具合の悪い時というのは、心身ともに鉛のように重く淀み、生き苦しくなります。
ただ、仕事や生活は待ったなしで迫ってきます。
そんな時、何もしたくないと思うのは心の正しい反応で、それは身体を休ませるための防衛本能であるわけです。
私たちを休ませるためならば、自我は手段を問わず、いわゆるネガティヴ想念を送り続けます。
そうしたものをスルーする技だけ身につけて、そのまま無理な生活を重ねてしまうと、芯の部分のエネルギーが枯渇
していき、そのうち何に対しても喜びや興味が湧かなくなってしまい、酷くなると、生きることそのものに対しても
そうなってしまいます。
その想念を私たちがキャッチした時、自我は一気に自分の方向へ引き込むため、さらに畳み掛けてきます。
たとえば、生きていくこと自体もう十分やった、これ以上新しいことも無かろう、と。
すると私たちは「本気で」そのように思えてしまいます。
元気になれば「そんな筈はない」と分かるのですが、渦中にいる時は、それ以外の考え方は実体のない綺麗事に
しか思えず、唯一それだけが実感を伴った真実に見えてしまいます。
自我が私たちを止めたり、あおったりするのは、私たちがそれ以上無理をしたら危ないからこその方便であり、
何としても身体と心を休ませるための「落ち込み」であるわけです。
本来は、ハタと立ち止まらせて、人生をしっかり味わえるようにするための措置なのに、人生そのものをリセット
させてしまいたくなってしまうのでは、それこそまさに本末転倒でしかありません。
とはいえ、それが頭で分かっていても、渦中に居る時はどうにもならないのも確かです。
ならば、例えば豪雪の続いた時に、深い積雪を背負った柳が柔らかくしなるようにして、たまに雪が滑り落ちると
フッと息をつきながら、騙し騙し春の訪れるまでしのぐしかないとも言われます。
ですが、その重荷が滑り落ちることもなく積もり積もって枝も伸びきって変形してしまうと、たとえ雪が滑り落ちて
フッと息をつこうにも曲がったまま戻ることもできず、そのうち自重で根元から折れてしまうということだって
あるわけです。
曲がったまま元に戻らない状態の時というのは、ラクになりたいという欲求ですらなく、ただもう何もしたくない
という感覚しかありません。
真っ暗の終わりでいい。
無でいい。
何にも無しでいい…と。
ラクになりたいから死を選ぶのではなく、ただ、もう、何もない真っ暗闇の無になりたいという思い。
煩悩に埋め尽くされて真理が全く見えない状態を「無明」と言いますが、明るさも無ければ、煩悩すらない、欲と
いうものがなく、ただ何も無い世界、無明そのものに自ら溶け込みたいという感覚です。
もはや理屈ではありません。
それが魂への不遜だとか、ならんものはならんのだとか、すべて頭で冷静に分かっていても、どうしようも無い
状態ですから、まさにどうしようもない。
自分でも嫌なのに、どうにもならない。
文字どおり救われない状態です。
前回、震災の地獄絵図の中で、命を輝かせる人間の逞しさ、神々しさを書きましたが、そこに至るまでの寸前は、
そんな綺麗事ではなく、このようなドロ沼の中の苦しみがあったことでしょう。
そして、震災に限らず今この瞬間も、そうした苦しみの最中にいる人たちも数多くおられることでしょう。
気力というのは、生命や魂の輝きから遠く隔たってしまうと、虚無そのものになってしまいます。
それは絶望の淵に立たされた時や、苦しみの果てに進まされた時、誰しもが陥るものです。
対岸でいくら明るい話や綺麗な話をされても、それはあまりにも遠い世界の出来事にしか映りません。
この救われない状態になってしまった時は、どんな解決策も無いという確信を抱いてしまいます。
どんな話を聞いても、それを近くに感じることができないからです。
そこまで行ってしまった時は、とにかく今すぐただちに、自分のやりたいようにやるしかありません。
「やりたいようにやる」というのは、「やりたくないことはやらない」というのもその一つです。
何もやりたくない、生きることすらもやりたくないとなってしまったら、会社に行くのもやめて、家に戻るのも
やめて、全てを放り出して、大自然の中でボーっとするのもいいでしょう。
「何かをしなくてはいけない」という思いそのものを全てやめるということです。
あるいは、本当に意味のないこと、無駄なこと、もったいないと思うようなこと、そのようなことをやってみるのも
いいかもしれません。
これはまさに子供がやる行動そのものです。
大人から抑圧された子供は、自分の内なる衝動との間に挟まれた結果、本当に意味不明なムチャをやったりします。
「なんでそんなことするの?!」と怒られた経験は誰にもあることでしょう。
会社や上司、仲間、家族から、怒られるかもしれない。
白い目で見られるかもしれない。
ごちゃごちゃ言われて、あとであれこれ説明すること自体がしんどい…
