正しさを追いすぎると泥沼に落ち入る危険があります。
私たちが独自の判定器(信念、価値観、人生観、損得勘定など)を使って道を選ぶなら、その先はその道に応じた展開となります。
このような無限ループに陥るとなかなか抜け出せなくなります。
やったもん勝ちという発想も、結局は判定器の生み出したものに過ぎません。
本人が善悪や損得といった判定器を使わず過ごしていれば、仮にそれが他人の判定器では悪事となるようなことをやったとしても、その人は自業自得の結果にはなりません。
少し本題から逸れてしまいましたので元に戻したいと思います。
正義や正論を追って自分を縛るのは、自らを鳥かごに閉じ込める行為に他なりません。
せっかく色々なことを味わいに来ているのに、それは命の無駄遣いになってしまいます。
縛りつけられた自分を選ぶわけですから、縛られた現実が創造されていきます。
人生に夢も希望も無くてニートになるというのは、まさにこのパターンです。
理想と現実の折り合いがつけられず、理想に縛られた結果、縛られた現実を選んでいるわけです。
好き勝手の我執や我欲にまみれた人たちがいつまでも安息の地を得られないように、正義や正論にまみれた人たちもまた、いつまでも安心の境地に辿り着くことは出来ません。
国会議事堂に向かって拡声器で叫ぶ。
アメリカに向けてデモ行進をする。
それなのに野党の落ち度は責めず、ロシアや中国を非難することもない。
明らかに安全な相手しか批判しない。
それは本当に現実を変えたいのではなく、ただ己の不満を吐き出したいだけです。
しかしそれでは格好悪いので、依って頼れる正論を探し出す。
正論が見つかなかったら、嘘を捏造してでも必死に己のよるべを求める。
正義・正論といってもピンキリですが、いずれにしても、かくも都合のいいように作ることのできるものなのです。
いや自分の場合そんな低レベルなこととは違うと誰もが思うところですが、ここで言いたいのはその中身の話ではなく、正義や正論というものはそうやって驚くほど簡単に作られていくものだという、その仕組みのことなのでありました。
それは人として立派なことですが、何ごともちょうどいい加減というものがあります。
猪突猛進にやり過ぎてしまうと、何もやらない方がマシということにもなりかねません。
自分自身をクソ真面目に縛ることは、自分自身に甘く怠惰に流されることと本質的には変わりません。
最初は清らかな心でスタートしていても、我執に囚われ盲目になってしまっていることがあるということです。
もし自分がどうなっているのか分からない時には「寛容性」によって判別することができます。
相手の存在を大目に見られるか、それとも決して見過ごせないか、ということです。
自分が正しいと思うことでこの世を埋め尽くしたい、それ以外のものは駆逐排除したいというのは明らかに我執の垂れ流しです。
そうしたことは、正義や理想を掲げた世界中の国々、西方の大国、あるいは隣国もしかり、また国内の左右どちらにも見られることです。
確かに自分の正しさに満たされた世界は、安心安泰に過ごせるかもしれません。
でもそれでは正しさではなく、自分の安心を求めていることになります。
こうした傾向が、特に知識階級などに多いのは、他人から認められたい、守られたい、安心したいという思いが人一倍強いというのもあるでしょう。
そうした隠れ蓑は、それが崇高であればあるほど危険度が増していきます。
ですから正義や正論もしかり、ましてや真理を追うとなると、より一層の慎重さが必要となるのです。
崇高なものは高みにあるものだと思い込むと、本当の景色が見えなくなります。
落とし穴はあらゆるところにあります。
たとえば「道端の雑草にも真理が現れている」などというのも、表現の美しさに酔ってるだけということにもなり得るのです。
見た目の崇高さを追うと足元からすくわれてしまいます。
崖の上や地の果てに行かずとも、この世というのがすでに真理そのものです。
特別なもの、凄いものを探して背伸びする必要はありません。
認めたくないかもしれませんが、嫌いなアイツもダメダメな自分も、真理そのものなのです。
天地宇宙というのは、すべてを許容する世界です。
こうでなければダメというものは何一つありません。
絶対的に正しいものなど存在しないのです。
にも関わらず、私たちは正しさというものを信じて追い続ける。
そうなると、自分は正しい、間違っているのは相手だとなる。
それを認めてしまうとそのぶん自分の主張(=安心・安全)が目減りすると感じてしまうからです。
