私たちというのは、広大無辺な天地宇宙そのものです。
そして、今この姿というのは、そこに切り絵を乗せたものに過ぎないという話をしてきました。
そうなりますと、この世の死というのは、その切り絵が無くなることを意味します。
切り絵が無くなろうと、私たち自身は相変わらず今ここにドーンと在るままです。
それまでと何も変わりません。
長いこと窮屈なところに顔を押し込んでいたのが無くなったわけですから、一気に軽くなって、急に大きくなった
ように感じるかもしれません。
最初のうちこそ、観光パネルに押し当てていた跡が残ってますので、この世の姿形のままでいるかもしれませんが、
跡が消えていくにつれて全体に溶け合っていくことでしょう。
たとえば、自分の腕に何かをギューと押し当ててそれをパッと離すと、その跡が皮膚に残ります。
その部分だけ、まわりの皮膚と違う形になります。
そして時間とともにスーッと跡は消えていき、まわりとの境目もなくなり、元の状態に戻ります。
これと全く同じです。
私たちは共通の決めごととして、パネルに顔を突っ込んでいる状態を、本当の自分ということにしようと、お互いに
了解し合っています。
夢の国に行った時は、着ぐるみのミッキーを見てそれが本物ということにしておいた方が、幸せに楽しめるというもの
です。
もともとはそういう遊び心だったのです。
ただその薬が効きすぎて、着ぐるみの世界にドップリ浸かって苦しんでしまっているのが、今の私たちです。
頭の思考というのは、実は、切り絵と同じ平面上に存在しています。
ここでいう思考とは「自我から発せられる思考」のことですが、細かく書くと分かりにくくなってしまうので、一先ず
ひとくくりに「思考」と書くことにします。
あれこれ思ったり考えたりした途端、私たちは私たち自身(広大なテーブル)から離れて、切り絵の平面へと移動して
しまいます。
次々とスライドしている切り絵の上に乗っかって、意識は慌ただしく過去や未来へとポンポン飛んでいきます。
過去や未来というのは、天地無限に広がる本当の私たち自身ではなく、ただの切り絵に過ぎません。
しかしあたかもそれが、今ここに在る私たち自身と同一のものであるような錯覚に陥ってしまいます。
そうして、悶々と悩んだり心配したりしてしまうわけです。
わずかでも思考した瞬間、私たちは、今ここ(=天地宇宙、私たち自身)から離れてしまいます。
思考が切り絵の次元に存在しているということは、「今ここ」に戻るには思考を手放す必要があるということです。
思考によって今ここに戻ることはできません。
意思や作為が働いているうちは、“今ココっぽい切り絵”に戻ることはできても、下に広がる次元に戻ることはできない
のです。
思考を手放すための方便は、これまでも色々と書いてきました。
・一心不乱にやる
・一所懸命になる
・100%集中する
・リラックスする
・完全に諦める
・ほっとく
・受け入れる
・ハシャぐ
・笑う
・身体を動かす
・感覚に耳を澄ます
・深い呼吸をする
・真善美に触れる
・全てを信じきる
・任せきる…
あらためて見ますと、どれもこれも子どもの頃は当たり前にやっていたことなのに、今ではすっかり疎遠になったもの
ばかりというのが、悲しいかな、ナルホドなという感じです。
さて、ここまで切り絵に喩えて自分の姿を追って来ましたが、それというのは当然、自分以外の人たちにも当てはまる
ことです。
誰もがその本体は私たちと同じ広大無辺のテーブル(大いなる一つ)であり、みんなもまた切り絵のパネルからヒョイ
と顔を出しているということです。
切り絵の向こうには、天地宇宙が広がっています。
それは人間に限らず、動物にせよ草木にせよ、みんなそうであるわけです。
どの切り絵も、みな同じ一つのテーブルの上に置かれたものです。
私たちの目に映る全ては、観光パネルの穴からヒョイと顔を覗かせている天地宇宙そのものであるのです。
まったくもって、山川草木悉有仏性です。
そしてそのテーブルこそは私たち自身でありました。
つまり、天地のあらゆるものは私たち自身でもあるということです。
仏性というのは、まさしく私たち自身のことなのです。
それにしても、なぜ私たちはわざわざそんなややこしいことをやっているのでしょうか。
その理由というのは、前回の冒頭にも書いた通りです。
それは、まさに笑点の演芸そのものであるわけです。
舞台の上で、様々な切り絵をササーッと切り取る。
出来たものを見て、オーッとドヨめくこともあれば、ゲラゲラと笑いが起こることもあります。
あるいは、なかなか上手くいかずにウーンと苦労している姿を、固唾を飲んで見守る。
これもまた一興ということです。
んなアホな!?
命ってそんな軽いもんちゃうやろ?
もっとスゴいことするためのもんちゃうの??
