アートプラス京めぐり

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京都市外も始めました 先ずは京都南部から

寺院南0540 恋塚寺

2019年01月12日 06時09分45秒 | 寺院

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北面の武士遠藤盛遠は叔母衣川殿の娘で渡辺源左衛門尉渡の妻袈裟を摂津国渡辺の橋供養でみそめた。盛遠は,袈裟を自分に与えなければ殺すと衣川殿を脅し,衣川殿は袈裟に事情を告げ,袈裟は盛遠に,渡を殺しさえすれば身を任せると約束した。盛遠は袈裟の手引きで渡の家へ忍び入り,渡らしい人影が寝ているのを斬り首を取ったが,帰って見ると実は袈裟の首であった。母と夫を救うために犠牲になったのである。盛遠は人の世の無常を悟り出家して文覚と名乗ったという。

 文覚は実在の人物であるが(11391203),袈裟御前への横恋慕は伝説であろう。袈裟御前の首を供養したと伝える塚(現在は五輪塔)が恋塚。袈裟御前と恋塚の物語は御伽草子や浄瑠璃に盛り込まれ広がり,ついに洛南鳥羽に結び付けられ,鳥羽の恋塚として知られるようになった。

 この碑は恋塚と恋塚寺の由緒を記し,袈裟を貞婦として顕彰するものである。原碑及び再建碑の題額に「重修」と記すのは,鳥羽伏見戦で寺が廃絶するまで恋塚の碑が存在したことによる。なお明治42(1909)年に建てられた原碑は劣化していたため,平成18年の本堂再建に際し再建されたものである。

 南区上鳥羽の浄禅寺(通称恋塚寺)にも袈裟御前の塚と伝える五輪塔があり,恋塚碑が立っている。

 

 

碑 文

重修恋塚寺【題額】

京都之南下鳥羽有節婦墓節婦源渡之妻也文覚葬節婦之元剏寺於旁祈

其瞑福名墓曰恋塚因以号寺後人樹碑亦置節婦夫妻及文覚之像以時奠

祭明治戊辰寺燬于兵廃為田碑亦*没于蓁莽中主僧僅営小舎居焉今住

持龍成上人学深才高為道俗所帰依上人懼古蹟之湮滅憂行祭之無所乞

衆醵貲修墓立碑就寺故址埋田墾蕪新建殿堂頗為壮麗小畑勇山欲刻其

嘉木欲使弔古之士有所慰■已成介大井子清乞余文夫節婦懼貽禍于母

与夫遂守節而死何其義烈哉文覚欲殺夫奪其妻淫暴可悪然翻然悔恨自

#為僧以謝節婦其志可亦憫矣憤平氏専権王室不振勧源公頼朝挙義討

之及平氏亡受託育孤可謂重義者矣宜名伝後世也抑方今風俗日変人皆

棄義趨利婦徳亦不如古識者憾焉今也因上人与勇山存古蹟于不朽且使

世之婦女益追慕節婦之偉行其裨補於世教豈鮮少乎余既美其挙且重子

清之言記以与之節婦之事已詳于史故不復論之勇山通称岩次郎伏見人

富義好任侠有古游侠者之風云

      明治四十二年春四月一日                     京都   豊山加藤賢成撰

 

恋塚寺碑 碑文の大意

 京都の南の下鳥羽に源渡の妻で貞節な女性(袈裟御前)の墓がある。文覚はその女性の首を葬り,その場所に寺を開き冥福を祈り,墓に恋塚と名づけ寺の名称にもした。後の世の人が碑を建て,渡夫妻と文覚の像を安置しおまつりしていた。

 鳥羽伏見の戦で寺は兵火に焼かれ廃墟と化し,碑もまた行方しれずになってしまった。時の住職は小さなお堂を建てて仮ずまいしていた。現在の住職龍成上人は学才を備えたりっぱな僧侶である。上人は古跡が滅亡し,恋塚を弔う場所がなくなることを心配し,募金をして恋塚を修理し,寺の旧地に壮麗な堂舎を新築した。

