相手の話に乗っかって「あ、それね!」と同意を示したのに「違う」と言われると、あれ?何か違う話になるのかと頭を巡らせるものです。
でもそのまま話を聞いてると結局こっちが言ったままの展開ということがあります。
キャッチボールを図ろうとしているのに「違う」といって口を挟ませようとしない。
そうしたことが何度も続くと、その人の話はあまり聞きたくなくなってしまいます。
怖いのはその人が無意識のうちに「NO」が口癖になってしまっている場合です。
会話というのは自分一人で成立するものではありません。
お互いの参加によって成立するものです。
一方通行ではなく、行って返ってまた行ってという相互交流であるわけです。
一方的に「吐き出す」ことが目的になってしまうと、そこに二人いる意味がなくなります。
いつも条件反射的に「違う」と相手を制してしまうと、相手の心はそこから去ってしまいます。
相手からすれば、ここに居るのは別に自分でなくてマネキンでもいいだろうと思ってしまう。
自己完結している人の前にボーッと立たされている私は何なんだろうとなります。
なぜ交流を図ろうとしてくる相手にそのようにNOを出すのかといえば、それは自分の発言を守りたいからです。
貴方の意見はいいから、この自分の発言を大事にして欲しいと。
「出したいだけ」ならマジメに聞かなくてもいいだろと思いたくなりますが、その人としては一人でブツクサ言っている状態は嫌なわけです。
無理やり相手を座らせて、口を挟むな、私の話を聞いてくれ、となります。
そして相手が上の空でちゃんと聞いていないとカチンと来る。
これがどういうことかと言うと、自分という存在の手応えを得るためには、こちらに心を向けた他人の存在が必要になるということです。
「相手の話は聞きたくない」「自分だけが主張したい」というのは、実は「相手の存在を強く求めている」ことと同意だったのです。
私たちはテニスの壁打ちでは何も満たされません。
どれだけワガママで自己本位な人間であっても、その欲していることは「ハッキリ自分に返ってくるリターン」であり、その手応えであるわけです。
ですから、たとえ相手が目の前に居てくれたとしても、適当に返ってくるボールでは悶々が増すことになります。
ここでポイントになるのは「手応え」ということです。
つまり、無反応や無関心が一番堪え難い。
ポジティブな形に限らず、たとえネガティブな形でも手応えが欲しい。
スカスカの返球をされるくらいなら殺意のこもった返球の方がいい。
とにかくしっかり自分に向いて欲しい。
交流というのは、お互いの心が相手にしっかりと向くことで生じます。
この天地宇宙はすべてが流動しています。
存在するものはすなわち流動そのものです。
停滞してしまうと存在することができなくなります。
私たちは流動そのものですから、停止を嫌い流動を欲するのは本能であるわけです。
バンッ!と発するエネルギーがポジティブかネガティブかによって、見た目は友好か敵対か大きく変わりますが、どちらも「交流」に違いありません。
良好な関係、いがみ合う関係、憎しみ合う関係、すべて交流です。
慈しみや優しさというものはもちろんのこと、暴力や衝突もまた関係性の在り方の一つです。
親子の虐待が代々引き継がれてしまうのも、それしか関係性の在り方が分からないからですし、根底には交流を図りたいという本能があるわけです。
これは決してそれを肯定するということではなく、善悪という道徳観念だけがこの世の全てではないという話です。
それを幸せと見るか不幸せと見るかは客観的な評価でしかなく、事実は、停止・停滞だけはこの世に存在するかぎり出来ないということです。
単に殴られるよりも無視されたりスルーされることの方が遥かに辛いというのは、そこに交流が無くなるためです。
この世で最も残酷なことは無関心だと昔の聖人は言いました。
周囲との交流がゼロになり完全孤立することは、空の乾電池と同じで、ただの無機物と化すこと、存在しないことを意味します。
とはいえ、ポジティブな交流が大勢を占める社会においてネガティヴな交流は持続性に難ありとなります。
いつまでも悪態をつくような人間のまわりからはどんどん人が遠ざかっていきます。
そのためネガティブなアプローチを選んだ人は、なんとか自分の方を向いてもらおうと、そのスタイルをますますエスカレートさせていくしか
やりようが無くなります。
より攻撃的になることで相手の心が自分に向くようにする。
それが極端になると無差別犯罪を起こすようなことにもなります。
交流が途絶えると魂は悲鳴を上げます。
そのため手段を問わず周囲との繋がりを作ろうとします。
これは国レベルにおいても同じことが言えます。
外向きのスパイラルは和合となって広がっていきますが、内向きのスパイラルは自滅のブラックホールとなります。
一方的に吐き続けていては呼吸は成立しません。
吐くのと吸うのが交互にきて、それらが同じバランスになっていくのが自然な姿です。
これは職場でもそうですし、家庭でもそうです。
もちろん武道の世界でも同じです。
相手を一方的に制しようとする者は、それだけ自分自身を制してしまうことになります。
隣国との関係がここまで悪化してしまったのもこの理屈です。
会話というのはキャッチボールです。
自分の言いたいことを一方的にまくしたてて、相手の言うことには耳を塞いでしまうというのでは成立しません。
交流を拒絶して自分の話だけ聞いて欲しいというのは、天地自然の原理に照らしても無理な話であるわけです。
相手にNOを出して自分だけ喚き続けるようなことをされると、誰だってその土俵から降りたくなります。
それでも彼らは歴史的に、相手をぶん殴って怒らせて関係性を保つというやり方を選んできました。
何百年もの間、支配者に対して恨みと憎しみという形で関係性を保ち、目下の人たちに対しては相手の完全服従という形で関係性を構築しました。
自分の立場が上になっても下になっても、そうした従属の構図で関係性を保ち、上から下へ、下から上へ、流動というものを維持し続けてきました。
隣国は自立してからほんのわずかしか経っていません。
今現在の暮らしの後ろには何千年もの苦しい歴史が流れています。
暮らしや嗜好は数十年あれば変わりますが、価値観や国民性というのはたかだか数世代で変わるものではありません。
明日の生活が保証されていない人間が第一に優先するのは当然、生き残ることです。
私たちは命が保証されて初めて、それ以外のことへ心を向ける余裕が出てきます。
弱肉強食の世界というのは、近隣国に限らず日本でも引き揚げの時や闇市の時に体験しました。
ただ日本の場合はそれが短期間で終わったのが幸いでした。
でもそれが百年単位、千年単位でその苦境が続いたらどうなるか。
正直者は馬鹿を見るというのが何世代も続いてしまう。
二代、三代くらいならば頑張れたとしても先細りになるのは明らかです。
なにせ食べものもロクに手に入らないわけですから。
そもそもこの世は綺麗事では生きていけません。
綺麗事や正論というのは人間が作った観念の一つにすぎません。
天地自然に正しい正しくないなんて論理は存在しません。
それは戦争や貧困といった極限状態になると一層、顕在化していきます。
そこのところを、お花畑の平和主義者の人たちは分かっていません。
生きる余裕がない時は、相手を生かすなんて生ぬるいことは言ってられない。
もちろんそんな中でも相手を生かそうとする人も居るでしょう。
ただそれは見えない程度にこっそりやるしかありません。
表立ってそれをやると一気に身ぐるみ剥がされるツラい世界があるわけです。
生まれた時、私たちは誰もがみんな無垢な存在です。
