自我がまだ芽生えていない幼い頃というのは、我知れず天地と一つとなっています。
自我という壁が存在していないのですから、天地と一体になっているのが当然と言えます。
子供たちや動物たちのような、執着に囚われない無我の境地。
自我に目覚めたあとの私たちは、その喜びを求めて長い間あがいてきました。
そうして余計な価値観や囚われを刷り込んだ教育や社会を恨めしく思い、戻ることのない過去に思いを馳せるのでした。
では、自我の芽生えや、そのあとの増長とは無駄なものだったのでしょうか?
余計なものだったのでしょうか?
確かに子供たちは疑いを知らず、不安も知らず、今ココを信じ切った存在です。
ただ、それが当たり前すぎるため、そのことを自覚できずにいます。
天地と二分されずに共にあるということは、水の中の魚のように水の存在を分からずに居る状態です。
つまり、自分が天地と一体にあることを理解できずに居る状態ということになります。
それはまさに、天地創造以前の未分化状態にあった大いなる一つ(The Big One)が、自分というものを理解できず、その状態すらも認識
できずに居たのと同じものと言えます。
大いなる一つは、それを面白くないとして分化が始まり天地創造へと至りました。
つまり、あえて自他に分ける(分けたことにする)ことで、それまで見えなかったものを見えるようにしたということです。
私たちの人生もまたこれと同じであるわけです。
幼い頃は天地と未分化の状態にあり、悩み知らずの心地よい世界にありました。
その幼児の心のまま自我の増長がなかったとしたら、確かに悩みとは無縁に平和に生きられたかもしれませんが、代わりに私たちと天地宇宙と
いう本当の姿を味わうことが出来ずに終わってしまったでしょう。
水中の魚は、生まれた時から水と一体になっているため水の存在を理解できません。
魚が水の存在を知るには、水から離れるしかありません。
そのような分化をもって初めて水の存在を知り、そうして水中に戻された時には、水と自分との一体感をより一層クリアに自覚するように
なります。
以前は想像の限界にあったボンヤリした世界像が、その時、ハッキリと肌感を持って知るようになるわけです。
私たちも同じように、自我の増長という過程があればこそ、ふたたび天地宇宙と一体になった時の深い実感を得られるようになるのでは
ないかと思います。
ですから、幼い頃の無垢の状態というのと、それは同じであって同じではないということです。
十牛図の前半と後半がそうであるように、見た目は同じであってもその深みや厚み、広がり、すなわち味わいが全く違うものになっている
わけです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/十牛図
私たちの人生というのは、原点回帰の旅であって、回帰ではない。
それは、無駄な寄り道にしか見えない我執の泥沼を抜けた先にしかない世界であり、より高みへと進み続ける旅に他なりません。
我執の増長とは、停滞でも後退でもドロップアウトでもない、必要な道程であったわけです。
ただ生きる、無自覚の時期。
私「が」生きている、という我執の時期。
今ここに在る、という天地一体の時期。
まだまだ私たちには先があります。
どの瞬間も、後退などしていません。
囚われであろうが我執であろうが、それがあればこそ次の景色が拓けるのです。
つまり、囚われや我執が無ければ、一段上の視点は得られないということです。
そうであればこそ、エゴを忌み嫌って遠ざけようとすることは、むしろその先へと進む道を自ら閉ざすことにしかならないのが分かります。
自我というのは、例えば呼吸や心拍を司る自律神経と同じようなもので、私たちをこの世で生きていけるように導いてくれる高性能の自動運転
装置です。
ただただ、私たちを生かそうとしてくれている。
そのひたむきな一途さには涙が出るはずです。
そこへ勝手にエネルギーを注いでいるのは私たちであって、自我は与えられた通りに素直に従っているだけです。
自我そのものは何も悪くはありません。
もしエネルギー過多で暴走した車があったとしたら、その原因はエンジンではなく、ガソリンを注いだことにあるのは明らかでしょう。
それを、こんなエンジンなんて無ければ良かった、余計なものだ、捨ててしまえ、と唾を吐いて足蹴にする姿を見たら私たちは何を思う
でしょうか。
自我とは、私たちとは別個のもので、この世の預かりものです。
決して私たちの所有物ではありませんし、敵視したり蔑視したりするものでもありません。
それを傷つけたり、ゴミ箱に捨てようとしたりするのは、あまりにも酷すぎる仕打ちです。
今こそ、自我は自我として優しく抱き寄せましょう。
理屈など不要です。
そのまま、ありのままで感謝です。
優しく抱きしめ、今までゴメンねと心から謝り、そして、これまで生かしてきてくれたことに感謝です。