 小畑勇山(いさみやま)という人は碑を建て古跡探訪の便りにしようと思い,大井子清を介しわたし(加藤豊山)に碑文を依頼してきた。彼が言うことには「そもそも袈裟御前は母と夫に災いが及ぶことを恐れ,節義を守り死んだ。実に壮烈なことである。文覚が夫を殺し妻を奪おうとしたことはにくむべき所業であるが,そのあと悔悟し髪を切って僧となったので多少の救いがある。文覚は平家が皇室をないがしろにして勝手気ままにすることを憤り,源頼朝公を説得して討伐させた。平家が滅亡したあと平維盛の託を受けその子六代を育てたことは,文覚が義を重んじることのあらわれである。こういうことは後の世にきちんと伝えなければ成らない」。

 今の世では人の考えも大きく変り,義理を捨て利益を追求する傾向がある。婦人の徳もまた昔に比べ下落した。識者の嘆くところである。こんにち龍成上人と勇山により貞節な女性の古跡が保存され,世の女性が袈裟御前を追慕することが可能になった。世の道徳に貢献するところが大である。わたしは上人と勇山の事業を讃え,また子清の言を尊重し碑文を作った。袈裟御前のことは歴史の書に詳しいから碑文には省いた。

 勇山という人は通称を岩次郎という。伏見の人である。正しいことを好み,むかしの任侠の徒の風格を持つ人である。

 

 

 

 

 

紀念碑庭園石段寄附                                    伏見勇山事   小畑岩次郎

                                                               伏見京町一丁目   石清刻之

本堂再建時の移動等に因り崩壊の虞がある為重修

                     願主   檀家一同

                  第六十八世

                     圓譽和彦         平成十八年四月

 

関連記事 ⇒  寺院南0401 浄禅寺 浄土宗

寺院 前回の記事 ⇒ 寺院南0539 城南山 金樹寺 浄土宗

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まとめ039 平野神社

2019年01月11日 20時28分44秒 | テーマ数々

 

1  桜北034  平野神社の桜  

2  桜北020  平野神社の桜  H28.4.10

3      神社北0149 平野神社 西参道 

4      神社北0150 平野神社 境内の花 10月

5      神社北0151 平野神社 本殿・拝殿

6      神社北0152 平野神社 樟木 末社

7



 

 



石碑南0182 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発 小枝橋

2019年01月11日 20時27分04秒 | 石碑

 

 

 

大政奉還し大坂城にいた徳川慶喜(18371913)は薩摩を討つため上洛を決意し,慶応4(1868)年正月3日,幕府軍本隊を鳥羽街道と伏見街道に分けて京都に進軍した。鳥羽街道を北上する幕府軍と,これを阻止しようと竹田・城南宮周辺に布陣した官軍は,この地小枝橋で衝突した。幕府軍15千人と官軍6千人の激しい戦いであった。この石碑は,翌年夏まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見戦の勃発地を示すものである。

鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地                   小枝橋

      小枝橋は、慶応四年(一八六八)正月三日に京都を目指す幕府軍とそれを阻止しようとする新政府軍が衝突し、翌年の夏まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いが始まったところです。大政奉還し大阪城にいた徳川十五代将軍慶喜は薩摩を討つため上洛を決意します。大阪から淀川を上がって竹田街道の京橋で上陸した先遣隊に続き、幕府軍本隊が鳥羽街道と伏見街道に分かれて京都に進軍しようとします。これを阻止しようとする新政府軍は、竹田、城南宮周辺に布陣し、鳥羽街道を北上する幕府軍とここ小枝橋で衝突します。「将軍様が勅命で京に上がるのだから通せ」という幕府軍と、「勅命ありとは聞いていない、通せない」という新政府軍の押し問答が続き、幕府軍が強行突破しようとすると、薩摩藩がア-ムストロング砲を発射、この砲声を合図に幕府軍一万五千人と新政府軍六千人の激しい戦いが始まります。      こうして始まった戊辰戦争は、翌年の函館五稜郭の戦いまで続いて新政府軍が勝利します。新しい時代「明治」、ここ伏見から始まったともいえます。