これは国や民族に関係なく、いつ何処に生まれても同じことです。
ですから、古今東西、和洋を問わず、誰だって自ら穢れることは忌み嫌うものです。
誰かを貶めたり悪口を言ったりすると、全ての人間は必ず自己嫌悪というものに直面します。
相手を押しのけて自分のことしか考えないようなことをすると、心が苦しくなって自己嫌悪に悶々となります。
これはどんな国のどんな人間であっても、一番最初は必ず味わうものです。
どんな悪人でも子供の頃まで遡ると、必ずその最初の体感があります。
誰もが直面するその場面でどういう対処をするかによってその後が大きく変わります。
自分の身を振り返ってそれを正したならば、ゼロリセットされますので、次にまた同じ場面に直面した時に同じように自己嫌悪に悶々とすることが
できます。
「することができる」と言ったのは、汚れた身をまた綺麗にすることが出来るという意味からです。
天地に照らして自分が不自然な状態にあるのを自覚すると、モヤモヤが消えませんので自発的に身を正すことになります。
逆にひとたびそれを他人や環境や社会といった外部のせいにすると、次また同じようなことが起きても外部のせいにすることになります。
最初のうちこそ他人のせいにすることにモヤモヤとした自己嫌悪を覚えるのですが、それを無視して繰り返すにつれ、心にとめることなく無自覚に
そのパターンに放り込むようなオートモード(自動装置)が出来上がっていきます。
すると、他人のせいにしても悶々と良心の呵責にさいなまれるようなことが起こらず、何も感じずスッキリ、ケロリとした状態がキープされるように
なります。
他人を押しのけて自分のことしか考えてないと、普通はモヤモヤした気持ちになります。
しかしオートモードになると、モヤモヤしなくなるわけです。
ただこの方法を取ると、罪穢れをどんどん自分の身にまとっていくことになります。
外へポンと投げて責任回避していると、感覚としては自分は何も汚れていないような感じになります。
でもあくまでそれは顕在意識の感覚であって、実際は目を背けているだけでしっかり心の芯にまで届いていますので、罪穢れとしてどんどん積もり
積もっていくことになるのです。
とはいえ綺麗事では生きていけない時代や世界に生まれ落ちたら、自らの身を正して我欲を捨てて生きていけるものではありません。
自責の念に負けてしまったら物理的に生き残れない世界があります。
日本では飢饉や疫病に苦しんだ中世以前がおそらくこれに近い状態だったのではないかと想像します。
実際、中世以前の日本を見ると、誰もが自分は地獄に行くものだと頭を抱え、救いを求めていました。
心も感覚も今よりはるかに繊細だった当時の人たちですから、穢れに堪え兼ね、自責の念に悶絶したことは想像にかたくありません。
ただ、だからといってその頃の人たちはこの世を呪ったり、誰かを恨んだり、外部のせいにしたりして楽になろうとは考えませんでした。
このあまりに不条理な世の中に生まれついた不幸をどう飲み込むか。
そうして、個々を救済する教えとして仏教が庶民に広がったのでした。
そしてそれは、おすがりの宗教なんかではありませんでした。
素直で正直な人たちが真剣に悩む思いを決して否定することなく「生きろ!」とその背中を後押しするものだったのです。
「生まれながらの罪人だから仕方ない、罪深き人間だから贖罪が必要だ、地獄行きだ」と言って、死人に鞭打つような非情な宗教とはそこが決定的
に違いました。
「確かに我欲を捨てて生きることこそ正しい、しかし生きるためにはそんなことは無理だ、それでも大丈夫、今は穢れに苦しむともそれで地獄に
行くことはない、腐らず立ち上がれ、その先には光差し込む未来がある」と絶対肯定で寄り添って
肩を貸したのでした。
こうして私たちのご先祖様の心は救われました。
私たちが今、人のせいにすると悶々と自己嫌悪に陥ったり、その結果反省してキチンと身を正してスッキリなれるのも、全てそうしたご先祖様たち
のおかげです。
そんなの当たり前と思うのは恩知らずです。
それが当たり前ではない国もあるのです。
地獄のような苦しみの中、自己の我欲と穢れに目を背けず、直視してそれを受け入れることは本当に大変なことです。
せめてお盆の時期だけでも、そうした思いに手を合わせて感謝したいものです。
一方、近隣国では過去においてそうした自己嫌悪の苦しみから逃れるために、嫌悪のエネルギーを外へ向けることで解決を図りました。
つまり悪いのは自分ではなく、相手だ、世間だ、国だ、と。
それが「恨」の文化となりました。
他者嫌悪というのは、実は自己嫌悪の裏返しであったということです。
それが強ければ強いほど、いかにそのプロセスを繰り返してきたかということになります。
自己嫌悪というのは自分自身の否定に繋がりますので本能的にそのまま放置しておくことは不可能です。
私たちのご先祖様は、その原因となる我執を捨てることで嫌悪の元を絶ちました。
もしそこで知らんぷりしてそのまま原因を解決しないと自己嫌悪はどんどん増大していきます。
そうなると、それを打ち消すために自己肯定で上書きをするという反射行動が起こります。
自己肯定をやり過ぎると自意識過剰となっていきますので、つまりはプライドが高くなっていきます。
プライドというのは自己嫌悪の産物ということです。
自己嫌悪に押し潰されないようプライドに寄りかかってバランスを取っているというのが全体像になります。
そのプライドというのはガラスのようにもろい虚像ですから、それを維持するために日頃から他者を見下したり悪く言ったりすることになります。
これは自己嫌悪からの自滅を防ぐための一つの道ですから、どれを選択するかだけの話で、国や時代に関わらず誰にでも起こりうる現象です。
何百年、何千年もの間、世の中の大半がそうなると、助け合いや譲り合いといった精神論は通用しなくなります。
ただそうなると集団の統制が取れなくなるため、近隣国では儒教が採用されました。
しかしそれはあくまで外づけの矯正、ルールや規則に近いもので、価値観や美意識にまで昇華されるものではありませんでした。
実際、儒教が無くなるとともにキリスト教が圧倒しています。
もちろん今でも儒教の教えは形として残っています。
ただそれが規則やルールと化している証拠に、例えば「長幼の序」にしても、敬うという本質はすっ飛ばされ、年長者の方が偉いということに
フォーカスされてしまっています。
電車で席を譲るという場面でも、老人が若者に権利を主張し、頭ごなしにドヤしつけてどかせるということが起きています。
躾や道理として相手を叱るのではなく、権利を主張して怒りにまかせている状態です。
若者はこれを嫌って最初からシルバーシートに座らなくなるということですが、ルールとしては成立しても果たしてそれでいいのかということです。
若者たちにしても、それを権利による上下関係として諦めて席に座らない。
となれば将来、彼らが年老いたら同じように権利を主張するのは明らかです。
少し脱線しました。
その時代その環境によって何が正しいかというのは変わっていくのが自然な姿です。
天地宇宙にこれが正しいというものは存ません。
正しい正しくないというのはすべて私たちが決めているものです。
醜く生きるより美しく死んだ方がいいというのは、少なくともそういう価値観が存在する世界に生きる人が思うことです。
しかし苦境が何百年も続き、実利が全ての世界になると、今この時この瞬間の自分たちにとっての「正論」が絶対のものになります。
過去の事情なんて関係ない、相手の事情なんて関係ない、今の自分たちが正しい、となります。