そのように様々な思いが浮かんでくるかもしれません。
それでも、とにかく今は全てを放り投げてしまう。
あらゆるしがらみを捨ててしまうことが、全てに優先されることです。
子供は本能的に天地宇宙の流れに素直に反応しています。
子供がやるように真似るのが一番です。
とにかく、死んだらおしまいです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
遥かな昔、同じような状況に陥った神様がおられました。
国造りに共に勤しんだ少彦名命(スクナビコナ)が亡くなった時、絶望の淵に立った大国主命が膝をついて
うつ伏していますと、海の向こうから光り輝く希望が現れました。
何者かと問うと「私はおまえの幸魂、奇魂である」と答えました。
そして、「丁重に私を祀れば、国造りは上手くいくだろう」と答えたのでした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
つまり、いま対岸に映っている絵空事のような輝きというのは、他の何でもない、私たち自身の魂そのものなのです。
今この目の前をしのげば、必ず希望の輝きが現れます。
何故ならば、希望の輝きの正体とは、私たちの魂であるからです。
私たちは、私たち自身によって救われるのです。
国造りとは、人生造りのことでもあります。
人生を造っていくためには、私たちだけではなく、私たちの魂、真我の存在が絶対だということです。
私たち自身の魂を敬い、奉ることはとても重要なことです。
岩戸の中は、漆黒の暗闇であるものです。
そして、希望の光が私たち自身の魂であるならば、それは間違いなく存在し、そして必ず現れます。
ですから、どんな手段を使っても、今この瞬間をしのぐということです。
たとえ情けなくても、卑怯でも、人間関係をぶち壊してしまっても、犯罪でない限りは、とにかくリセットせずに
今をしのぐのみです。
しのげさえすれば、どんなものも全て正当化されます。
この瞬間がもったいないとか、相手に申し訳ないことをしたとか、自分自身に対して許しがたいことをしたとか
そんなことはあとでいくらでも後悔すればいい。
あとで後悔できる話です。
とにかく、死んではいけない。
死んではいけないのです。
この一点をしのぐためなら、他のあらゆることは必要ない。
がんばれ!
がんばれ!!
希望の光は、すぐそこに、壁一枚の向こうにあるのだから!
ただ、仕事や生活は待ったなしで迫ってきます。
そんな時、何もしたくないと思うのは心の正しい反応で、それは身体を休ませるための防衛本能であるわけです。
私たちを休ませるためならば、自我は手段を問わず、いわゆるネガティヴ想念を送り続けます。
そうしたものをスルーする技だけ身につけて、そのまま無理な生活を重ねてしまうと、芯の部分のエネルギーが枯渇
していき、そのうち何に対しても喜びや興味が湧かなくなってしまい、酷くなると、生きることそのものに対しても
そうなってしまいます。
その想念を私たちがキャッチした時、自我は一気に自分の方向へ引き込むため、さらに畳み掛けてきます。
たとえば、生きていくこと自体もう十分やった、これ以上新しいことも無かろう、と。
すると私たちは「本気で」そのように思えてしまいます。
元気になれば「そんな筈はない」と分かるのですが、渦中にいる時は、それ以外の考え方は実体のない綺麗事に
しか思えず、唯一それだけが実感を伴った真実に見えてしまいます。
自我が私たちを止めたり、あおったりするのは、私たちがそれ以上無理をしたら危ないからこその方便であり、
何としても身体と心を休ませるための「落ち込み」であるわけです。
本来は、ハタと立ち止まらせて、人生をしっかり味わえるようにするための措置なのに、人生そのものをリセット
させてしまいたくなってしまうのでは、それこそまさに本末転倒でしかありません。
とはいえ、それが頭で分かっていても、渦中に居る時はどうにもならないのも確かです。
ならば、例えば豪雪の続いた時に、深い積雪を背負った柳が柔らかくしなるようにして、たまに雪が滑り落ちると
フッと息をつきながら、騙し騙し春の訪れるまでしのぐしかないとも言われます。
ですが、その重荷が滑り落ちることもなく積もり積もって枝も伸びきって変形してしまうと、たとえ雪が滑り落ちて
フッと息をつこうにも曲がったまま戻ることもできず、そのうち自重で根元から折れてしまうということだって
あるわけです。
曲がったまま元に戻らない状態の時というのは、ラクになりたいという欲求ですらなく、ただもう何もしたくない
という感覚しかありません。
真っ暗の終わりでいい。
無でいい。
何にも無しでいい…と。
ラクになりたいから死を選ぶのではなく、ただ、もう、何もない真っ暗闇の無になりたいという思い。