だからこそ一歩も譲らず相手を組み伏せようとする。
それは天地の理とは対極にある不寛容そのものでしょう。
見通しの悪い横断歩道なのに青信号だからと左右も見ずに無防備に渡る人がいます。
私の権利だ、私が正しい、と正義や権利を主張することが染み付いていると当たり前のことも分からなくなります。
そこに無謀な運転をする車や自転車が突っ込んでくることだってあるでしょう。
それに対して、悪いのは相手だと睨みつけて終われば幸いですが、万が一大怪我をしたり、まかり間違って命を失ったらどうなるでしょう。
もちろん悪いのは相手です。
その相手は断罪されるでしょうし、賠償金も払わされるでしょう。
でも自分の痛みや命は元に戻りません。
相手を糾弾して恨み続けたところで自分は少しも救われないわけです。
まわりに同情され、貴方は少しも悪くないと慰められても何一つスッキリするはずがありません。
正しさに寄り掛かり、外に向かっては不寛容の声をあげる。
得体の知れないものに思考も判断も預け、安心しきって無思考に生きる。
誰も責任を持たないフワフワしたものに我が身を差し出すのは、自らを「未だ目覚めぬ人類」へと貶める行為に他なりません。
そもそもこの世には間違いなど無いと知れば、気に食わないからといって目くじらを立て過ぎることもなくなります。
とはいえ、いざ、そう考えようとすると、これまで私たちの背中を押し続けてきた信念がワーワー騒ぎだしてそれを許しません。
そうした時には、信念そのものを疑いの目で見る必要があるのですが、信念というのはなかなかの手練れでして、ありとあらゆる手を使い、もっともらしい理屈で自分の正当化を図りに来ます。
しかも、私たちは彼らが発するその言葉がまるで自分が発しているように感じるため、自問自答しているような錯覚に陥ります。
もともと自分の考えなのだと思ってしまうと、一人相撲をしてることが無駄な労力に思えて面倒くさくなってきます。
大概はここで諦めてしまいますが、そこでもう少し踏ん張り、思い切って彼らを手放そうとすると、そのこと自体を思いとどまらせるような上手い理屈を騒ぎ立て、様々に角度を変え、あの手この手で私たちを諦めさせようとします。
たとえば冒頭のケースでいえば、「この世がすべてを許容しているなら好き勝手やったもん勝ちではないか、そんなのは許されない、やはり正しさは必要なんだ」というようにです。
一つが正しいから全部が正しい、もしくは一つが間違っているからすべて間違い、と騙して私たちを思考停止に陥らせるのは彼ら(信念)の得意技です。
そしてこの方法で騙されることに慣れてしまうと、マスコミや宗教や指導者や詐欺師など、現実でも同じやり方で騙されてしまいますので要注意です。
ちなみに先ほどの「好き勝手やったもん勝ち」との反論に関しては、そもそも好き勝手というのも私たちの物差しであって、その結果もそれと同じ物差しによって測られるわけですから、問いかけの前提からしてオチは決まっている、つまり自分(信念)の正しさへ導くための出来レースと言えます。
何が得で、何が損か。
何が勝ちで、何が負けか。
詰まるところ「価値判断を追う限り、価値判断で苦しむ」という話なわけです。
物差しを使って反論証明してる時点で違うだろーってなもんです。
しかも、やったもん勝ちだとか、勝ち逃げだとかいう話は、この世が全てを許容しているという話とは何も関係のないものです。
こうした論点外しも信念が使う常套手段です。
ただここではこのままその土俵に付き合って続けたいと思います。
私たちが独自の判定器(信念、価値観、人生観、損得勘定など)を使って道を選ぶなら、その先はその道に応じた展開となります。
そしてその先に繰り広げられる展開も同じ判定器で観測されるので、苦しみは終わらない。
そのような仕組みになっています。
これは今の人生だけにかぎらず、輪廻転世にも当てはまる話です。
このような無限ループに陥るとなかなか抜け出せなくなります。
なぜなら、そこから抜け出すには道の選び方を変えるしかなく、選び方を変えるためには測定器を手放す(もしくは変更する)しかないからです。
ただ先ほども触れたように測定器は自身を手放さないように様々な理屈を組み立てます。
もちろんその測定器はそれ自身の価値観や損得勘定に基づいた理屈しか作り出せないのですが、その測定器を信じている状態ではそれが真実にしか思えなくなるわけです。
他人から見ればザルな理屈であっても、彼女に首ったけの状態では恋は盲目なのです。
そのため余程のことが起きない限り、我に帰ることは難しい。
