人生というのは嬉しいこと楽しいことばかりではなく、辛いこと悲しいこともあります。
もしも他の人が自分と同じ考え、同じ感性であれば、こちらで気を使ったり、気を揉んだりする必要はなくなります。
この世に生を受けた目的が、あらゆる体験をすることにあるのならば、そうしたストレスもまた私たちの生きる意味そのものだと言うことができます。
とはいえ、苦しいことを耐え忍んで黙々と修行しろというのでは、あまりに無慈悲すぎます。
私たちは苦しむために生まれてきたはずはありませんし、この世が私たちを苦しめるために存在しているはずもありません。
確かに、生物の進化の歴史を見ると、そこにはストレスが大きく影響しています。
そうなるとストレスそのものが良い悪いではない。むしろ辛いこと悲しいことは私たちにとって必要な事象であるのは明らかです。
つまり、天地は必要なものを私たちに与えているのであって無慈悲なわけではない。
そうなると、そこから派生する「悩み」「苦しみ」というものが不自然なのではないかということになります。
まさしくそれらは人間特有のものであって、他の生き物にはありません。
つまり、もともとそんなものはこの世に存在しないものであり、私たちが勝手に自作自演しているに過ぎないということです。
といって、それを「知恵を持ったための宿命だ」と考えるのは短絡的であり、思考停止と言えます。
人類は太古から生老病死に苦しんできました。
しかしこの世の体験として、それらはどれもかけがえのない事象です。
それを苦しみと捉えてしまうところにこそ問題がある。
私たちは、なぜ自作自演をしてしまうのでしょうか。
何千年、何万年と、人類はそれが仕方のないものだと思わせられてきました。
諦めさせられてきたと言ってもいいかもしれません。
具体的に、身近なところから紐解いていきたいと思います。
現代社会は様々なストレスに溢れていますが、そのほとんどは結局のところ、人間関係に帰結すると言えます。
生老病死のうち、「生」の苦しみの筆頭は、人間関係かもしれません。
仕事の付き合い、身内の付き合い、ご近所付き合い。
そうしたものは現代社会に限らず、太古から存在しました。
私たちは誰しも、自分の好きなようにやりたいわけですが、そうはいかないところから悶々とした感情が生まれます。
軋轢や衝突が生じないとなれば、人間関係での苦しみは存在しなくでしょう。
しかし、何から何まで自分と同じ考えの人など存在しません。
人は少しずつ考えが異なるため、自分のことを理解してもらう必要が生まれます。そこに心労が生じます。
誤解されたりするとますます心労がつのります。
理解してもらう必要など無いとして好き勝手にやると、それはそれで疎(うと)んじられ嫌われることになります。
そこでも心労が生まれます。
ましてや、全く意見が合わない人、考え方が違う人というのは必ず居るものです。
多少あわないくらいならばストレスも小さくて済みますが、話が全く噛み合わない、考え方が根本から違うとなると、これはもう大変です。
しかも状況によって、例えば上司とか親戚が相手だと、その考え方に合わせないといけない場面もあります。
これまた大変な心労となるわけです。
心の波立ちというのは、落ち着いていれば鎮まっていくものですが、落ち着く前に次のストレスを受けてしまうと、波立ちはさらに激しくなります。
波立っている状態にあると、小石が飛んでも、たちまち大波と化します。
そのため、波立っている時は防衛本能から相手に過剰に当たるようになります。
イライラしている時に逆ギレするのはそのためです。
イライラを外に出せない場合は、それを押し殺して自らダメージを受けることになります。
それが続くと心や体を壊すことになる。
そうしたことが日常茶飯になると「次また来るかも」という心配がつきまとい、常にハラハラした状態になります。
心が波立っている状態、イライラしている状態というのは、いわば臨戦態勢です。
お互いが臨戦態勢にあると、波立ちの連鎖はエスカレートしていきます。
互いに自分は悪くないと思っているので、自分は引きたくない。相手に降参して欲しい。