現代の価値観を過去に当てはめて事後法で断罪するというのは、王朝交替(王朝が滅ぶと前代の全てを否定する)と根っこは同じと言えます。
政権が変わるたびに過去の約束を全て反故にするのはそのためです。
そもそも為政者と国民の関係性について「代替わりのたびに全てがリセットされ新たな国策が作り出される」「国策に関しては当代の政権に全責任が
あり国民は受け身でしかない」という感覚があるように見受けられます。
根っこに支配層と被支配層という感覚が残っているため、民主主義という概念が深部まで到達できず表層で上滑りしてしまっている。
だからこそ、日本の今の対応も全てはアベ政権の暴挙によるものだ、アベシンゾウが悪党なのだ、という個人攻撃が起こるわけです。
私たち日本人の感覚からすればそこがしっくりこないところだと思います。
政府の暴走でもなければ、政府からの押し付けでもない、扇動されたものでもない、国民全体として共有された感覚であるだけに、ここでもし安倍さん
が替わろうとも私たちの意識が変わるものではありません。
逆を言えばそれは、いかに隣国では官民の断絶が激しいか、いかに日頃から国民が騙され踊らされているか、独裁者的な要素が半ば諦めのもと受け
入れられているか、そしてそのことを国民がしっかり自覚しているかを表すものといえます。
そこにはトップが替われば国民の意識も変わるのが当たり前という無意識の賛意があるのかもしれません。
そうなると、投票した自分たちに責任はなく、自分たちを騙した為政者が悪いとなりますので、自己を振り返ることが為されなくなります。
自分たちが悪かったと認めませんと学習効果は起きませんので、再びまた感情に任せて大統領を選ぶことになります。
そして最後にはまた個人攻撃で弾劾して吊るし首にすることが繰り返されるということです。
プライドだけが自己存在を肯定するためのヨスガになってしまうと、それを危うくするような因子はすべて敵、すべて悪となります。
自作の妄想に全身を預けてしまうと、それが否定されることは自らの存在を否定されるのと同じ感覚になります。
ですから妄想を事実化させることに全力を注ぐことになります。
それはまさしく自己のアイデンティティーを確立させる行為、安定させる行為に他ならないのです。
ですから「それは事実と異なる」とお年寄りが言うと、こいつ売国奴だと吊るし上げられることになります。
自分の存在を危うくするのは敵という感覚です。
歴史上の事実よりも、自分がここに居てもいいという事実の方が重要になるのです。
プライドが砕かれることは自己肯定ができなくなることですから、存在を賭けてそれを阻止せねばならなくなります。
そうなると屈服という言葉も、私たちが考えるより遥かに重みのあるものとなっていきます。
プライドを守ろうとすると何事も勝った負けたという考えになります。
そしてそこで負けを認めるのは相手の靴を舐めるような屈辱だということになります。
そのため、それだけは絶対に認められないという独り相撲が始まるわけです。
近隣国の中ではお互いがそのような状態にありますので、自らの非を認めるというのは「負けを認めた」という意味に変換され、あらゆるものを
とことん奪い取ってもいいという話に飛躍します。
そして実際、何もかも奪い奪われる歴史がありました。
日本が統治していた時代、日本は決してそこまで酷いことはしませんでした。
あの時代のどの国もが普通にやっていた範囲内のことしかやっておらず、むしろ世界一厳しい軍規で西洋列国よりも紳士たろうとしていました。
ただ、今日の国際試合を見ても分かるように、勝った者は何をやってもいいという感覚を持ってしまっていると、日本の統治下もそうだったに違い
ないと勝手な想像を膨らませることになります。
想像というのは自分の意識の範囲内の材料によって作り上げられるものです。
範囲外にある考えや感覚はそこに加えられることはありません。
大陸の大国にしてもそうですが、戦時下の日本陸軍がやったとして捏造されている残虐行為は、どれもが彼らの行動原理に基づいているものです。
遥か昔の大陸での内戦や元寇などで見られはすれども、日本人の感性では思いつきすらしないものばかりです。
妄想というのは全てその本人の価値観、行動意識をピース(パズルの一片)にして作り上げられます。
そして実際、太平洋戦争でも日本に対してそのような残虐行為(散々なぶられて最後は残酷な殺され方をする)を行なっていたために、「生きて
虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が私たちの国に広まったわけです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/通州事件
戦陣訓は決して国民が強要されたり騙されたものではなく、生き地獄を味わわされる事実が当時共有されていたからこそ受け入れられたものだった
ということです。
幸いに米軍はそのような猟奇的な習慣を持っていませんでしたので、そのことを知っている後世から見ればひめゆりの塔なども軍部の洗脳による
悲劇にしか映りませんが、当時の日本人が身近に知っていた事実というのはむしろ大陸の出来事だったことを私たちは知らなくてはいけません。
戦後日本ではWGIP(戦争の罪悪感を植えつけるための宣伝計画、占領軍による洗脳プログラム)により全て自国が悪いことにされ、他国の非道は
封印されました。
今さらそれを蒸し返して相手が悪いなどと言うつもりは毛頭ありませんが、せめて先人の名誉だけは回復させるべきでしょう。
ご先祖様たちをさげずむようなプロパガンダを信じたままというのは草葉の陰で悲しませる行為となってしまいます。
話を戻します。
勝った人間は負けた相手に何をしてもいいという価値観を持っていると、どんなことがあっても自分の非を認めることはできないということになります。
自分が作った価値観に自ら脅されることになるわけです。
同時に、非を認めた相手からはとことん奪い続けていいという感覚を持つことになります。
一方では、自分たちの先祖がやられたのだから今こそ恨みを晴らす時だという妄想が加速していきます。
さらにはプライドを保つために生じる差別意識というものが輪をかけることになります。
隣国は大陸の文化や価値観を正当に引き継ぐものと称しているように、国内において苛烈な階層社会を形成していきました。
その意識というのは家庭の中まで浸透し、弱き存在は下へ下へと追いやられ、集団のバランスを取る役目を押し付けられたのでした。
このような精神構造が根底にあるため、現代においても学歴や社会的地位というものがそれに代わるものとなって残り続けています。
上へ上へと這い上がるため貪欲に頑張り、それが叶わず下層に固定化されると今度は支配層や富裕層を引きづりおろすパターンが繰り返されています。
パトカーまで出動する受験騒ぎや、権力者や高所得者への強烈なパッシングはそのような背景があります。
そして当然この精神構造というのは国家レベルにおいても現れるものです。
中国やロシア、アメリカは隣国に対して過去から一貫して強固な態度で接していましたが、日本は紳士たろうとして必要以上にへりくだり、下手
(したて)に出ていました。
これが今現在の状況を作り出した一番の原因となっています。
つまり、その中身が正しいか正しくないか以前に、精神的に自分たちより下にいる日本が自分たちより上に行こうとするなど生意気だ、許せない、
到底受け入れられないとなってしまったわけです。
こうなるともはや単なる心の問題ですから、理屈ではなくなります。
理解できない集団行動の出所はそこです。
精神的勝利などという謎の言葉を必死に追うのは自らの心の安定のためであり、それは自己存在を危うくされたくないという無意識の不安に因る