   京都伏見ライオンズクラブ         平成十年七月建立

 勃発地  ⇒ 史跡南040  鳥羽伏見の戦い 跡

石碑 前回の記事 ⇒ 石碑南181 鳥羽伏見戦跡碑

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愛宕燈籠067  南区 旧千本赤池 

2019年01月11日 17時25分51秒 | まち歩き

道とかに 斜めに 設置されています

正面が愛宕山に正対するようにしてあるのだろうか

 

 

 

 

弘化2年 の建立  弘化2年は 1845年だ 鳥羽伏見の戦いの時1868年には 真っ只中に建っていた

 

 

 

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史跡南041 鳥羽殿跡

2019年01月11日 13時46分06秒 | 史跡・旧跡

 

 

 

この遺跡は、白河天皇が退位後に、院政の拠点として、11世紀の末、応徳3(1086)年に造営されたものを、昭和38年から42年にかけ調査し、建物と庭園の跡を確認したものである。南殿は鳥羽離宮で最初に造営された宮殿であり、建物跡は公園の南方にある。なお、公園内の「秋の山」は、当時の庭園の築山にあたる。

元来、鳥羽離宮というのは、この南殿と別に離れて、北殿・東殿・田中殿・馬場殿があった。それは淀川につながる大きな池沼の近辺に配置されていたものである。北殿は、名神高速道路京都南インターチェンジにあり、その遺跡は近くの鴨川の氾濫のためこわされていた。東殿は、いまの安楽寿院附近で、白河・鳥羽・近衛天皇の陵も含まれる。田中殿は遺跡がみつかっている。馬場殿は、城南宮の北と考えられるがあきらかでない。城南宮も鳥羽離宮の一部と考えられ、流鏑馬に事よせて、後鳥羽上皇13世紀のはじめ、北条氏討滅をはかったことで有名である。

これらの御所に付属する仏殿として、南殿に証金剛院、北殿には勝光明院、東殿には安楽寿院と成菩提院・不動堂があり、田中殿には金剛心院があった。南殿の御所は、西南から東北へと順次に雁行形に配置された和風建築である。寝殿・小寝殿・御堂・金剛院は、遺跡で確認され、池にのぞんで風雅に配置されていた。なお、大門・中門・中間廊・西対跡は、鴨川の堤防の下に埋もれている。

鳥羽離宮について記された文献は数多いが「平家物語」巻3に見る「秋の山の春風に 白波瀬に折懸 紫鴛逍遥す」この歌は、当時の鳥羽離宮の環境を示して最も印象的である。

 

 

 

史跡 前回の記事 ⇒ 史跡南040  鳥羽伏見の戦い 跡

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石碑南181 鳥羽伏見戦跡碑

2019年01月10日 11時58分56秒 | 石碑

 

 

 

鳥羽伏見戦跡碑

 大政奉還し大坂城にいた徳川慶喜(18371913)は薩摩を討つため上洛を決意し,慶応4(1868)年正月3日,幕府軍本隊を鳥羽街道と伏見街道に分けて京都に進軍した。この地に布陣した薩摩砲兵の一隊と幕府軍の間で戦いが繰り広げられた。この石碑は,翌年夏まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見戦の跡を示すものである。なお,石碑の建つ小高い丘は秋の山といわれ,鳥羽離宮庭園の築山の一つと伝える