「相手が謝るのが当然」というのは、相手を屈服させることと同意です。
そうであればこそ、自分が謝ることは相手の軍門にくだることに感じ、自分から謝れなくなります。
これは個人の関係だけでなく、国同士の関係にも当てはまります。
外交といっても、結局は人間関係の延長に過ぎません。
あらゆる言葉や理屈を畳み掛けて相手を屈服させたところで、相手に残るのは傷と恨みでしかありません。
それは経済圧力や武力によって屈服させられた相手国がどうなるか考えれば容易に想像できることです。
個人でも同じです。
自分の安心を求めると、相手は真逆の状態になります。
自分から謝らないと何も事態が変わらない、でも認めたくない、屈服したくない。その機微は相手に伝わります。
自分も悪いが相手も悪いなどと考え始めたら、相手も臨戦態勢を解かず、波立ちは収まらないままとなります。
相手もストレスを受けている。
こちらと同様、相手も波立ちの中にアップアップしているのです。
たとえば相手に力いっぱい腕を掴まれたら、無意識のうちにこちらもグッと力が入ります。
オマエが先に力を抜けと言ったところで無意識レベルの話ですから、それは無理というものです。
臨戦態勢を解くよう相手に強要したところで、相手は余計に波立つ。
つまりは、まず自分の臨戦態勢を解くのが先。
自分が良い悪いではなく、その自問自答そのものを手放すということです。
それは第三者から見れば全面降伏に映るかもしれません。
でも目的が勝ち負けでなく正常化にあるなら、そんな意地など本当にどうでもいい話でしょう。
これは相手の方が強い立場にあったとしても同じです。
たとえ自分が弱い立場だったとしても、自分がこだわっているからこそ自分自身を傷つけることになっているということです。
あれほど仲の良かったカップルだったのに、まわりも信じられないほど互いに嫌悪し合ったりするのは、まさに波立ちの連鎖に因ります。
常にザワザワと心が波立っているため、ほんの少しのことでも大波になってしまう。
それ自体は大したことでなくとも過剰なストレスとなりダメージは果てしなくなる。
生理的にダメ、顔も見たくないというのは、それはもう平時の波立ちが酷すぎるということです。
不安と苦痛から逃れるための防衛本能が、相手のことを考えただけで鳥肌モノとさせるわけです。
こうした極端なケースに限らず、人間関係のストレスというのは、大なり小なり、相手との考え方の違いにあります。
他人との関わりの中で、不安、心配、怒り、悲しみが起こります。
あらためて考えてみましょう。
その波立ちとは誰が起こしたものなのでしょうか?
相手でしょうか?
それとも自分?
石を投げて来たのは相手なんだから、当然、相手ではないか、、、
波長の合う相手だろうが、合わない相手だろうが、衝突した時に共通する言い分は「相手が悪い」「相手が間違っている」というものです。
これは裏を返せば「私は正しい」ということになります。
ちなみに「私は可哀想」というのも、この「私は正しい」の一種です。
世の中には色々な考え方が存在します。
考え方というのは価値観から生まれるものです。
「私は正しい」は、そうした価値観によって生み出されます。
価値観とは、文字どおり、何に価値を置くか、何を良しとするかの物差しです。
ですから、自分の価値観に合えばそれは「正しい」ことになり、合わないことは「正しくない」ことになります。
同時にそれは、合わないものは「価値が無いもの」という危険な因子をはらむことになります。
世の中の対立というのはすべてここから始まっています。
その行き着く先が敵対関係であるわけです。
敵対関係の根源は、お互いの価値観にあります。
自分の価値観にどっぷり浸かりすぎると、異なる価値観は、見ているだけでゾッとするようになります。生理的に。
これが正しいのだ、私こそが正しいのだ、という考えに囚われてしまうと、排他性が極まり、残酷な思考を生むことになるのです。
多様性を訴えておきながら排他的かつ攻撃的な人たちが存在する理由はここにあります。