ただ、だからこそ人生は様々なイベントが起きるようになっている、と。
そこに繋がってくるわけです。
(もちろんイベントの理由はそれだけではありませんが)
病気だったり、事件だったり、人との出会いだったり、ショッキングな出来事によって測定器を手放せる(変更する)、という仕掛けです。
昔の人はそれを御縁と言いました。
今世でループから抜け出せた人は幸いです。
それが出来ないと、また生まれ変わって再チャレンジとなり、そこでもまた囚われて同じことを繰り返すと、また生まれ変わって再トライ、ということにもなりかねません。
これをもって輪廻転生そのものが不幸であるかのように説かれることがありますが、そうではなくて、せっかく自ら望んでリトライをしたのに、同じ囚われから抜け出せずに延々と繰り返すことが不幸であるわけです。
輪廻転生は楽しいから好きでやるものです。
私たちは遊園地のフリーパス状態ですから、絶叫系で発散するのも平和系でホンワカするのも自由です。
いつだって遊園地を去れますし、夜中まで楽しむことも出来ます。
遊園地はみんなが思い思いに楽しむ場所です。
こうでなければいけない!なんて野暮の極みです。
何度も何度も絶叫系に乗りたがる人が居たところでそれを見下す人なんて居るでしょうか。
むしろサッサと退園する人のほうこそ、勿体ないと思われるでしょう。
解脱が正解で、輪廻から逃れられない自分たちは不幸だなんて思うことはこれっぽっちもありません。
しっかり叫んで、泣いて、笑って、楽しめばいいのです。
ですから、もし不幸という表現を使うならそれは、我知れず判定器にしがみつき、無自覚で絶叫系ジェットコースターに乗り続けていることこそ当てはまるでしょう。
やったもん勝ちという発想も、結局は判定器の生み出したものに過ぎません。
本人が善悪や損得といった判定器を使わず過ごしていれば、仮にそれが他人の判定器では悪事となるようなことをやったとしても、その人は自業自得の結果にはなりません。
(少なくとも本人はその結果をネガティブに受け止めない)
そうでなければ、捕食動物はみんな罪深い生き物になってしまいます。
生きながらにして悪行を重ねて、不浄を背負うなんてことがあるはずありません。
良い悪いという判断基準など、この世に存在しないのです。
ですからジャッジも存在しません。
当然、罪や罰なんてものも無いのです。
そうでなければ、捕食動物はみんな罪深い生き物になってしまいます。
生きながらにして悪行を重ねて、不浄を背負うなんてことがあるはずありません。
良い悪いという判断基準など、この世に存在しないのです。
ですからジャッジも存在しません。
当然、罪や罰なんてものも無いのです。
もちろん日常生活においてそんなことを言ってしまうと身も蓋もなくなるかもしれません。
ですから、判定測定器がすべてダメとは言いません。
転ばないための杖というのはそれなりの意味を持ちます。
ただ、頼りすぎると大怪我をしてしまうというだけです。
そのため、その杖というものを冷静に観察することが必要となるわけです。
そうしてしげしげと観察されると、判定器は自らを手放させまいと必死に理屈を編み出します。
ここまでこうして書いてきたのは、その必死の屁理屈に籠絡されないためのものです。
少し本題から逸れてしまいましたので元に戻したいと思います。
正義や正論を追って自分を縛るのは、自らを鳥かごに閉じ込める行為に他なりません。
せっかく色々なことを味わいに来ているのに、それは命の無駄遣いになってしまいます。
縛りつけられた自分を選ぶわけですから、縛られた現実が創造されていきます。
人生に夢も希望も無くてニートになるというのは、まさにこのパターンです。
理想と現実の折り合いがつけられず、理想に縛られた結果、縛られた現実を選んでいるわけです。
好き勝手の我執や我欲にまみれた人たちがいつまでも安息の地を得られないように、正義や正論にまみれた人たちもまた、いつまでも安心の境地に辿り着くことは出来ません。
国会議事堂に向かって拡声器で叫ぶ。
アメリカに向けてデモ行進をする。
それなのに野党の落ち度は責めず、ロシアや中国を非難することもない。
明らかに安全な相手しか批判しない。
それは本当に現実を変えたいのではなく、ただ己の不満を吐き出したいだけです。
しかしそれでは格好悪いので、依って頼れる正論を探し出す。
正論が見つかなかったら、嘘を捏造してでも必死に己のよるべを求める。
正義・正論といってもピンキリですが、いずれにしても、かくも都合のいいように作ることのできるものなのです。