鳥羽洛南之名勝也      白河帝時建離宮于此      鳥羽帝時増修   列聖時時

臨幸游豫載在史牒不知其廃于何時土人今猶指秋山一帯地曰城南離宮秋山

東有真幡寸神社旧称城南神鳥羽氏世掌其祭祀明治紀元正月官軍大破徳川

氏兵於鳥羽街道於是鳥羽之名益著矣時徳川慶喜在大阪城遣会桑等兵犯京

師自鳥羽伏見両道而進薩長等諸藩兵奉   勅守両道鳥羽則薩藩当之三日日

暮接戦于秋山下奮闘移時賊遂潰走伏見亦同時開戦亦大克之官軍追撃南下

慶喜倉皇東還尋謝罪反正其後雖東北有梗命者旬月之間悉帰平盪豈非此一

戦為之端耶距今已四十有五年矣   皇治休隆文明之化日躋桑麻被野民生安

富欲問当日戦争之跡父老希復存者今真幡寸神社社司鳥羽重晴君与地方有

志之士胥謀以斯後維新基業所由定将立石以表遺蹟又以見   聖代恩徳之深

厚也見徴余文余*此挙乃不敢辞叙其梗概又併識往古離宮故事是亦考古者

之所宜致思也

   明治四十五年二月                     貴族院議員従三位勲二等小牧昌業撰

                                                                  平安処士   山田得多書

鳥羽は洛南の名勝の地である。白河天皇が離宮をここに建設され,鳥羽天皇が拡張された。歴代の天皇はしばしば行幸し楽しまれたことは歴史書に載るところである。離宮がいつ廃止されたかはわからない。この地の人は今なお秋の山一帯を城南離宮とよぶ。秋の山に真幡寸神社があり,古くは城南神社という。鳥羽氏が代々神官として仕えている。
 明治元年正月,官軍は徳川方を鳥羽街道で大敗させた。このことで鳥羽の名は有名になった。当時,徳川慶喜は大坂城にいて,会津藩・桑名藩などの兵を京都に派遣した。軍勢は鳥羽経由と伏見経由の二つのルートを通り,薩摩藩・長州藩などの兵は,天皇の命令によりこの二つのルートを守備していた。鳥羽ルートには薩摩藩が当り,正月三日の日暮れに秋の山で衝突した。しばらくはげしい戦闘が続き,賊軍(幕府軍)は敗走した。伏見ルートでも同時に戦闘が始まり,同様に官軍が勝利を収めた。官軍は逃げる幕府軍を追撃した。慶喜はあわてて江戸へ帰り,官軍にはむかったことを謝罪した。その後,東北で官軍にさからう者はいたが,ひと月で官軍に掃討された。
 鳥羽伏見の戦は実に戊辰戦争の発端をなすものである。今を去ること四十五年。こんにちでは明治の文明の恵みが行きわたり,戦争のことを尋ねたくても,当時のことを知る人は非常に少なくなった。そこで真幡寸神社社司鳥羽重晴氏は鳥羽の有志と相談し,維新の偉業の基礎となった場所に石碑を建て,現在の日本の発展を記念することを計画した。そこでわたし(筆者小牧得業)に碑文を依頼された。そこで鳥羽伏見戦の概要を記し,あわせて鳥羽離宮のことを添えた。これもまた古いことを究明する者にとっては見過ごすことができない

 

 

 

発起人

         真幡寸神社社司

                  鳥羽重晴

         仝社掌

                  鳥羽重節

         氏子総代

                  大橋三郎兵衛

                  高橋五左衛門

                  竹内源左衛門

                  小山浅次郎

                  西井栄次郎

                  山本市之助

                  長谷川末吉

         京都石工   武輪角次郎刻

 

 

石碑 前回の記事 ⇒ 史跡南039 西寺跡  石碑南0180 西寺跡

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愛宕燈籠066  南区 小枝橋 近く  鳥羽伏見の戦いを知っている

2019年01月10日 06時24分12秒 | まち歩き

 

右方向が 南  愛宕山

愛宕山

 

文字が読みにくい  安政の安じゃないかな

 

町内安全

 

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史跡南040  鳥羽伏見の戦い 跡

2019年01月09日 17時02分45秒 | 史跡・旧跡

 