彼らの中には自分の信じる一つの完成形があって、それに少しでもそぐわないものは「間違ったもの」「正すべきもの」となるのです。
「相手が間違っている」という考えは「相手を正すべき」となり、さらには「駆逐すべし」となります。
黒人差別反対から派生した破壊活動はまさにこのパターンであり、過去の戦争もすべてこのパターンです。
個人同士の軋轢も、民族同士、国家同士の軋轢も、根っこは同じです。
もっと言えば、私たちの日々の悩み、苦しみ、そして悲しみも、すべて根っこは同じです。
「己の正しさ」こそが、すべての大元にあります。
解決するには、相手をどうにかさせるのではなく、自分が手離すということです。
相手を非難・否定するのではなく、自分のこだわりを捨てるということです。
程度の差こそあれ、この世に生きる私たちは誰もがみな「良くないこと→だからそれはダメだ」「正しくないこと→だからこれは違う」という判断のもと日々を生きています。
これはほとんど脊髄反射的に自動判定されています。
自分で考えて判断を出すケースもありますが、日常の多くは、考えるまでもなく自明のものとして、先に結論が出されています。
私たちはそれを追認しているだけなのですが、まるで自分の中からその結論が生み出されたかのような錯覚に陥っています。
自分が考えたものと信じ込んでいるわけです。
今の私たちは、自分の信じる価値観に完全に乗っ取られています。
身も心も預けた信者と化し、おんぶに抱っこの状態にあるのです。
この世には、本当の正しさなど存在しません。
それぞれに信じるものがあるだけです。
もともとの私たちは、まっさらな状態でこの世に生まれてきました。
生まれたての本当にまだ小さい頃、心の中に「いい・悪い」という小さな種が蒔かれました。
まわりの顔色や声色で「相手が嫌がること」「喜ぶこと」という、初期の価値観が植え付けられました。
それは「相手が怒る」「褒める」という反応によっても強化されていきました。
まわりの人たちが何に対して嫌がるか(怒るか)というのは、まわりの人たち自身の価値観に依るものです。
自分が望む望まないにかかわらず、幼いこの時点で、自分を育てた相手から、価値観の相伝が行われるということです。
子どもの頃に撒かれた種は、その後も色々な価値観が塗り重ねられ少しずつ大きくなっていきます。
家庭で蒔かれたケシ粒をそれぞれ持ち寄り、遊びの中で関わり合い、塗り重ね、さらにまた家庭や学校、隣近所、あるいはテレビや本から得たものが塗り重ねられ、整えられていきます。
小さなケシ粒の上に色々なものが塗り重ねられ、形が整えられ、細部まで丁寧に作り込まれていく。
世の中には、その場その場に正しさが存在しており、私たちはそうした正しさに合わせて粘土をこねていきます。
そうして三者三様の粘土細工が作られていくわけです。
その粘土細工は、別の言葉で「自分らしさ」「自分像」とも言います。
家庭での自分像が作られ、会社での自分像が作られ、自分の中での自分像が作られていきます。
私たちは、自分で彫り上げた自分像に服を着せて暮らしているわけです。
子供というのはそれが一つしかありませんので、TPOに関係なく場違いなことをやらかします。
私たちが様々な自分像を使い分けるようになるのは、それぞれの環境によって「あるべき姿」(=正しさ)が異なるからです。
家庭の中での自分。
交友の中での自分。
学校や会社の中での自分。
会社の中で父親のように振る舞うことはできませんし、家庭の中で上司のように振る舞うことはできません。
周囲の人々との関係性の中で、私たちの自分像は無自覚のうちに形作られていきます。
立ち位置が変わると、自動的にその場に合った自分像に入れ替わります。
立ち位置というのは相手との関係性で決まるものです。
このことがよく分かるのが、高校や大学の友だちと久々に会った時です。
その瞬間、私たちは当時の自分に戻り、年齢も立場も忘れて、はしゃぎまわります。
私たちは、その場その場の「正しさ」をもとにいくつも自分像を作っており、まわりとの関係性の中で無意識のうちに特定の自分像を選択しています。