そうして初めて、自我も包み込んだままに天地宇宙を感じられるようになるでしょう。
私たちが、私たちを全てそのまま受け入れられなければ、天地宇宙をありのままに受け入れることなどありません。
つまり、ぬくもりや優しさを外に求めても何も得られないということです。
まずは、自分自身を優しく受け入れることから全ては始まります。
他の誰でもなく、私たちが私たち自身を120%受け入れてあげなくては、私たち自身はこの世界で根なし草のままとなります。
それを仲間や家族、天地宇宙や神々に求めても、絶対に満たされることはありません。
何故ならば、この世というのはそもそも私たちに包まれた世界だからです。
こうしたことはとてもシンプルである反面、思っている以上に難しいことでもあります。
そうだよねと分かったつもりになって居ても、実は何も分かっていないということがしばしばあります。
私たちの囚われというのは様々な形へ変化していくため、自分が本当は何を求めているのか隠されてしまいます。
そうなると、まわりからは見えているのに、本人だけが見えていないということにもなってまいります。
自我と一心同体の状態にあると、右向け右と言われれば、その景色しか目に入ってこなくなってしまいます。
自分では分かったつもりでも、実際は本質から目を逸らされてしまっているため、堂々めぐりになって先へ進むことができなくなってしまう
わけです。
一例をあげれば、まわりから賞賛されたいという思いなどもそうです。
一見するとそれは向上心の現れのように見えますが、実際は、認めてもらいたいという思いが変形したものです。
さらにそれは愛されたいという思いの変形であり、突き詰めるとそれは、受け入れて欲しいという思いに行きつきます。
ですから、本当に満たされるためにはその一番核の部分である「受け入れて欲しい」という思いを解決しなくてはならないということに
なります。
それが遥か手前の表層のところで止まってしまうと、賞賛されることに固執してしまい、褒められることが悦びだと思い込むことになります。
しかしどれほど賞賛されたところで芯から満たされることはありません。
もっと褒められようと頑張り続けても永遠に満たされるはずがないわけです。
賞賛されたい、認められたいという思いに限らず、結局のところあらゆる欲求というのは、根っこを辿っていくと「安心したい」という
ところへと帰結していきます。
そして、その多くは「受け入れて欲しい」という思いによって満たされるものだと言えます。
しかしすでに書きましたとおり、その受け入れて欲しいという思いを、他の誰かに応えてもらおうとするのは、チルチルミチルの青い鳥でしか
ありません。
私たちが私たちを優しく受け入れてあげないで、他に何があるのかということです。
ズルかろうが、醜かろうが、我執まみれだろうが、そうしたものこそは、この先の景色を見させてくれるためのものです。
だからこそ、そうしたものを引っくるめて、私たちを丸ごと120%受け入れる。
今のこのままの私で、すべてオールOKなのです。
見ないようにフタをしてきたこと、切り捨ててきたこと、そうしたものをすべて表にさらけ出して、そんな自分だからこそ最高にOKという
ことを噛み締めるということです。
そうやって今の自分を素のままにギューっと抱きしめた時、言葉に表せられない幸せが溢れ出すことでしょう。
そしてそのようになりますと、ジワーッと芯から感じられることがあります。
もともと私たちは受け入れられていたと。
これまで私たちは自分の芯の部分を直視できず、受け入れられずに居ました。
それにも関わらず、家族や仲間たち、そしてこの世界は、私たちを当たり前に素のままに受け入れていました。
賞賛してもらうまでもなく、認めてもらうまでもなく、その先では決して辿り着くことのなかった悦びがすでに満たされていたということです。
私たちを見ているのは遠くの誰かではありません。
親だというこだわりや、子だという囚われも脱ぎ捨て、ただ1人の存在がそこにあるだけです。
そこには上も下もありません。
過去の思いも、過去の行ないも、過去の記憶も、すべて感謝であって、それに縛られる必要もなければ、それに苦しむ必要もないのです。
私たちは丸ごとそのまま120%受け入れられています。
私たちのすべてがオールOKなのです。
自我という壁が存在していないのですから、天地と一体になっているのが当然と言えます。
子供たちや動物たちのような、執着に囚われない無我の境地。
自我に目覚めたあとの私たちは、その喜びを求めて長い間あがいてきました。
そうして余計な価値観や囚われを刷り込んだ教育や社会を恨めしく思い、戻ることのない過去に思いを馳せるのでした。
では、自我の芽生えや、そのあとの増長とは無駄なものだったのでしょうか?
