藤田(権)家文書 藤田家は権十郎を名乗り、横大路村の庄屋をつとめるいっぽう、運送業を生業とした家。 文書の内容は、大きく(1)村・庄屋関係、(2)家業(運送業)関係、(3)明治期の村役場 関係、(4)家関係、に分類できる。 (1)は、藤田家が庄屋をつとめていた東福寺領横大路村南方の料所に関する文書 で、内容は検地帳(延宝 7)、「東福寺御領持高書付帳」(文化 8)、年貢米目録、年貢皆 済目録、田畑・屋敷の高帳、毛附引抜帳、寺割下帳、免割下帳、百姓加役皆済帳、 高懸入帳、「指出シ色沢帳」「下検見帳」「免定」「四方町寄帳」「植付帳」、その他諸入 用帳などの土地・年貢・課役関係、宗門人別改帳(文化 13、文政 6、天保 2、安政 4)、
町・村送り状、寺請状等の戸籍関係、桂川・鴨川の川浚え・藪刈り取りに関する申請、 水利工事・屋敷地の普請願、それに証文類・絵図類など多岐にわたっている。このう ち水利工事に関する普請願のなかには堤防・水門・樋・悪水抜きなどの工事が含まれ、横大路村がたびたび水害を被った事情を反映している。またこの事実に関連して、 救い米・合力米の申請文書・名前帳なども残されている。 (2)は、当家が運送問屋として京上する物資を当地で船から車に積み替えて運送していたことに関するもので、そのなかには車方惣中の文書を多数含む。とくに横大路 村は下鳥羽村とともに禁裏料米・二条詰米を荷揚げする港としての役割をもっていた が、両村問屋間ではその荷揚げ量の割り当てに対してたびたび不満が起こったらしく、 それに関した申請・約定に関する文書が残る。また、とくに二条詰米については、多 数の廻状、勘定帳、運上する近国の代官所・蔵所に対する一札、などがあり、運送の 実際を知るうえでの重要な史料である。明治初年のものとしては「淀より二条御蔵迄 運送諸入用覚」(明治 2)、「京都府租税米着届控」(明治 8)などがある。その他、冥加 銀上納覚・送状・請取状などの証文類が多数残る。 車方文書は横大路問屋差配下の車方の動向を知ることができるもので、問屋に対 する諸願書・木津屋橋筋 9 町と鳥羽街道筋車年寄との車通行に関する和談一件(延 享頃)、「鳥羽海道車数覚」(享保 13)、「車持惣中六組覚」(文化 15)などを含んでいる。 (3)は、当家が村の有力者として戸長・紀伊郡郡会議員の任にあったために残された史料。内容は、明治期から大正期にかけての村会規則・議案・予算案・決算・村有 財産明細表・村費出納簿・給料日当簿・人足賃金簿・廻状・委任状などの役場関係の 文書、それに桂川に架かる橋の付け替え・修繕や宇治川堤防の切所欠所の修繕・仮 堰工事に関する仕法書・申請書類・入用帳、開墾上申書などの土木・水利関係の文 書である。またそのほかに、「山背邨々廻巡帳并庄屋人名」(明治 4)、「橋上り銭留帳」 (明治 15)などがある。 (4)は、量的には少なく、明治期のものが中心。内容は小作に関するもの、慶事の 諸控、所蔵脇差目録などである。
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この地一念寺は,天武3(674)年道昭(629~700)の開創で,その後元興寺派法相宗の寺として存続。承元元(1207)年3月16日,円光大師(法然)は,念仏停止の罪により藤井元彦の俗名を受けて土佐に流された。その折鳥羽の港に近いこの寺に入って弟子らと最後の別れを惜しんだ。永享9(1437)年,真阿(1385~1440)がその遺跡の荒廃を悲しみ,再興し浄土宗に改宗した。
円光大師 御旧跡
なこり乃御ミやうごう
南無阿弥陀仏 一念寺
寺伝によれば、天武天皇即位2年(674)僧道昭が創建し、奈良の元興寺に属する法相宗の寺であったが、永享年間(1429~41)に、後亀山天皇の皇子で、寺町頭(上京区)に十念寺を創建したが、法然上人の霊跡を慕ってこの地に来往し、真阿上人によって再興され、浄土宗に改められたといわれている。
本堂に安置する本尊阿弥陀如来像は、定印をむすんで結跏趺坐する丈六の巨像で、俗に「鳥羽の大仏」と呼ばれ、人々から親しまれている。この大仏は、当寺の再興に当たって、東大寺念仏堂から移されたものと伝えられている。門前の鴨川畔は、永享12年(1440)66歳で没した真阿上人遺命により、遺体が水葬されたところで、「真阿ヶ淵」と呼ばれ、以後永く殺生禁断の地とされてきた。 京都市
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院南0545 法傳寺 石碑南185 戊辰東軍戦死者之碑
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浄土宗 瑞華山
精忠碑 明治43年4月建設
支那事変 大東亜戦 戦没者之碑 建立されたのは昭和 裏面に戦死者名が記されています
戊辰東軍戦死者之碑 太宰府宮小路康文書
この碑は,戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見戦の東軍(幕府軍)戦死者を供養するものである。法伝寺の門前は鳥羽街道で,慶応4(1868)年正月3日から5日にかけて激しい戦闘が繰り広げられた。明治40年に戦死者四十年祭が執行された時に,悟真寺・妙教寺・長円寺に3基の東軍戦死者招魂碑が建設されたが,本碑はその先駆と見なされ碑前でも法要が行われている。
明治三十年 一月吉晨建之
発起人連名
林留治郎 奥田清兵衛 大澤又左衛門 小笹忠治郎 織田藤治郎
高志原親 松川常七 福知彦左衛門 藤田権助 小池龍成
■■仁兵衛 斉内六郎兵衛
特賛助兼彫刻 京都石田半三郎
戦死者埋骨東北悲願寺墓地
この石碑は
出征軍人姓名 ・・・発起人 在郷軍人
関連記事 ⇒ 悟真寺・妙教寺・長円寺
寺院 前回の記事 ⇒ 寺院南0544 本願寺
石碑 前回の記事 ⇒ 院南0542 常高寺 石碑南0184 今出川菊亭
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鳥羽の大石
この石は、河原を公園化する「京の川」整備事業の際、龍門堰下流数百メートル付近の鴨川の水中から、
郷土を愛する人達により引き上げられました。
これは一体、何の石か。
何時、何処から、誰が、何の為に運び、ここに何百年もの永きにわたり川底に眠っていたんだろう。
一説によると、寛文2年(1662年)5月、京都を中心に大地震が発生し、二条城も大被害を受け、
建物や石垣の修理を行った記述が古文書に残されています。
当時、ここ下鳥羽三町付近の鴨川に「鳥羽の港」があり、京の都へ、人や物資が行き交う交通の要の港として栄えたと伝えられています。
この石も二条城の城郭石材として使われる為に、瀬戸内の石切り場から水運で鳥羽の港へ、そしてこの地で陸揚げされ修羅などに乗せて陸路、二条城へ運ばれるものが、途中何らかの原因でこの川底に沈み、現在まで眠っていたと考えられます。
二条城の石を調査したところ、城門の飾り石に使用されている物と、石質や寸法、くさび跡「矢穴痕」などが鳥羽の大石と大変良く似ていることが判明しました。その当時の残石だと言う説が有力です。
京の川 下鳥羽整備委員会 京都鳥羽ライオンズクラブ
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