いや自分の場合そんな低レベルなこととは違うと誰もが思うところですが、ここで言いたいのはその中身の話ではなく、正義や正論というものはそうやって驚くほど簡単に作られていくものだという、その仕組みのことなのでありました。
見た目どれほど凄くても、簡単に作られたものは、簡単に壊れるものです。
そこさえ押さえておけば、冷静さを失わず、耳触りのいいセリフに騙されたり囚われたりすることもなくなるでしょう。
そもそも、そのような外部からの甘言に飛びつくか否かは自分次第です。
やはり自分の心の持ちようというものが大きな要因になってくるわけです。
そんなとき「だからこそ自分に厳しく他人に迷惑をかけない!」という、これが危ない。
それは人として立派なことですが、何ごともちょうどいい加減というものがあります。
猪突猛進にやり過ぎてしまうと、何もやらない方がマシということにもなりかねません。
自分自身をクソ真面目に縛ることは、自分自身に甘く怠惰に流されることと本質的には変わりません。
我執を暴走させるという一点においては同じであるわけです。
単に名目があるか無いかの違いでしかないのです。
さらに言えば、探究心というのも一歩間違えれば迷宮に迷い込んでしまう恐れがあります。
さらに言えば、探究心というのも一歩間違えれば迷宮に迷い込んでしまう恐れがあります。
真理を追おうとするのは根源的な衝動です。
先の見えない荒波に放り出された(ということにしている)幼子にとっては、真理というものが唯一の羅針盤です。
しかし、だからこそ、そこで間違いが起こりやすい。
先の見えない荒波に放り出された(ということにしている)幼子にとっては、真理というものが唯一の羅針盤です。
しかし、だからこそ、そこで間違いが起こりやすい。
真理を追うのは絶対的に正しい、それは我々の存在証明だから、と成ると、もうそれに依って頼って、己を顧みずに突っ走ってしまいます。
錦の御旗のもと、自らを籠の中に縛りつける危険があるということです。
お花畑に憧れてキラキラ輝いた目をしているのはまさしくこのパターンです。
もちろん、理想というものが進化や発展を引っ張る牽引力になっているのは間違いのないところです。
しかし、あまり一人歩きをさせすぎると現実から乖離して、ついには何処へ向かうか分からなくなります。
もちろん、理想というものが進化や発展を引っ張る牽引力になっているのは間違いのないところです。
しかし、あまり一人歩きをさせすぎると現実から乖離して、ついには何処へ向かうか分からなくなります。
キラキラ輝く目は現実逃避の現れです。
いま目の前にある理想というものが、歪んだ価値観や縛られた価値観に因るものでないか、私たちはよくよく冷静に考える必要があります。
明らかな私利私欲なら誰にでも気がつきやすいですが、厄介なのはそうではないケースです。
一見すると正論であり正義であることこそ注意が必要ということです。
水中の魚は自分が水の中に居ることに気が付けないように、すでに自分は正しいと信じてしまっている状態にあると自らを客観視することが非常に難しくなります。
いま目の前にある理想というものが、歪んだ価値観や縛られた価値観に因るものでないか、私たちはよくよく冷静に考える必要があります。
明らかな私利私欲なら誰にでも気がつきやすいですが、厄介なのはそうではないケースです。
一見すると正論であり正義であることこそ注意が必要ということです。
水中の魚は自分が水の中に居ることに気が付けないように、すでに自分は正しいと信じてしまっている状態にあると自らを客観視することが非常に難しくなります。
最初は清らかな心でスタートしていても、我執に囚われ盲目になってしまっていることがあるということです。
もし自分がどうなっているのか分からない時には「寛容性」によって判別することができます。
相手の存在を大目に見られるか、それとも決して見過ごせないか、ということです。
自分が正しいと思うことでこの世を埋め尽くしたい、それ以外のものは駆逐排除したいというのは明らかに我執の垂れ流しです。
そうしたことは、正義や理想を掲げた世界中の国々、西方の大国、あるいは隣国もしかり、また国内の左右どちらにも見られることです。
確かに自分の正しさに満たされた世界は、安心安泰に過ごせるかもしれません。
でもそれでは正しさではなく、自分の安心を求めていることになります。
こうした傾向が、特に知識階級などに多いのは、他人から認められたい、守られたい、安心したいという思いが人一倍強いというのもあるでしょう。