ものなのです。
実際、中国やロシアに同じことをされてもそこまでのヒステリーは起きません。
それはどちらの国も最初から一貫してガツンと強い態度で接していたからです。
ですから今さら日本が、大丈夫だよ、怖くないよと言ったところで、無意識のかなり奥深くまで根が張ってますので通じるものではありません。
なぜそんなにもハラハラしたりイライラするのか、その理由は当人が一番わかっていない状態だと言えます。
日本が嫌な理由を聞く街中アンケートでも「何となく」「過去に悪いことをしたから」となり、「でも日本人は嫌いじゃない」「日本文化は好き」となっています。
それを政府と市民は別ものなのだとか、国と国民は別なのだとか、安直にお花畑な結論に結びつけてしまうと物事の本質が見えなくなってしまいます。
一度や二度謝られたところでその不安やイライラやハラハラが無くなることはありません。
理屈でどうこう言うような上っ面の話ではなく、無意識下にある観念とそのパターン化に根ざすものだからです。
彼ら自身そのことに気づいていないので、一回謝れば不安やイライラは消えるものだと本気で思っています。
でもそこで消えるのは目の前の悶々だけであって、すぐまた不安やイライラが湧き上がってくるのです。
たまたま近隣国の話になりましたが、もともと誰にでも当てはまる話をしています。
プライドというのは、自己肯定をしきれない人間がしがみつく命綱のようなものです。
自分に対して不安があるとそれを打ち消すためにプライドが増幅していきます。
国やその歴史に対して不安があっても同じことが起こります。
そして自己肯定が出来ない人間はまわりから自分にOKを出してもらうことで安心を得ます。
ですからプライドが高い人間は、例外なく承認欲求が高くなります。
レーダー照射問題にせよ、不正輸出にせよ、サッと謝罪さえすればあっという間に終わる話ではないかというのは、育ちのいい人間が言うセリフ
かもしれません。
非を認めるというのは彼らの世界では社会的な死であるとともに個人にとっても精神的な死を意味します。
非を認めた人間が死後も唾を吐きかけられ、子々孫々まで非難され続けられている様を見ればそれは明白です。
いわゆる慰安婦問題にしろ、今回の一連のゴダゴダにしろ、ここに全ての本質があります。
謝ったら未来永劫謝り続けなければいけない、だから自分たちは謝れないし、逆に一度非を認めた日本人は永遠に謝り続けろ、となります。
現代の生活水準を見ると私たち日本人は無意識のうちに同じ価値観を有していると思い込んでしまいます。
そのため理解に苦しむ言動に映ってしまいますが、それは私たちのワガママというものです。
相手には相手のバックボーン、相手の価値観、相手の事情というものがあるのです。
伝統や民族性というのは何百年もの積み重ねによって醸成されていくものです。
もしも自分の負けを認めたらそこから相手は際限なく次々と何かを求めてくる、土下座をするというのはそういうものだ、という感覚があるのです。
どれほど不利な状況でも最低でも引き分けにしないといけない。うやむやにしないといけない。
ワーワーと騒いだり、相手のアラ探しをしたり、捏造してでも相手を悪者にしたりというのは長い歴史で得た処世術です。
ただそれが成功するのは、相手が大目に見たり、根負けしたりした場合に限りました。
通用しない相手には最後に土下座し、その代わり恨みをもって自己のバランスを保つというのが過去の歴史だったわけです。
ですから、もう仕方がないところまで来てしまいました。
過去において不幸にして恵まれない境遇に生まれてしまった。
それでも前だけを見て心を逞しくしていく道もあったかもしれませんが、そうではなく、まわりに責任転嫁して自らを保つ道を選んでしまった。
それは今さらもう如何ともしがたいものです。
そこに手を差し伸べるというのは、彼らからすれば「優位に立った」「勝った」ということになってしまいます。
結論を先送りにするというだけでなく事態をより深刻化させる悪手の極みです。
私たちも学ばせて頂く場面にあります。
どうしようもないこと、変わりようもないことを変わってほしいと思うからイライラがつのります。
相手が怒っている状況、波風の立った状態が辛いと思うから苦しくなります。
これまでの日本は、モヤモヤするのが嫌だから譲歩するという選択をしてきました。
でもその譲歩こそがお互いをますます不幸にすることになりました。
それは単に息苦しさを手っ取り早く解消させたいという手抜きであり、自己中心的な逃げでしかありません。
優しさだとか大人の対応だとかいうセリフは自己正当化の単なる言い訳、誤魔化しです。
相手が怒っているとなぜ苦しいと思うのか、そこが今私たちに突きつけられたものであるわけです。
もちろん、和を尊ぶ国民性というのも理由の一つかもしれません。
しかし今の場面で気づきとなるのは「和に執着していませんか?」ということです。
あるいは、平穏な状態が正しいと思ってないか、いい人に思われたいという強迫観念がありはしないか。
相手も自分と同じであって欲しいというのは単なるワガママです。
理解しあいたいというのもワガママです。
和合というものに執着すると、今の状況が変わって欲しいという我欲が生じます。
和合というものが安心安定なのは当然のことです。
でも、羽化する卵の話にもありますように、待ちきれず無理やり卵の殻を割るというのはどんな理由をつけても正当化されるものではありません。
相手にとってもこちらにとっても、そこに至るまでの必要な時間というものがあるのです。
平和主義者や差別反対者というのは、不調和を受け入れたくないという煩悩を自ら作り出し、その苦しみに向き合いたくないがために正論めいた
美辞麗句をもって真実を覆い隠し、目先の悶々からラクになろうとします。
それは相手のためでも何でもなく、単に自分のためでしかないわけです。
仕方がないものは仕方ない。
その割り切りが必要なのです。
隣人がもっと大人だったら良かったなどと思うのも、波立ちを嫌う自分勝手な思いの一つです。
原因の元が断てないなら、ただそのまま静かに置いておくしかありません。
たらいに張った水もそのまま置いておけば時間とともに必ず落ち着いていきます。
あとはそのあいだ静かに見守れるかどうかだけです。
日常の場面でも、自分が苦しいと思うものの根っこが何なのか、冷静に見極めることが大切です。
本質を直視しないまま表面のことに振り回され、それを嫌ってすぐに排除しようとしてないか。
相手のためというセリフ自体が、実は自分のワガママを満たすための逃げ口上に過ぎないかもしれません。
隣国のことを非難するつもりは毛頭ありません。
「どんなに理不尽でも人の言動にはそれなりの理由がある」
「世の中には綺麗事ではどうにもならないものが
沢山ある」
「どうにもならないことはなるようにしかならない」
「私たちの苦しみの原因は私たち自身にある」
そういうことです。
相手が何をやっても何を言っても、もうそれはそういうものなのです。
といって耳を塞いで無視をすればいいというものでもありません。
ただ心さえ向けていればいい。
誰の中にも同じ芽はあります。
それをそのままスルーしているか、セッセと水をあげるか、たったそれだけの違いであるわけです。
時代や環境が違えば私たちだって同じことをやっているかもしれません。
今この時というのは、彼らにとってはその芽がテーマであり、私たちにとってはまた別の芽がテーマであるというだけです。
波立ちをそのまま受け入れて静かに見守れるか。
