に位置することが判明した。

検出された延石はこの下に保存されている。

この調査結果を古地図とあわせて検討した結果、昌福堂は南北33m、東西18m規模の建物であることが判明した。

『源氏物語』では、光源氏は33歳で太政大臣になっているので(「少女・おとめ」)

儀式などの際にはこの昌福堂に坐していたことになる。平成203月 京都市

 

 

源氏物語ゆかりの地  ⇒ 源氏物語の遺跡 40ヶ所

 


源氏物語遺跡18 史跡平安宮跡 豊楽院跡(豊楽殿跡)

2019年01月25日 13時14分49秒 | 平安京

 

 

史跡 平安宮跡 豊楽院跡

朝堂院の西側にあったのが、豊楽院で、延暦19(800)以後に完成した。規模は東西171m、南北402mあり、この正殿が豊楽院である。東西に楼閣を備え、その南方には回廊でつながる長大な4つの堂が建っていた。豊楽殿には天皇が御して国家的な饗宴が行われ、特に正月元旦、大極殿での朝賀の後の饗宴は盛大であった。しかし、9世紀中ごろ以降は豊楽殿から紫宸殿へ儀式の場が移り、11世紀に入ると次第に荒廃し、康平6(1063)の焼失後は再建されなかった。正月七日この豊楽殿では、前庭に白馬を牽き出して天皇が御覧になり、宴を催す白馬(あおうま)節会がある。『源氏物語』「少女」で、源氏が二条院で白馬節会を行っているが、実際に当時の貴族邸で催されていたかは不明である。1988年に豊楽殿の北縁西側が発掘調査され、緑釉瓦で縁取りされた建物は、東西9(39)、南北4(16)と判明し、検出遺構は史跡指定を受け保存されている。また2007年には豊楽殿北廊跡とその北にあった清暑堂南縁が検出され、幅5.2mの西側階段を構成する凝灰岩の一部が見つかっている。調査の結果、北廊は清暑堂(東西基壇幅35)造営と一連に造作され、当初は単廊で後に拡幅されたことが判明している。平成203月 京都市

 

 重要文化財

 

 

源氏物語 関連 ⇒ 源氏物語の遺跡 40ヶ所

 


平安宮011  豊楽院 

2019年01月25日 10時53分26秒 | 平安宮

 

 

 

 

 

 

史跡 平安宮跡 豊楽院跡

(清暑堂跡 及び 豊楽殿北廊跡)

豊楽院(ぶらくいん)は、正月元日の節会、七日白馬の節会、16日踏歌の節会、11月の新嘗祭と天皇即位後の大嘗会などが行われた国家の饗宴の施設です。豊楽院の完成ははっきりとしませんが、文献から9世紀初頭には完成していることが分かっています。

この場所は、豊楽院の正殿である豊楽殿の真北に位置し、天皇控えの建物である清暑堂と、豊楽殿と清暑堂を繋ぐ豊楽殿北廊(以下北廊)にあたります。平成19年度に発掘調査が行われ、清暑堂と北廊の一部を確認することができました。

清暑堂では、基壇の盛土と、基壇の外装である凝灰岩を抜き取った痕跡が認められることから、清暑堂の基壇幅は東西約35m、南北約11mで、清暑堂と豊楽殿が約30m離れていることが判明しました。さらに、豊楽殿の階段幅(5.2)と同じ幅をもつ階段(西階段)が基壇に取り付いていたことが分かり、凝灰岩が組み合わさった状態で残っていました。

北廊では、版築による基壇の盛土と、屋根から落ちる雨水を受ける塼敷(せんしき)が残っていました。北廊は2度にわたって拡幅されており、北廊創建当初は、基壇幅6.4(1期)であったものが幅12.0(2期)に、さらに幅13.4(3期)に広げられていることが分かりました。

 

先の豊楽殿跡の発掘調査で、北廊は豊楽殿創建時には存在していなかったことが明らかになっており、今回の調査では、清暑堂と北廊の取り付き部分が注目されていましたが、清暑堂の中央には階段は存在せず、清暑堂と北廊は同時に造営されたことが判明しました。