余計なものだったのでしょうか?
確かに子供たちは疑いを知らず、不安も知らず、今ココを信じ切った存在です。
ただ、それが当たり前すぎるため、そのことを自覚できずにいます。
天地と二分されずに共にあるということは、水の中の魚のように水の存在を分からずに居る状態です。
つまり、自分が天地と一体にあることを理解できずに居る状態ということになります。
それはまさに、天地創造以前の未分化状態にあった大いなる一つ(The Big One)が、自分というものを理解できず、その状態すらも認識
できずに居たのと同じものと言えます。
大いなる一つは、それを面白くないとして分化が始まり天地創造へと至りました。
つまり、あえて自他に分ける(分けたことにする)ことで、それまで見えなかったものを見えるようにしたということです。
私たちの人生もまたこれと同じであるわけです。
幼い頃は天地と未分化の状態にあり、悩み知らずの心地よい世界にありました。
その幼児の心のまま自我の増長がなかったとしたら、確かに悩みとは無縁に平和に生きられたかもしれませんが、代わりに私たちと天地宇宙と
いう本当の姿を味わうことが出来ずに終わってしまったでしょう。
水中の魚は、生まれた時から水と一体になっているため水の存在を理解できません。
魚が水の存在を知るには、水から離れるしかありません。
そのような分化をもって初めて水の存在を知り、そうして水中に戻された時には、水と自分との一体感をより一層クリアに自覚するように
なります。
以前は想像の限界にあったボンヤリした世界像が、その時、ハッキリと肌感を持って知るようになるわけです。
私たちも同じように、自我の増長という過程があればこそ、ふたたび天地宇宙と一体になった時の深い実感を得られるようになるのでは
ないかと思います。
ですから、幼い頃の無垢の状態というのと、それは同じであって同じではないということです。
十牛図の前半と後半がそうであるように、見た目は同じであってもその深みや厚み、広がり、すなわち味わいが全く違うものになっている
わけです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/十牛図
私たちの人生というのは、原点回帰の旅であって、回帰ではない。
それは、無駄な寄り道にしか見えない我執の泥沼を抜けた先にしかない世界であり、より高みへと進み続ける旅に他なりません。
我執の増長とは、停滞でも後退でもドロップアウトでもない、必要な道程であったわけです。
ただ生きる、無自覚の時期。
私「が」生きている、という我執の時期。
今ここに在る、という天地一体の時期。
まだまだ私たちには先があります。
どの瞬間も、後退などしていません。
囚われであろうが我執であろうが、それがあればこそ次の景色が拓けるのです。
つまり、囚われや我執が無ければ、一段上の視点は得られないということです。
そうであればこそ、エゴを忌み嫌って遠ざけようとすることは、むしろその先へと進む道を自ら閉ざすことにしかならないのが分かります。
自我というのは、例えば呼吸や心拍を司る自律神経と同じようなもので、私たちをこの世で生きていけるように導いてくれる高性能の自動運転
装置です。
ただただ、私たちを生かそうとしてくれている。
そのひたむきな一途さには涙が出るはずです。
そこへ勝手にエネルギーを注いでいるのは私たちであって、自我は与えられた通りに素直に従っているだけです。
自我そのものは何も悪くはありません。
もしエネルギー過多で暴走した車があったとしたら、その原因はエンジンではなく、ガソリンを注いだことにあるのは明らかでしょう。
それを、こんなエンジンなんて無ければ良かった、余計なものだ、捨ててしまえ、と唾を吐いて足蹴にする姿を見たら私たちは何を思う
でしょうか。
自我とは、私たちとは別個のもので、この世の預かりものです。
決して私たちの所有物ではありませんし、敵視したり蔑視したりするものでもありません。
それを傷つけたり、ゴミ箱に捨てようとしたりするのは、あまりにも酷すぎる仕打ちです。
今こそ、自我は自我として優しく抱き寄せましょう。
理屈など不要です。
そのまま、ありのままで感謝です。
優しく抱きしめ、今までゴメンねと心から謝り、そして、これまで生かしてきてくれたことに感謝です。