優しさだとか理解だとか、そんな上っ面のことよりも遥かに大事なことを私たちはいま経験しています。
(おしまい)
でもそのまま話を聞いてると結局こっちが言ったままの展開ということがあります。
キャッチボールを図ろうとしているのに「違う」といって口を挟ませようとしない。
そうしたことが何度も続くと、その人の話はあまり聞きたくなくなってしまいます。
怖いのはその人が無意識のうちに「NO」が口癖になってしまっている場合です。
会話というのは自分一人で成立するものではありません。
お互いの参加によって成立するものです。
一方通行ではなく、行って返ってまた行ってという相互交流であるわけです。
一方的に「吐き出す」ことが目的になってしまうと、そこに二人いる意味がなくなります。
いつも条件反射的に「違う」と相手を制してしまうと、相手の心はそこから去ってしまいます。
相手からすれば、ここに居るのは別に自分でなくてマネキンでもいいだろうと思ってしまう。
自己完結している人の前にボーッと立たされている私は何なんだろうとなります。
なぜ交流を図ろうとしてくる相手にそのようにNOを出すのかといえば、それは自分の発言を守りたいからです。
貴方の意見はいいから、この自分の発言を大事にして欲しいと。
「出したいだけ」ならマジメに聞かなくてもいいだろと思いたくなりますが、その人としては一人でブツクサ言っている状態は嫌なわけです。
無理やり相手を座らせて、口を挟むな、私の話を聞いてくれ、となります。
そして相手が上の空でちゃんと聞いていないとカチンと来る。
これがどういうことかと言うと、自分という存在の手応えを得るためには、こちらに心を向けた他人の存在が必要になるということです。
「相手の話は聞きたくない」「自分だけが主張したい」というのは、実は「相手の存在を強く求めている」ことと同意だったのです。
私たちはテニスの壁打ちでは何も満たされません。
どれだけワガママで自己本位な人間であっても、その欲していることは「ハッキリ自分に返ってくるリターン」であり、その手応えであるわけです。
ですから、たとえ相手が目の前に居てくれたとしても、適当に返ってくるボールでは悶々が増すことになります。
ここでポイントになるのは「手応え」ということです。
つまり、無反応や無関心が一番堪え難い。
ポジティブな形に限らず、たとえネガティブな形でも手応えが欲しい。
スカスカの返球をされるくらいなら殺意のこもった返球の方がいい。
とにかくしっかり自分に向いて欲しい。
交流というのは、お互いの心が相手にしっかりと向くことで生じます。
この天地宇宙はすべてが流動しています。
存在するものはすなわち流動そのものです。
停滞してしまうと存在することができなくなります。
私たちは流動そのものですから、停止を嫌い流動を欲するのは本能であるわけです。
バンッ!と発するエネルギーがポジティブかネガティブかによって、見た目は友好か敵対か大きく変わりますが、どちらも「交流」に違いありません。
良好な関係、いがみ合う関係、憎しみ合う関係、すべて交流です。
慈しみや優しさというものはもちろんのこと、暴力や衝突もまた関係性の在り方の一つです。
親子の虐待が代々引き継がれてしまうのも、それしか関係性の在り方が分からないからですし、根底には交流を図りたいという本能があるわけです。
これは決してそれを肯定するということではなく、善悪という道徳観念だけがこの世の全てではないという話です。
それを幸せと見るか不幸せと見るかは客観的な評価でしかなく、事実は、停止・停滞だけはこの世に存在するかぎり出来ないということです。
単に殴られるよりも無視されたりスルーされることの方が遥かに辛いというのは、そこに交流が無くなるためです。
この世で最も残酷なことは無関心だと昔の聖人は言いました。
周囲との交流がゼロになり完全孤立することは、空の乾電池と同じで、ただの無機物と化すこと、存在しないことを意味します。
とはいえ、ポジティブな交流が大勢を占める社会においてネガティヴな交流は持続性に難ありとなります。
いつまでも悪態をつくような人間のまわりからはどんどん人が遠ざかっていきます。
そのためネガティブなアプローチを選んだ人は、なんとか自分の方を向いてもらおうと、そのスタイルをますますエスカレートさせていくしか
やりようが無くなります。
より攻撃的になることで相手の心が自分に向くようにする。
それが極端になると無差別犯罪を起こすようなことにもなります。
交流が途絶えると魂は悲鳴を上げます。
そのため手段を問わず周囲との繋がりを作ろうとします。
これは国レベルにおいても同じことが言えます。
外向きのスパイラルは和合となって広がっていきますが、内向きのスパイラルは自滅のブラックホールとなります。
一方的に吐き続けていては呼吸は成立しません。
吐くのと吸うのが交互にきて、それらが同じバランスになっていくのが自然な姿です。
これは職場でもそうですし、家庭でもそうです。
もちろん武道の世界でも同じです。
相手を一方的に制しようとする者は、それだけ自分自身を制してしまうことになります。
隣国との関係がここまで悪化してしまったのもこの理屈です。
会話というのはキャッチボールです。
自分の言いたいことを一方的にまくしたてて、相手の言うことには耳を塞いでしまうというのでは成立しません。
交流を拒絶して自分の話だけ聞いて欲しいというのは、天地自然の原理に照らしても無理な話であるわけです。
相手にNOを出して自分だけ喚き続けるようなことをされると、誰だってその土俵から降りたくなります。
それでも彼らは歴史的に、相手をぶん殴って怒らせて関係性を保つというやり方を選んできました。
何百年もの間、支配者に対して恨みと憎しみという形で関係性を保ち、目下の人たちに対しては相手の完全服従という形で関係性を構築しました。
自分の立場が上になっても下になっても、そうした従属の構図で関係性を保ち、上から下へ、下から上へ、流動というものを維持し続けてきました。
隣国は自立してからほんのわずかしか経っていません。
今現在の暮らしの後ろには何千年もの苦しい歴史が流れています。
暮らしや嗜好は数十年あれば変わりますが、価値観や国民性というのはたかだか数世代で変わるものではありません。
明日の生活が保証されていない人間が第一に優先するのは当然、生き残ることです。
私たちは命が保証されて初めて、それ以外のことへ心を向ける余裕が出てきます。
弱肉強食の世界というのは、近隣国に限らず日本でも引き揚げの時や闇市の時に体験しました。
ただ日本の場合はそれが短期間で終わったのが幸いでした。
でもそれが百年単位、千年単位でその苦境が続いたらどうなるか。
正直者は馬鹿を見るというのが何世代も続いてしまう。
二代、三代くらいならば頑張れたとしても先細りになるのは明らかです。
なにせ食べものもロクに手に入らないわけですから。
そもそもこの世は綺麗事では生きていけません。
綺麗事や正論というのは人間が作った観念の一つにすぎません。
天地自然に正しい正しくないなんて論理は存在しません。
それは戦争や貧困といった極限状態になると一層、顕在化していきます。
そこのところを、お花畑の平和主義者の人たちは分かっていません。
生きる余裕がない時は、相手を生かすなんて生ぬるいことは言ってられない。
もちろんそんな中でも相手を生かそうとする人も居るでしょう。
ただそれは見えない程度にこっそりやるしかありません。
表立ってそれをやると一気に身ぐるみ剥がされるツラい世界があるわけです。
生まれた時、私たちは誰もがみんな無垢な存在です。
これは国や民族に関係なく、いつ何処に生まれても同じことです。