その場その場の正しさというのは、その場その場を支配する価値観によって作られたものです。
会社や学校、家庭といった小さな範囲を支配する価値観もあれば、社会全体を占める価値観もあります。
親とはこういうもの、学生とは、社会人とは、日本人とは、人間とは、、、
固定観念は価値観によるものですし、常識というものも価値観によって作り上げられたものです。
様々な場面の「正しさ」が幾重にも重なり、私たちの社会は成り立っています。
私たちは、人間社会という波立つ海を渡り歩くため、いくつもの自分像をポンポンと飛び石しています。
そうした自分像の中でも最たるものは、言うまでもなく「普段着の自分」です。
これこそが一番のクセモノであるわけです。
様々な場面で使い分けている他の自分像と同じく、普段の自分というものも作られた偶像の一つに過ぎません。
にも関わらず、物心がつく前から身近にあるために、私たちはそれが自分自身だと勘違いしています。
この最も近しい自分像というのは、すでに触れた通り、幼い頃からの環境の中で作り上げられたものです。
そして、それこそが自分にとっての正しさの凝縮でもあります。
自分像とは、これまで信じてきた様々な価値観の集合体です。
だからこそ、自分の信じていることを否定されると、まるで自分自身を否定されたような錯覚に陥るのです。
この自分像の作り主は、まぎれもなく私たち自身です。
たしかに物心もつかない子供にとっては、何も分からず、言われるがままに作ったに過ぎません。
それでもなお、それを作った主体は、親や環境ではなく、私たち自身にあります。
別に、責任の所在をどうこう言おうとしているのではありません。
誰がそれを掴んで離さずにいるのか、という話です。
自己判断を伴わない幼子ですから不可抗力そのものです。
でも「だから仕方がない」「そんな私はかわいそう」と判断してしまうと、話はそこで終わってしまいます。
親が悪い、環境が悪いと、まわりのせいにしてしまうと、一生この自縛から逃れられなくなります。
それどころか、負の連鎖、拡大再生産を招く危険すらあります。
たとえば、
親から受けた仕打ちを我が子に行い、上司に受けた仕打ちを部下に行う。
はたまた、
親から受けた仕打ちを、自ら、自分に行う。
人から受けた仕打ちを、自ら、自分に行う。
親の呪縛は解かれたはずなのに、自分で自分にその縛りを課す。
そもそも人間は、教わったことを疑うことなく吸収する存在です。
何にも濁らず透明に透き通った存在、それが本当の私たちです。
その私たちは、今この瞬間もここに在ります。
ただ、私たちはそこに意識を置かず、今は粘土細工の方に意識を置いているというだけの話です。
そんな作り物の出来に、悩んだり悲しんだりする必要はありません。
「でもこんだけ塗り重ねられた粘土を引き剥がすのは大変だ」「ピカピカに戻すのは困難だ」などというのは単なる思い込みです。
そもそも、その粘土細工は私たちではないのです。
核となるケシ粒からして私たちではない。
引き剥がす作業自体、必要ないのです。
こっちに、透明に透き通った私たちはいます。
今のそれは単なる粘土の塊に過ぎません。
必死にしがみ付くものではありません。
それは本当の自分ではなく、単なる彫刻なのです。
あらゆる悩みや苦しみを生み出しているのは、その自画像、自刻像です。
自分の信じる正しさこそが、様々な苦しさの元凶です。
粘土の彫刻を押し付けたのは親や環境かもしれません。あるいは過去の自分かもしれません。
でも、今、それを選んでいるのは私たち自身なのです。
ですから、本当に単純な話。
ただ、手放すだけ。
「え、そんなことしたら何も無くなってしまう」「自分が無くなってしまう」
そんな心配は無用です。
私たちは、そもそも何も無いのです。
これが私だ!なんてものなど最初から無い。
つまり、そんなもの必要ないということです。
「普段の自分」などに縛られなくていい。
何か着てないとマズいなんてことはありません。
何も無い状態こそが、自然な私たちなのです。
(つづく)