そうして初めて、自我も包み込んだままに天地宇宙を感じられるようになるでしょう。
私たちが、私たちを全てそのまま受け入れられなければ、天地宇宙をありのままに受け入れることなどありません。
つまり、ぬくもりや優しさを外に求めても何も得られないということです。
まずは、自分自身を優しく受け入れることから全ては始まります。
他の誰でもなく、私たちが私たち自身を120%受け入れてあげなくては、私たち自身はこの世界で根なし草のままとなります。
それを仲間や家族、天地宇宙や神々に求めても、絶対に満たされることはありません。
何故ならば、この世というのはそもそも私たちに包まれた世界だからです。
こうしたことはとてもシンプルである反面、思っている以上に難しいことでもあります。
そうだよねと分かったつもりになって居ても、実は何も分かっていないということがしばしばあります。
私たちの囚われというのは様々な形へ変化していくため、自分が本当は何を求めているのか隠されてしまいます。
そうなると、まわりからは見えているのに、本人だけが見えていないということにもなってまいります。
自我と一心同体の状態にあると、右向け右と言われれば、その景色しか目に入ってこなくなってしまいます。
自分では分かったつもりでも、実際は本質から目を逸らされてしまっているため、堂々めぐりになって先へ進むことができなくなってしまう
わけです。
一例をあげれば、まわりから賞賛されたいという思いなどもそうです。
一見するとそれは向上心の現れのように見えますが、実際は、認めてもらいたいという思いが変形したものです。
さらにそれは愛されたいという思いの変形であり、突き詰めるとそれは、受け入れて欲しいという思いに行きつきます。
ですから、本当に満たされるためにはその一番核の部分である「受け入れて欲しい」という思いを解決しなくてはならないということに
なります。
それが遥か手前の表層のところで止まってしまうと、賞賛されることに固執してしまい、褒められることが悦びだと思い込むことになります。
しかしどれほど賞賛されたところで芯から満たされることはありません。
もっと褒められようと頑張り続けても永遠に満たされるはずがないわけです。
賞賛されたい、認められたいという思いに限らず、結局のところあらゆる欲求というのは、根っこを辿っていくと「安心したい」という
ところへと帰結していきます。
そして、その多くは「受け入れて欲しい」という思いによって満たされるものだと言えます。
しかしすでに書きましたとおり、その受け入れて欲しいという思いを、他の誰かに応えてもらおうとするのは、チルチルミチルの青い鳥でしか
ありません。
私たちが私たちを優しく受け入れてあげないで、他に何があるのかということです。
ズルかろうが、醜かろうが、我執まみれだろうが、そうしたものこそは、この先の景色を見させてくれるためのものです。
だからこそ、そうしたものを引っくるめて、私たちを丸ごと120%受け入れる。
今のこのままの私で、すべてオールOKなのです。
見ないようにフタをしてきたこと、切り捨ててきたこと、そうしたものをすべて表にさらけ出して、そんな自分だからこそ最高にOKという
ことを噛み締めるということです。
そうやって今の自分を素のままにギューっと抱きしめた時、言葉に表せられない幸せが溢れ出すことでしょう。
そしてそのようになりますと、ジワーッと芯から感じられることがあります。
もともと私たちは受け入れられていたと。
これまで私たちは自分の芯の部分を直視できず、受け入れられずに居ました。
それにも関わらず、家族や仲間たち、そしてこの世界は、私たちを当たり前に素のままに受け入れていました。
賞賛してもらうまでもなく、認めてもらうまでもなく、その先では決して辿り着くことのなかった悦びがすでに満たされていたということです。
私たちを見ているのは遠くの誰かではありません。
親だというこだわりや、子だという囚われも脱ぎ捨て、ただ1人の存在がそこにあるだけです。
そこには上も下もありません。
過去の思いも、過去の行ないも、過去の記憶も、すべて感謝であって、それに縛られる必要もなければ、それに苦しむ必要もないのです。
私たちは丸ごとそのまま120%受け入れられています。
私たちのすべてがオールOKなのです。