清暑堂の規模を明らかにできたことは、豊楽院の解明を進めるための定点となり、北廊の変遷は、調査面積の狭い平安宮跡において重要な成果であることから、平成2年2月22日に「史跡平安宮豊楽殿跡」として指定を受けた豊楽殿跡を含めて、平成20年7月28日の「史跡平安宮豊楽院跡」と名称変更、追加指定されました。

 

 

 

 

 

 

平安宮 ⇒ 平安宮と周辺史跡 37ケ所


平安宮010  豊楽殿跡

2019年01月25日 06時30分37秒 | 平安宮

 

 

 

 

 

 

史跡 平安宮豊楽院

平安宮内には、天皇の住まいである内裏をはじめとして多数の役所が軒を連ねてました。国家的な儀式を執り行う場所として平安宮の南中央部には朝堂院が、その西側へは豊楽院が設けられました。豊楽院は、おもに天皇の饗宴を行うことを目的に造営されたものですが、先の都である平城宮や長岡宮には造られていません。

198710月から翌年にかけておこなった発掘調査によって、豊楽殿(豊楽院の正殿)の基壇の西北隅と北側建物への渡り廊下の一部を発見することができました。

盛り上がった土壇の周りに細い溝が巡っていました。これは基壇を化粧するのに用いた凝灰岩を据えた跡で、切り石の一部が部分的ではありますがよく残っています。こうした基壇を壇上積基壇といいます。これにより、今から1200年前に造られた頃の姿を知ることができます。基壇の上で、5ヶ所の礎石を据え付けた位置を確認することができました。

豊楽殿は東西(桁行)9(39.3)、南北(梁間)4(16.2)の建物で、屋根には緑色した瓦(緑釉瓦)が葺かれていました。鳳凰が羽を左右に大きく広げた姿をレリーフした緑釉の鴟尾も発見しています。

今回豊楽殿の北側で見つけた渡り廊下は、造営された時にはなく、後に造られたこともあきらかになりました。敷地内の一段高くなっている所は、基壇跡と廊下跡の一部です。平安宮跡の中でこのように基壇跡が今でも高く盛り上がっているのはこの付近だけです。

平安宮豊楽殿は、古代宮都を解明する上で重要な遺跡であることから平成2年度国の史跡に指定されました

 

 平安宮 ⇒ 平安宮と周辺史跡 37ケ所

 


平安宮009  宴の松原

2019年01月24日 22時38分58秒 | 平安宮

 

この通りは 六軒町通(南北)南を見ています  左右の道は 出水通(東西)右が西方向

 

 

平安宮 宴の松原

平安宮中央部西寄り、豊楽院(ぶらくいん)の北側にあった広場で、「縁(えん)の松原」とも記され、南北約430m、東西約250mの広がりをもち、この説明板はその東端近くにあたる。

呼称から宴の場として用いられたと考えられるが、その事実を示す記録はない。また、平安宮の南北中心線を挟んで東側の内裏と対称の位置にあたることから、天皇の代替わりに当たって内裏を建て替えるための予備の空間として用意されたという説がある。しかしながら、天長6(829)、宴の松原南東部に密教の加持祈祷を行う真言院が設けられたものの、平安時代を通じて大規模な施設が造営されることはなかった。むしろ『大鏡』や『今昔物語集』などの文学作品には、仁和3(887)8月に松の樹下で女性が鬼に殺害されたという話や、若き日の藤原道隆(953995)が、弟の道長と夜に競った肝試しで、右衛門陣から豊楽院へ行く途中、宴の松原あたりで聞こえてくる声に怯えて一目散に逃げ帰ったなどのエピソードが収められている。

この区域では、これまでに広い面積の発掘調査が実施されていないこともあり、遺跡の詳細は明らかではないが、丸太町通や六軒町通、七本松通沿いの調査では、地表から6070㎝の深さで、平安時代の整地層が見つかっている。出土遺物も多くないことから、記録とおり平安宮内に広大な空き地が広がっていた状況が想像できる。

 

 

平安宮 ⇒ 平安宮と周辺史跡 37ケ所  15番目

 

 