ですから、古今東西、和洋を問わず、誰だって自ら穢れることは忌み嫌うものです。
誰かを貶めたり悪口を言ったりすると、全ての人間は必ず自己嫌悪というものに直面します。
相手を押しのけて自分のことしか考えないようなことをすると、心が苦しくなって自己嫌悪に悶々となります。
これはどんな国のどんな人間であっても、一番最初は必ず味わうものです。
どんな悪人でも子供の頃まで遡ると、必ずその最初の体感があります。
誰もが直面するその場面でどういう対処をするかによってその後が大きく変わります。
自分の身を振り返ってそれを正したならば、ゼロリセットされますので、次にまた同じ場面に直面した時に同じように自己嫌悪に悶々とすることが
できます。
「することができる」と言ったのは、汚れた身をまた綺麗にすることが出来るという意味からです。
天地に照らして自分が不自然な状態にあるのを自覚すると、モヤモヤが消えませんので自発的に身を正すことになります。
逆にひとたびそれを他人や環境や社会といった外部のせいにすると、次また同じようなことが起きても外部のせいにすることになります。
最初のうちこそ他人のせいにすることにモヤモヤとした自己嫌悪を覚えるのですが、それを無視して繰り返すにつれ、心にとめることなく無自覚に
そのパターンに放り込むようなオートモード(自動装置)が出来上がっていきます。
すると、他人のせいにしても悶々と良心の呵責にさいなまれるようなことが起こらず、何も感じずスッキリ、ケロリとした状態がキープされるように
なります。
他人を押しのけて自分のことしか考えてないと、普通はモヤモヤした気持ちになります。
しかしオートモードになると、モヤモヤしなくなるわけです。
ただこの方法を取ると、罪穢れをどんどん自分の身にまとっていくことになります。
外へポンと投げて責任回避していると、感覚としては自分は何も汚れていないような感じになります。
でもあくまでそれは顕在意識の感覚であって、実際は目を背けているだけでしっかり心の芯にまで届いていますので、罪穢れとしてどんどん積もり
積もっていくことになるのです。
とはいえ綺麗事では生きていけない時代や世界に生まれ落ちたら、自らの身を正して我欲を捨てて生きていけるものではありません。
自責の念に負けてしまったら物理的に生き残れない世界があります。
日本では飢饉や疫病に苦しんだ中世以前がおそらくこれに近い状態だったのではないかと想像します。
実際、中世以前の日本を見ると、誰もが自分は地獄に行くものだと頭を抱え、救いを求めていました。
心も感覚も今よりはるかに繊細だった当時の人たちですから、穢れに堪え兼ね、自責の念に悶絶したことは想像にかたくありません。
ただ、だからといってその頃の人たちはこの世を呪ったり、誰かを恨んだり、外部のせいにしたりして楽になろうとは考えませんでした。
このあまりに不条理な世の中に生まれついた不幸をどう飲み込むか。
そうして、個々を救済する教えとして仏教が庶民に広がったのでした。
そしてそれは、おすがりの宗教なんかではありませんでした。
素直で正直な人たちが真剣に悩む思いを決して否定することなく「生きろ!」とその背中を後押しするものだったのです。
「生まれながらの罪人だから仕方ない、罪深き人間だから贖罪が必要だ、地獄行きだ」と言って、死人に鞭打つような非情な宗教とはそこが決定的
に違いました。
「確かに我欲を捨てて生きることこそ正しい、しかし生きるためにはそんなことは無理だ、それでも大丈夫、今は穢れに苦しむともそれで地獄に
行くことはない、腐らず立ち上がれ、その先には光差し込む未来がある」と絶対肯定で寄り添って
肩を貸したのでした。
こうして私たちのご先祖様の心は救われました。
私たちが今、人のせいにすると悶々と自己嫌悪に陥ったり、その結果反省してキチンと身を正してスッキリなれるのも、全てそうしたご先祖様たち
のおかげです。
そんなの当たり前と思うのは恩知らずです。
それが当たり前ではない国もあるのです。
地獄のような苦しみの中、自己の我欲と穢れに目を背けず、直視してそれを受け入れることは本当に大変なことです。
せめてお盆の時期だけでも、そうした思いに手を合わせて感謝したいものです。
一方、近隣国では過去においてそうした自己嫌悪の苦しみから逃れるために、嫌悪のエネルギーを外へ向けることで解決を図りました。
つまり悪いのは自分ではなく、相手だ、世間だ、国だ、と。
それが「恨」の文化となりました。
他者嫌悪というのは、実は自己嫌悪の裏返しであったということです。
それが強ければ強いほど、いかにそのプロセスを繰り返してきたかということになります。
自己嫌悪というのは自分自身の否定に繋がりますので本能的にそのまま放置しておくことは不可能です。
私たちのご先祖様は、その原因となる我執を捨てることで嫌悪の元を絶ちました。
もしそこで知らんぷりしてそのまま原因を解決しないと自己嫌悪はどんどん増大していきます。
そうなると、それを打ち消すために自己肯定で上書きをするという反射行動が起こります。
自己肯定をやり過ぎると自意識過剰となっていきますので、つまりはプライドが高くなっていきます。
プライドというのは自己嫌悪の産物ということです。
自己嫌悪に押し潰されないようプライドに寄りかかってバランスを取っているというのが全体像になります。
そのプライドというのはガラスのようにもろい虚像ですから、それを維持するために日頃から他者を見下したり悪く言ったりすることになります。
これは自己嫌悪からの自滅を防ぐための一つの道ですから、どれを選択するかだけの話で、国や時代に関わらず誰にでも起こりうる現象です。
何百年、何千年もの間、世の中の大半がそうなると、助け合いや譲り合いといった精神論は通用しなくなります。
ただそうなると集団の統制が取れなくなるため、近隣国では儒教が採用されました。
しかしそれはあくまで外づけの矯正、ルールや規則に近いもので、価値観や美意識にまで昇華されるものではありませんでした。
実際、儒教が無くなるとともにキリスト教が圧倒しています。
もちろん今でも儒教の教えは形として残っています。
ただそれが規則やルールと化している証拠に、例えば「長幼の序」にしても、敬うという本質はすっ飛ばされ、年長者の方が偉いということに
フォーカスされてしまっています。
電車で席を譲るという場面でも、老人が若者に権利を主張し、頭ごなしにドヤしつけてどかせるということが起きています。
躾や道理として相手を叱るのではなく、権利を主張して怒りにまかせている状態です。
若者はこれを嫌って最初からシルバーシートに座らなくなるということですが、ルールとしては成立しても果たしてそれでいいのかということです。
若者たちにしても、それを権利による上下関係として諦めて席に座らない。
となれば将来、彼らが年老いたら同じように権利を主張するのは明らかです。
少し脱線しました。
その時代その環境によって何が正しいかというのは変わっていくのが自然な姿です。
天地宇宙にこれが正しいというものは存ません。
正しい正しくないというのはすべて私たちが決めているものです。
醜く生きるより美しく死んだ方がいいというのは、少なくともそういう価値観が存在する世界に生きる人が思うことです。
しかし苦境が何百年も続き、実利が全ての世界になると、今この時この瞬間の自分たちにとっての「正論」が絶対のものになります。
過去の事情なんて関係ない、相手の事情なんて関係ない、今の自分たちが正しい、となります。
現代の価値観を過去に当てはめて事後法で断罪するというのは、王朝交替(王朝が滅ぶと前代の全てを否定する)と根っこは同じと言えます。