煩悩に埋め尽くされて真理が全く見えない状態を「無明」と言いますが、明るさも無ければ、煩悩すらない、欲と
いうものがなく、ただ何も無い世界、無明そのものに自ら溶け込みたいという感覚です。
もはや理屈ではありません。
それが魂への不遜だとか、ならんものはならんのだとか、すべて頭で冷静に分かっていても、どうしようも無い
状態ですから、まさにどうしようもない。
自分でも嫌なのに、どうにもならない。
文字どおり救われない状態です。
前回、震災の地獄絵図の中で、命を輝かせる人間の逞しさ、神々しさを書きましたが、そこに至るまでの寸前は、
そんな綺麗事ではなく、このようなドロ沼の中の苦しみがあったことでしょう。
そして、震災に限らず今この瞬間も、そうした苦しみの最中にいる人たちも数多くおられることでしょう。
気力というのは、生命や魂の輝きから遠く隔たってしまうと、虚無そのものになってしまいます。
それは絶望の淵に立たされた時や、苦しみの果てに進まされた時、誰しもが陥るものです。
対岸でいくら明るい話や綺麗な話をされても、それはあまりにも遠い世界の出来事にしか映りません。
この救われない状態になってしまった時は、どんな解決策も無いという確信を抱いてしまいます。
どんな話を聞いても、それを近くに感じることができないからです。
そこまで行ってしまった時は、とにかく今すぐただちに、自分のやりたいようにやるしかありません。
「やりたいようにやる」というのは、「やりたくないことはやらない」というのもその一つです。
何もやりたくない、生きることすらもやりたくないとなってしまったら、会社に行くのもやめて、家に戻るのも
やめて、全てを放り出して、大自然の中でボーっとするのもいいでしょう。
「何かをしなくてはいけない」という思いそのものを全てやめるということです。
あるいは、本当に意味のないこと、無駄なこと、もったいないと思うようなこと、そのようなことをやってみるのも
いいかもしれません。
これはまさに子供がやる行動そのものです。
大人から抑圧された子供は、自分の内なる衝動との間に挟まれた結果、本当に意味不明なムチャをやったりします。
「なんでそんなことするの?!」と怒られた経験は誰にもあることでしょう。
会社や上司、仲間、家族から、怒られるかもしれない。
白い目で見られるかもしれない。
ごちゃごちゃ言われて、あとであれこれ説明すること自体がしんどい…
そのように様々な思いが浮かんでくるかもしれません。
それでも、とにかく今は全てを放り投げてしまう。
あらゆるしがらみを捨ててしまうことが、全てに優先されることです。
子供は本能的に天地宇宙の流れに素直に反応しています。
子供がやるように真似るのが一番です。
とにかく、死んだらおしまいです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
遥かな昔、同じような状況に陥った神様がおられました。
国造りに共に勤しんだ少彦名命(スクナビコナ)が亡くなった時、絶望の淵に立った大国主命が膝をついて
うつ伏していますと、海の向こうから光り輝く希望が現れました。
何者かと問うと「私はおまえの幸魂、奇魂である」と答えました。
そして、「丁重に私を祀れば、国造りは上手くいくだろう」と答えたのでした。
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つまり、いま対岸に映っている絵空事のような輝きというのは、他の何でもない、私たち自身の魂そのものなのです。
今この目の前をしのげば、必ず希望の輝きが現れます。
何故ならば、希望の輝きの正体とは、私たちの魂であるからです。
私たちは、私たち自身によって救われるのです。
国造りとは、人生造りのことでもあります。
人生を造っていくためには、私たちだけではなく、私たちの魂、真我の存在が絶対だということです。
私たち自身の魂を敬い、奉ることはとても重要なことです。
岩戸の中は、漆黒の暗闇であるものです。
そして、希望の光が私たち自身の魂であるならば、それは間違いなく存在し、そして必ず現れます。
ですから、どんな手段を使っても、今この瞬間をしのぐということです。
たとえ情けなくても、卑怯でも、人間関係をぶち壊してしまっても、犯罪でない限りは、とにかくリセットせずに
今をしのぐのみです。
しのげさえすれば、どんなものも全て正当化されます。
この瞬間がもったいないとか、相手に申し訳ないことをしたとか、自分自身に対して許しがたいことをしたとか
そんなことはあとでいくらでも後悔すればいい。
あとで後悔できる話です。
とにかく、死んではいけない。
死んではいけないのです。
この一点をしのぐためなら、他のあらゆることは必要ない。
がんばれ!
がんばれ!!
希望の光は、すぐそこに、壁一枚の向こうにあるのだから!