平安宮007 石碑  従是東北勧学院址

2019年01月24日 07時15分05秒 | 平安宮

 

 勧学院は,藤原氏出身の大学寮学生のための寄宿舎である。大学寮の南にあたる平安京左京壬生の西,三条の北に位置したので南曹ともいう。弘仁12(821)藤原冬嗣(775826)が創設し,貞観13(871)年ごろ大学別曹となる。財源は,藤原氏一族の寄進により,氏族の共同の事務も扱ったので氏院とも呼ばれた。

 

従是東北勧学院址

 

大正六年三月建之   京都市教育会

 

昭和三年六月   京都史蹟会引継

 

 

平安宮まとめ  平安宮と周辺史跡 37ケ所

 

 


源氏物語遺跡16 平安宮朝堂院大極殿跡

2019年01月23日 19時49分09秒 | 平安京

 

源氏物語ゆかりの地

平安宮朝堂院大極殿跡

平安宮は大内裏とも称し、国政・儀式・年中行事などを行う宮殿や諸官衙(かんが・役所建物)と天皇に関わる生活空間からなり、今日の東京の皇居と霞が関界隈に点在する役所を合わせたようなものである。その規模は南北約1.4㎞、東西約1.2㎞あり、周囲は築地や壖地(ぜんち・犬走)・隍(ほり・濠)で厳重に囲み、14の門があった。

平安宮の正門の朱雀門を入ると応天門をもつ朝堂院(八省院・はっしょういん)があり、この正殿が大極殿である。東西9間、南北2間の母屋の四面に庇をもち、四周に朱欄をめぐらせ、屋根は緑釉瓦で縁取られ、大棟には一対の鴟尾(しび)がのる平安宮最大の建物である。床は塼敷き(せんじ)で母屋中央に玉座の高御座が置かれる。斎宮が伊勢下向に際して、大極殿において天皇から「別れの御櫛」を額に挿してもらうが、『源氏物語』「賢木(さかき)でも朱雀帝が斎宮(後の秋好中宮・あきこのむちゅうぐう)に別れの御櫛を挿す描写がある。

大極殿は、安元3(1177)の大火後は再建されず、大極殿での儀式は内裏の紫宸殿へ移った。朝堂院の西には饗宴施設である豊楽院(ぶらくいん)、北東には天皇の居所である内裏がある。そのほか平安宮内には、二官八省をはじめとする政治を掌る官衙が建ち並び、内裏の西には宴松原と呼ぶ空閑地があった。大極殿の発掘調査では、南辺と東軒廊跡、昭慶門に取り付く東側回廊跡の凝灰岩の基壇石などが検出され、その成果から現在の「大極殿遺蹟の碑」は、大極殿の北にあった昭慶門の西側回廊の上に立っていることが判明している。

平成203月 京都市

 

源氏物語 関連 ⇒ 源氏物語の遺跡 40ヶ所

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神社左0157 平安神宮 応天門

2019年01月23日 06時39分14秒 | 神社

 

 

 

 

應天門(おうてんもん) 国指定重要文化財

應天門は、平安京大内裏の正庁朝堂院の南面正門で延暦14(794)に造営された鴟尾(しび)を置く二層碧(みどり)瓦葺きの建物で左右両廊から栖鳳(せいほう)・翔鸞(しょうらん)の二楼につながっていた。

この門は、平安遷都1100年にあたる明治28年に往時の様式を復元し、平安神宮の「神門」として建造されたものである。

建坪34.10(112)

棟高60.84(18.43)

 

関連記事 ⇒ 平安宮と周辺史跡 37ケ所

       国宝・重要文化財

神社 前回の記事 ⇒ 神社南0156 富の森 御旅所

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平安宮005  平安宮跡

2019年01月22日 21時14分55秒 | 平安宮

 

 

 

平安時代この周辺一帯には、天皇の居所である内裏や現在の国会議事堂に相当する朝堂院、国家の饗宴施設である豊楽院のほか、二官八省など数多くの役所建物が建ち並び、国家の政治の中心地でありました。各場所に設けられた説明板などを巡りながら、平安王朝の雅な世界に思いをはせてみてはいかがでしょうか。

  