政権が変わるたびに過去の約束を全て反故にするのはそのためです。
そもそも為政者と国民の関係性について「代替わりのたびに全てがリセットされ新たな国策が作り出される」「国策に関しては当代の政権に全責任が
あり国民は受け身でしかない」という感覚があるように見受けられます。
根っこに支配層と被支配層という感覚が残っているため、民主主義という概念が深部まで到達できず表層で上滑りしてしまっている。
だからこそ、日本の今の対応も全てはアベ政権の暴挙によるものだ、アベシンゾウが悪党なのだ、という個人攻撃が起こるわけです。
私たち日本人の感覚からすればそこがしっくりこないところだと思います。
政府の暴走でもなければ、政府からの押し付けでもない、扇動されたものでもない、国民全体として共有された感覚であるだけに、ここでもし安倍さん
が替わろうとも私たちの意識が変わるものではありません。
逆を言えばそれは、いかに隣国では官民の断絶が激しいか、いかに日頃から国民が騙され踊らされているか、独裁者的な要素が半ば諦めのもと受け
入れられているか、そしてそのことを国民がしっかり自覚しているかを表すものといえます。
そこにはトップが替われば国民の意識も変わるのが当たり前という無意識の賛意があるのかもしれません。
そうなると、投票した自分たちに責任はなく、自分たちを騙した為政者が悪いとなりますので、自己を振り返ることが為されなくなります。
自分たちが悪かったと認めませんと学習効果は起きませんので、再びまた感情に任せて大統領を選ぶことになります。
そして最後にはまた個人攻撃で弾劾して吊るし首にすることが繰り返されるということです。
プライドだけが自己存在を肯定するためのヨスガになってしまうと、それを危うくするような因子はすべて敵、すべて悪となります。
自作の妄想に全身を預けてしまうと、それが否定されることは自らの存在を否定されるのと同じ感覚になります。
ですから妄想を事実化させることに全力を注ぐことになります。
それはまさしく自己のアイデンティティーを確立させる行為、安定させる行為に他ならないのです。
ですから「それは事実と異なる」とお年寄りが言うと、こいつ売国奴だと吊るし上げられることになります。
自分の存在を危うくするのは敵という感覚です。
歴史上の事実よりも、自分がここに居てもいいという事実の方が重要になるのです。
プライドが砕かれることは自己肯定ができなくなることですから、存在を賭けてそれを阻止せねばならなくなります。
そうなると屈服という言葉も、私たちが考えるより遥かに重みのあるものとなっていきます。
プライドを守ろうとすると何事も勝った負けたという考えになります。
そしてそこで負けを認めるのは相手の靴を舐めるような屈辱だということになります。
そのため、それだけは絶対に認められないという独り相撲が始まるわけです。
近隣国の中ではお互いがそのような状態にありますので、自らの非を認めるというのは「負けを認めた」という意味に変換され、あらゆるものを
とことん奪い取ってもいいという話に飛躍します。
そして実際、何もかも奪い奪われる歴史がありました。
日本が統治していた時代、日本は決してそこまで酷いことはしませんでした。
あの時代のどの国もが普通にやっていた範囲内のことしかやっておらず、むしろ世界一厳しい軍規で西洋列国よりも紳士たろうとしていました。
ただ、今日の国際試合を見ても分かるように、勝った者は何をやってもいいという感覚を持ってしまっていると、日本の統治下もそうだったに違い
ないと勝手な想像を膨らませることになります。
想像というのは自分の意識の範囲内の材料によって作り上げられるものです。
範囲外にある考えや感覚はそこに加えられることはありません。
大陸の大国にしてもそうですが、戦時下の日本陸軍がやったとして捏造されている残虐行為は、どれもが彼らの行動原理に基づいているものです。
遥か昔の大陸での内戦や元寇などで見られはすれども、日本人の感性では思いつきすらしないものばかりです。
妄想というのは全てその本人の価値観、行動意識をピース(パズルの一片)にして作り上げられます。
そして実際、太平洋戦争でも日本に対してそのような残虐行為(散々なぶられて最後は残酷な殺され方をする)を行なっていたために、「生きて
虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が私たちの国に広まったわけです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/通州事件
戦陣訓は決して国民が強要されたり騙されたものではなく、生き地獄を味わわされる事実が当時共有されていたからこそ受け入れられたものだった
ということです。
幸いに米軍はそのような猟奇的な習慣を持っていませんでしたので、そのことを知っている後世から見ればひめゆりの塔なども軍部の洗脳による
悲劇にしか映りませんが、当時の日本人が身近に知っていた事実というのはむしろ大陸の出来事だったことを私たちは知らなくてはいけません。
戦後日本ではWGIP(戦争の罪悪感を植えつけるための宣伝計画、占領軍による洗脳プログラム)により全て自国が悪いことにされ、他国の非道は
封印されました。
今さらそれを蒸し返して相手が悪いなどと言うつもりは毛頭ありませんが、せめて先人の名誉だけは回復させるべきでしょう。
ご先祖様たちをさげずむようなプロパガンダを信じたままというのは草葉の陰で悲しませる行為となってしまいます。
話を戻します。
勝った人間は負けた相手に何をしてもいいという価値観を持っていると、どんなことがあっても自分の非を認めることはできないということになります。
自分が作った価値観に自ら脅されることになるわけです。
同時に、非を認めた相手からはとことん奪い続けていいという感覚を持つことになります。
一方では、自分たちの先祖がやられたのだから今こそ恨みを晴らす時だという妄想が加速していきます。
さらにはプライドを保つために生じる差別意識というものが輪をかけることになります。
隣国は大陸の文化や価値観を正当に引き継ぐものと称しているように、国内において苛烈な階層社会を形成していきました。
その意識というのは家庭の中まで浸透し、弱き存在は下へ下へと追いやられ、集団のバランスを取る役目を押し付けられたのでした。
このような精神構造が根底にあるため、現代においても学歴や社会的地位というものがそれに代わるものとなって残り続けています。
上へ上へと這い上がるため貪欲に頑張り、それが叶わず下層に固定化されると今度は支配層や富裕層を引きづりおろすパターンが繰り返されています。
パトカーまで出動する受験騒ぎや、権力者や高所得者への強烈なパッシングはそのような背景があります。
そして当然この精神構造というのは国家レベルにおいても現れるものです。
中国やロシア、アメリカは隣国に対して過去から一貫して強固な態度で接していましたが、日本は紳士たろうとして必要以上にへりくだり、下手
(したて)に出ていました。
これが今現在の状況を作り出した一番の原因となっています。
つまり、その中身が正しいか正しくないか以前に、精神的に自分たちより下にいる日本が自分たちより上に行こうとするなど生意気だ、許せない、
到底受け入れられないとなってしまったわけです。
こうなるともはや単なる心の問題ですから、理屈ではなくなります。
理解できない集団行動の出所はそこです。
精神的勝利などという謎の言葉を必死に追うのは自らの心の安定のためであり、それは自己存在を危うくされたくないという無意識の不安に因る