城南離宮 右 よど  や八た

 

左り 京ミち   

安政六年 上鳥羽村 未五月 奈佐氏

昭和六十三年辰五月 城南宮 復元建立

安政六年 上鳥羽村 未五月 奈佐氏

 

鳥羽伏見の戦い 勃発の地

明治元年(1868)正月3日夕刻、この付近で起きた戦が「鳥羽伏見の戦い」の発端となった。

「王政復古の大号令」の後、徳川将軍家の領地返納を強行採決した薩摩・長州らの藩に、不満を覚えた幕臣・会津・桑名らの藩は、正月1日挙兵、大坂から京へ攻め入ろうとし、薩摩、長州の新政府軍がこれを迎えうった。

城南宮には、薩摩藩の野津鎮雄らが大砲を備えて布陣し、竹田街道を北上してきた桑名軍と幕府大目付・滝川具挙が、小枝橋を渡ろうとするのを、薩摩藩兵が阻止して談判の後、ついに薩摩側から発砲した。その一弾があたかも合図となって戦端はひらかれ、鳥羽と伏見の両方面で激戦が展開された。幕府軍は約2万、新政府軍は約5千の兵力であったが、新政府軍の大砲・鉄砲などの新式の武器の威力が幕府軍の行く手を阻んだ。また新選組も、近藤勇沖田総司をけがと病気で欠いていたものの、土方歳三永蔵新八以下の隊士たちが伏見奉行所詰めからこの戦いに加わっている。しかし新選組らの奮闘も虚しく、幕府軍は正月6日ついに大坂城に向け退陣した。ひの一戦を皮切りに、約2年にわたる戊辰戦争が始まったのである。

 小枝橋について

その昔京都(平安京)への渡り口である小枝橋はいい伝えによりますと杭を打った上に板を渡した木の橋であり、その後昭和のコンクリートり橋が出来るまでは土を固めた土橋であったと伝えられています。この橋は京都が都と云われた時代には重要であり、当時大阪(浪速)に渡来した大陸からの文化はすべてこの橋を渡って渡来して来たものと思われます。当時庶民にとっては何かにつけて都は憧れであり、西方からの旅人はこの橋迄たどりつく事により安堵したとの事です。そして以前は時により鴨川が氾濫して橋が流された様です。又、明治維新や日本赤十字社の創設の原因を作った戊辰戦争の戦端が開かれた場所でもあります。

昭和に入って交通機関の発達する迄は小枝橋を荷車や歩行の人々が利用していました。現在は地元民や伏見地域の人々は元より東西南北の通過橋としてかけがえのないふれあいとコミニケーションが保たれる橋として役立っています。

 

 道標 前回の記事 ⇒  道標西0203 従是東山城国

史跡 前回の記事 ⇒  史跡南039 西寺跡  石碑南0180 西寺跡

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寺院南0537 正覚山  実相寺 日蓮宗

2019年01月09日 06時24分44秒 | 寺院

 

 

 

 正覚山と号し、文和元年(1352)日像上人の弟子大覚僧正(妙実上人)が後光厳天皇の勅命をうけ、この地において祈雨祈祷を行った由縁により、創建された。日蓮宗の寺。その後、妙覚寺(上京区)の隠居寺となったが、近世初頭、不受不施派となったため、弾圧をうけて退転し、50年間ほど回復しなかった。寛永年間(1624~44)、松永貞徳の兄が当寺の住持となり、貞徳の帰依を受けたことから寺運は隆盛になり、寺中4ヶ寺を数えるまでになった。しかし、その後しばしば水害を受け、明治8年(1875)には残っていた1ヶ寺も焼失した。今の本堂は嘉永4年(1851)の再建のもので、本尊釈迦多宝仏および「日蓮うなずきの像」を安置する。什宝に貞徳像や同画像および関係遺品等がある。

 

 

 