朝堂院(ちょうどういん)

朝堂院は八省院ともいわれ、現在の国会議事堂に相当する南北470mを越す大規模な施設です。正門の応天門を入ると左右に朝集堂があり、さらに会昌門を入ると12堂が建ち並び、それぞれに役人の座が設けられていました。12堂の北側には、身分差を表す龍尾壇が設けられ、広場の東には青龍楼・西には白虎楼がありました。この交差点の北側には平安宮最大の建物で、屋根には緑釉瓦が葺かれた正殿の大極殿がそびえていました。

 

豊楽院(ぶらくいん)

豊楽院は、朝堂院の西隣にあった国家の饗宴施設で、南北400mを越す長大な施設です。天皇が出御されて新嘗祭・大嘗祭の宴や、正月慶賀・相撲節会・射礼などの国家行事が、ここで開催されました。

これまでの発掘調査で、正殿てある豊楽殿跡とその北の清暑堂跡及び両建物を繋ぐ廊跡が見つかり、史跡指定され保存されています。

 

 朝堂院の正殿である大極殿は天皇の即位式などの重要な国家行事が行われるところです。正月元旦には、天皇が正殿の大極殿に出御して、皇太子以下文武百官から拝賀を受ける朝賀の儀なども行われました。

 

内裏は天皇の居所で、南半は紫宸殿など政治やセレモニーの場として使われ、北半の後宮は清涼殿など天皇の私的な空間で構成されていました。『源氏物語』の「桐壺」はこの後宮を舞台にした物語です。

 

平安宮にあった二官八省のひとつ中務省は、天皇を補佐し、詔勅(天皇の命令)の宣下や叙位などの朝廷の職務全般を担当する役所で、東南には、占い・天文・時(漏刻:水時計)・暦などを職掌する陰陽寮がありました。陰陽師安倍晴明もここで活躍しました。

平安宮(大内裏)は、東西約1.1㎞、南北約1.3㎞の規模を有し、周囲を高い築地塀と隍(ほり 濠)で囲まれ、

多くの役所建物が建っていました。これまで行われた数多くの発掘調査で、建物跡のほか、

築地塀跡や溝跡などが見つかり、文献資料や陽明文庫の「宮城図」などから、内裏や朝堂院、

豊楽院ほかの役所のあった位置がほぼ明らかになっています。

 

 

 

関連記事 ⇒ 平安宮と周辺史跡 37ケ所


平安宮004 大極殿 案内板

2019年01月21日 15時28分25秒 | 平安京

 

大極殿跡

平安宮で最も重要な施設である朝堂院の正殿「大極殿」は、平安京遷都の翌年、延暦14(795)には完成。天皇の即位式のほか、正月に行われる朝賀(ちょうが)や御斎会(ごさいえ)、外国使節の謁見(えっけん)など、国家の重要な行事がここで行われた。弘仁6(815)には、地方から19,800人余りの役夫が動員されて大掛かりな修理が行われ、このとき初めて屋根に緑釉瓦が採用されたものと考えられる。

その後、貞観18(876)416日夜半の火災で焼失。元慶3(879)10月に再建(2)されたが、康平元年(1058)226日に再び火災が発生し、応天門と左方の楼を残して焼失。さらに延久4(1072)415日に再建(3)された大極殿も、安元2(1177)428日に焼失し、以後は再建されなかった。

創建当初の大極殿は、東西11間、南北4間の寄棟造りの建物とみられ、基壇の大きさは推定東西59m、南北24m、朱塗りの柱や組物、屋根の大棟両端には鴟尾(しび)をのせ、軒先や棟には緑鮮やかな緑釉瓦で縁取りされた豪壮華麗な建物であった。

大極殿の位置は、最近まで千本丸太町交差点の北側付近と推定されていたが、近年の発掘調査で、朝堂院内のいくつかの建物跡が見つかり、さらに建都から1200年目にあたる1994年には、初めて大極殿の基壇跡が地表下0.6mまで確認され、現在ではほぼその位置が明らかとなっている。

平成74



 

 

 

 

平安京の探索 ⇒ 平安宮と周辺史跡 37ケ所

 

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