ものなのです。
実際、中国やロシアに同じことをされてもそこまでのヒステリーは起きません。
それはどちらの国も最初から一貫してガツンと強い態度で接していたからです。
ですから今さら日本が、大丈夫だよ、怖くないよと言ったところで、無意識のかなり奥深くまで根が張ってますので通じるものではありません。
なぜそんなにもハラハラしたりイライラするのか、その理由は当人が一番わかっていない状態だと言えます。
日本が嫌な理由を聞く街中アンケートでも「何となく」「過去に悪いことをしたから」となり、「でも日本人は嫌いじゃない」「日本文化は好き」となっています。
それを政府と市民は別ものなのだとか、国と国民は別なのだとか、安直にお花畑な結論に結びつけてしまうと物事の本質が見えなくなってしまいます。
一度や二度謝られたところでその不安やイライラやハラハラが無くなることはありません。
理屈でどうこう言うような上っ面の話ではなく、無意識下にある観念とそのパターン化に根ざすものだからです。
彼ら自身そのことに気づいていないので、一回謝れば不安やイライラは消えるものだと本気で思っています。
でもそこで消えるのは目の前の悶々だけであって、すぐまた不安やイライラが湧き上がってくるのです。
たまたま近隣国の話になりましたが、もともと誰にでも当てはまる話をしています。
プライドというのは、自己肯定をしきれない人間がしがみつく命綱のようなものです。
自分に対して不安があるとそれを打ち消すためにプライドが増幅していきます。
国やその歴史に対して不安があっても同じことが起こります。
そして自己肯定が出来ない人間はまわりから自分にOKを出してもらうことで安心を得ます。
ですからプライドが高い人間は、例外なく承認欲求が高くなります。
レーダー照射問題にせよ、不正輸出にせよ、サッと謝罪さえすればあっという間に終わる話ではないかというのは、育ちのいい人間が言うセリフ
かもしれません。
非を認めるというのは彼らの世界では社会的な死であるとともに個人にとっても精神的な死を意味します。
非を認めた人間が死後も唾を吐きかけられ、子々孫々まで非難され続けられている様を見ればそれは明白です。
いわゆる慰安婦問題にしろ、今回の一連のゴダゴダにしろ、ここに全ての本質があります。
謝ったら未来永劫謝り続けなければいけない、だから自分たちは謝れないし、逆に一度非を認めた日本人は永遠に謝り続けろ、となります。
現代の生活水準を見ると私たち日本人は無意識のうちに同じ価値観を有していると思い込んでしまいます。
そのため理解に苦しむ言動に映ってしまいますが、それは私たちのワガママというものです。
相手には相手のバックボーン、相手の価値観、相手の事情というものがあるのです。
伝統や民族性というのは何百年もの積み重ねによって醸成されていくものです。
もしも自分の負けを認めたらそこから相手は際限なく次々と何かを求めてくる、土下座をするというのはそういうものだ、という感覚があるのです。
どれほど不利な状況でも最低でも引き分けにしないといけない。うやむやにしないといけない。
ワーワーと騒いだり、相手のアラ探しをしたり、捏造してでも相手を悪者にしたりというのは長い歴史で得た処世術です。
ただそれが成功するのは、相手が大目に見たり、根負けしたりした場合に限りました。
通用しない相手には最後に土下座し、その代わり恨みをもって自己のバランスを保つというのが過去の歴史だったわけです。
ですから、もう仕方がないところまで来てしまいました。
過去において不幸にして恵まれない境遇に生まれてしまった。
それでも前だけを見て心を逞しくしていく道もあったかもしれませんが、そうではなく、まわりに責任転嫁して自らを保つ道を選んでしまった。
それは今さらもう如何ともしがたいものです。
そこに手を差し伸べるというのは、彼らからすれば「優位に立った」「勝った」ということになってしまいます。
結論を先送りにするというだけでなく事態をより深刻化させる悪手の極みです。
私たちも学ばせて頂く場面にあります。
どうしようもないこと、変わりようもないことを変わってほしいと思うからイライラがつのります。
相手が怒っている状況、波風の立った状態が辛いと思うから苦しくなります。
これまでの日本は、モヤモヤするのが嫌だから譲歩するという選択をしてきました。
でもその譲歩こそがお互いをますます不幸にすることになりました。
それは単に息苦しさを手っ取り早く解消させたいという手抜きであり、自己中心的な逃げでしかありません。
優しさだとか大人の対応だとかいうセリフは自己正当化の単なる言い訳、誤魔化しです。
相手が怒っているとなぜ苦しいと思うのか、そこが今私たちに突きつけられたものであるわけです。
もちろん、和を尊ぶ国民性というのも理由の一つかもしれません。
しかし今の場面で気づきとなるのは「和に執着していませんか?」ということです。
あるいは、平穏な状態が正しいと思ってないか、いい人に思われたいという強迫観念がありはしないか。
相手も自分と同じであって欲しいというのは単なるワガママです。
理解しあいたいというのもワガママです。
和合というものに執着すると、今の状況が変わって欲しいという我欲が生じます。
和合というものが安心安定なのは当然のことです。
でも、羽化する卵の話にもありますように、待ちきれず無理やり卵の殻を割るというのはどんな理由をつけても正当化されるものではありません。
相手にとってもこちらにとっても、そこに至るまでの必要な時間というものがあるのです。
平和主義者や差別反対者というのは、不調和を受け入れたくないという煩悩を自ら作り出し、その苦しみに向き合いたくないがために正論めいた
美辞麗句をもって真実を覆い隠し、目先の悶々からラクになろうとします。
それは相手のためでも何でもなく、単に自分のためでしかないわけです。
仕方がないものは仕方ない。
その割り切りが必要なのです。
隣人がもっと大人だったら良かったなどと思うのも、波立ちを嫌う自分勝手な思いの一つです。
原因の元が断てないなら、ただそのまま静かに置いておくしかありません。
たらいに張った水もそのまま置いておけば時間とともに必ず落ち着いていきます。
あとはそのあいだ静かに見守れるかどうかだけです。
日常の場面でも、自分が苦しいと思うものの根っこが何なのか、冷静に見極めることが大切です。
本質を直視しないまま表面のことに振り回され、それを嫌ってすぐに排除しようとしてないか。
相手のためというセリフ自体が、実は自分のワガママを満たすための逃げ口上に過ぎないかもしれません。
隣国のことを非難するつもりは毛頭ありません。
「どんなに理不尽でも人の言動にはそれなりの理由がある」
「世の中には綺麗事ではどうにもならないものが
沢山ある」
「どうにもならないことはなるようにしかならない」
「私たちの苦しみの原因は私たち自身にある」
そういうことです。
相手が何をやっても何を言っても、もうそれはそういうものなのです。
といって耳を塞いで無視をすればいいというものでもありません。
ただ心さえ向けていればいい。
誰の中にも同じ芽はあります。
それをそのままスルーしているか、セッセと水をあげるか、たったそれだけの違いであるわけです。
時代や環境が違えば私たちだって同じことをやっているかもしれません。
今この時というのは、彼らにとってはその芽がテーマであり、私たちにとってはまた別の芽がテーマであるというだけです。
波立ちをそのまま受け入れて静かに見守れるか。
優しさだとか理解だとか、そんな上っ面のことよりも遥かに大事なことを私たちはいま経験しています。
(おしまい)