 車石・車道

江戸時代、下鳥羽から上鳥羽を経て羅城門までの鳥羽街道は、横大路・下鳥羽の湊に荷揚げされた年貢米や穀類・木材などを洛中へ運ぶ牛車の専用道路(車道)であった。人や馬の通る往還まぬかるみ対策で人馬道がかさ上げ改修を繰り返すなかで、街道の片側あるいは中筋の車道は、一段低く位置することになった。この区間は、低湿地帯で、雨でも降れば土道である街道はぬかるみ、牛車の車輪がぬかるみにとられてスムーズに通ることができなかった。

そこでも江戸時代の後期、車道の車輪の通るところに2列に、規格化された厚板石を並べ牛車を通りやすくした。この敷石が車石(輪形石(わがたいし))である。車石は、下鳥羽辺りから上鳥羽を通り羅城門付近まで、延々と敷設されており、単線のため、午前中は上り、午後は下りと一方通行になっていた。車石に残る深い轍の跡は、重量物を運ぶ牛車の頻繁な往来によりできたものである。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本堂の天井に描かれています

 

 関連記事 ⇒  まとめ005 車石 のあるところ

        祠下005  花咲稲荷神社  松永貞徳の邸にあった鎮守社

 寺院 前回の記事 ⇒ 寺院南0536 西教寺 浄土真宗本願寺派

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歴代斎王譜 葵祭り  と 関係あります

2019年01月08日 13時27分51秒 | 京で燃える女性たち


代  斎王名        卜定年月       陵墓

1  有智子(うちこ)内親王 弘仁元年9月

2  時子内親王(ときこ)  天長8年12月

3  高子内親王(たかいこ) 天長10年3月

4  慧子内親王(けいこ・あきら) 嘉祥3年7月

5  述子内親王(のぶこ)  天安元年2月

6  儀子内親王(のりこ)  貞観元年10月

7  敦子内親王(あつこ)  元慶元年2月

8  穆子内親王(むつこ)  元慶6年4月

9  直子女王(なおこ)   寛平元年2月

10  君子内親王(きみこ)  寛平5年3月

11  恭子内親王(たかこ)  延喜3年2月

12  宣子内親王(のぶこ)  延喜15年7月

13 韶子内親王(あきこ)  延喜21年2月

14 婉子内親王(つやこ)  承平元年12月

15 尊子内親王(たかこ)  安和元年7月

16 選子内親王(のぶこ)  天延3年6月

17 馨子内親王(かおるこ) 長元4年12月

18 娟子内親王(よしこ)  長元9年11月

19 禖子内親王(みわこ)  永承元年3月

20 正子内親王(まさこ)  康平元年6月

21 佳子内親王(よしこ)  延久元年10月

22 篤子内親王(あつこ)  延久5年3月

23 斉子内親王(ただこ)  承保元年12月

24 令子内親王(よしこ)  寛治3年6月

25 偵子内親王(よしこ)  康和元年10月

26 官子内親王(きみこ)  天仁元年10月

27 悰子内親王(やすこ)  保安4年8月

28 統子内親王(むねこ)  大治2年4月

29 憘子内親王(よしこ)  長承元年11月

30 怡子内親王(よしこ)  長承2年12月

31 式子内親王(のりこ)  平治元年10月

32 僐子内親王(よしこ)  嘉応元年10月

33 頌子内親王(のぶこ)  承安元年6月

34 範子内親王(のりこ)  治承2年6月

35 礼子内親王(いやこ)  元久元年6月  陵墓右004  禮子内親王 陵墓

  退化         建暦2年9月  斎院制度廃止


        神社上0071 櫟谷七野神社  葵祭・斎王代も訪れる

 


まち歩き南1000 多数の 魚 が泳いでいました その数 21匹

2019年01月08日 11時22分52秒 | まち歩き

 

川の水が泡立っいるのがちょっと気になります 汚染されていないのかな

 

まち歩き 前回の記事 ⇒ まち歩き南0999 樹木優先 道がカットされいます

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