あるいは、理屈が立つほど正論・正義という隠れ蓑はより強化なものになっていきますので、頭のまわる人ほど自分で自分をますます騙して
しまっている、「策士、策に溺れる」なのかもしれません。
そうした隠れ蓑は、それが崇高であればあるほど危険度が増していきます。
ですから正義や正論もしかり、ましてや真理を追うとなると、より一層の慎重さが必要となるのです。
崇高なものは高みにあるものだと思い込むと、本当の景色が見えなくなります。
落とし穴はあらゆるところにあります。
たとえば「道端の雑草にも真理が現れている」などというのも、表現の美しさに酔ってるだけということにもなり得るのです。
見た目の崇高さを追うと足元からすくわれてしまいます。
崖の上や地の果てに行かずとも、この世というのがすでに真理そのものです。
特別なもの、凄いものを探して背伸びする必要はありません。
認めたくないかもしれませんが、嫌いなアイツもダメダメな自分も、真理そのものなのです。
天地宇宙というのは、すべてを許容する世界です。
こうでなければダメというものは何一つありません。
絶対的に正しいものなど存在しないのです。
にも関わらず、私たちは正しさというものを信じて追い続ける。
そうなると、自分は正しい、間違っているのは相手だとなる。
正しさを求める目的が自己防衛にあると、尚更それは顕著なものとなります。
絶対非難されることのないセーフティーゾーンを確保したいがために、正悪の区別をハッキリつけたがるということが起こります。
そして、ひとたびそうなると相手の言い分は一切認めなくなります。
絶対非難されることのないセーフティーゾーンを確保したいがために、正悪の区別をハッキリつけたがるということが起こります。
そして、ひとたびそうなると相手の言い分は一切認めなくなります。
それを認めてしまうとそのぶん自分の主張(=安心・安全)が目減りすると感じてしまうからです。
だからこそ一歩も譲らず相手を組み伏せようとする。
それは天地の理とは対極にある不寛容そのものでしょう。
見通しの悪い横断歩道なのに青信号だからと左右も見ずに無防備に渡る人がいます。
私の権利だ、私が正しい、と正義や権利を主張することが染み付いていると当たり前のことも分からなくなります。
そこに無謀な運転をする車や自転車が突っ込んでくることだってあるでしょう。
それに対して、悪いのは相手だと睨みつけて終われば幸いですが、万が一大怪我をしたり、まかり間違って命を失ったらどうなるでしょう。
もちろん悪いのは相手です。
その相手は断罪されるでしょうし、賠償金も払わされるでしょう。
でも自分の痛みや命は元に戻りません。
相手を糾弾して恨み続けたところで自分は少しも救われないわけです。
まわりに同情され、貴方は少しも悪くないと慰められても何一つスッキリするはずがありません。
正しさに寄り掛かり、外に向かっては不寛容の声をあげる。
得体の知れないものに思考も判断も預け、安心しきって無思考に生きる。
誰も責任を持たないフワフワしたものに我が身を差し出すのは、自らを「未だ目覚めぬ人類」へと貶める行為に他なりません。
私たちは、本当の本当に自由です。
すべて自分で選択できるという自由があります。
そして選択するためには判断が必要です。
そして選択した結果には責任が伴います。
自分で判断したくないから選択しないとか、責任を負いたくないから選択しないとかいう逃げ口上は通用しません。
「選択をしない」というのも私たちの選択ですし、「誰かに判断を預ける」というのも私たちの選択です。
どんな選択をしようとも、その責任はすべて私たちが負うものとなるのです。
どんなことになろうと、全てを受け入れることになるのです。
思考停止をしようとも、その結果は全て受け入れることになります。
受け入れたくなくとも、受け入れることになります。
何故なら、この世は「わたし」が主役だからです。
「わたし」による「わたし」のための映画が、今まさに放映されているからです。
今この目の前の景色は、それがどんなものであろうと「わたし」のためのものです。
だから、私たちは本当の本当に自由なのです。
受け入れたくないも何も、生まれた時から、すでに上映開始なのですから「何をか言わんや」です。
料理にしてもそれぞれの美味しさがあるからこそ、私たちは色々なメニューを楽しみます。
出るもの出るものケチばかりつけて、自分は三食とも大好きなハンバーグしか食べない、なんていうのは哀れな話ではないですか。
(つづく)