そう思われる方もいるかもしれません。
別にそれが「軽いもん」とは思いませんが、でもそういうことです。
もちろん、命というものは途轍もなく尊いものです。
それは疑いようのない事実です。
ただ、その事実をそのまま全て切り絵に乗せてしまうからシンドくなってしまうのです。
命というものと今回の切り絵というものを完全に同一視してしまうと、今回の切り絵をとにかく凄いものにしないと
見合わない、命に申し訳ないという思いが芽生えてしまいます。
そしてそれが満たされないことの不足感や劣等感、挫折感というものが自分を卑下する原因となってしまいます。
自分はまだ足りていない、ダメな部分がある…
そうして、そのままの自分を無条件にオールOKで受け入れることに抵抗を覚えてしまうのです。
しかし、命とは永遠に変わることなく今ここに在るものです。
切り絵がどうなろうと、何も変わらず静かに広がったままでいます。
その全てを切り絵に乗せてしまうというのは、それこそ無茶な話です。
それはそれ、これはこれなのです。
見合っていないとか、申し訳ないと思うこと自体が、現実無視の一人相撲なわけです。
現実というのは、大きな大きな自分が、この切り絵をフンワリと優しく包んでいます。
この切り絵が凄いか凄くないかなど、本当にどうでもいいことなのです。
そして、凄いとか平凡とかいう判断こそは、まさしく人間の考えが生み出すものに過ぎません。
どれほど目立とうが、どれほど地味だろうが、所詮は同じ切り絵なのです。
もしも誰か他の人物の切り絵を見て、凄いとか羨ましいとか感じたとしても、そう思っているのは今この切り絵に
乗っかっている自分なのです。
思考は常に切り絵の次元にあります。
切り絵が、他の切り絵に成りたいと思っても、そんなのはハナから無理な話であるわけです。
その大奥に鎮座している広大無辺な自分は、そんなことはつゆも思っていません。
何故なら、あっちの方でその切り絵を覗いているのも自分だからです。
もちろん、夢や憧れはとても大事なものです。
よし自分も頑張ろう!というのは大切なことです。
しかし「それに比べて今の自分は…」と比較が入ってしまうとおかしなことになってしまいます。
あらゆる雑音には脇目も触れずに一所懸命やるというのは、本当に素晴らしいことです。
そこには理屈も定義付けも必要ありません。
ただ、やる。
一心不乱にやる。
第一、「壮大なことを成すために一所懸命やるのだ」なんておかしな話でしょう。
脇目を触れまくりです。
でも固定観念とはそういうものです。
無意識下であっても何かしらの思いや考えが残っていると「今ここ」に完全な集中はできません。
「一所」に懸命にはなれないということです。
あれこれ考えて出来上がった理想像に押し潰されて落ち込むというのは、とても悲しい状態です。
そんなものは「今ここ」とは関係のない、空想の世界、ファンタジーの世界なのです。
切り絵と同じ平面上の、思考の産物に過ぎません。
そんな幻想に振り回される暇があったら、とにかく今の目の前のことを淡々とやるだけです。
どうしても空想の産物に囚われてしまう時は、壮大なことにせよ、素晴らしい自分にせよ、それとて遊びの延長に
過ぎないと考えてみるのもいいかと思います。
凄いことを成すのも、あるいは凄い自分というのも結局はみんな切り絵なんだよ、と。
思考をもって思考を制す、です。
分かっていても手放せないなら、上書きをして、見た目を軽くしてしまう。
そうすれば、何のためらいもなく自然にポイと捨てられるでしょつ。
それに、切り絵に過ぎないという遊び心があってこそ初めて、壮大なことが成せるとも言えます。
「凄いことをするのは実に重々しいことなのだ」という思い込みは、その実現を遠ざけることにしかなりません。
切り絵に、重いも軽いもありません。
そこには等しく、楽しさがあるだけです。
力みを抜くといっても、適当にやっていいとか、怠けていいということではありません。
ナチュラルに楽しければ、真面目もエエ加減も関係ないということです。
本当に楽しんでいる姿が、もし誰かの目にはエエ加減なように映ったとしても、そんなものは気にする方が無駄という
ものです。
その誰かの目というのは、結局は切り絵に乗っかってる視点でしかないからです。
また、白い紙をチョキチョキと切っているのは、私たち自身です。
だから、時間も空間も自分が創造しているという話にもなってきます。
どのように切るかは自分次第ですから、この世というのは本来は自由自在です。
ただそこには、今回はこのアトラクションで行こうと、自ら決めて来ている部分もあります。
また、我欲のまさった紙切りは、エッジの尖った雑な切り抜きにしかなりません。
若い頃はイケイケでガツガツした切り口となりますが、歳を追うごとに我欲は薄まり円やかな切り口となります。
我欲が薄まるにつれて力が抜けて、天地の呼吸、天地のリズムに乗った切り方になっていきます。
それは、「こうしたい」「こうありたい」という主張のない透明なものとなります。
ですから、理屈としては全取っ替えも可能ですが、自ずと範囲が決まってくるということです。
ただ、かなりの範囲まではカッティングが出来るのもまた真実です。
それだけの自由を与えられているのに、自分で勝手な制約を決めつけてしまうのはもったい無い話であるわけです。
いずれにせよ、切り絵の形を好きだ嫌いだと考えているうちは、自分の中心は切り絵の世界へ囚われてしまっている
ことになります。
紙の切り方やテクニックを鍛えるよりも、まずはそこから一歩下がってフッと一息つく。
そこでこの全景を見てしまったら、ブハハと笑って、ハサミをガチガチに握っていた力みも抜けることでしょう。
そうして今一度、軽く持ってその穴から覗いて見るということです。
ただ決して忘れてならないのは、そこから顔を覗かせているのは間違いなく私たちであることです。
ですから、所詮は切り絵だといって、この現実世界や自分というものを軽んじることは絶対にあってはなりません。
それは結局は、本当の自分を軽視していることになってしまいます。
私たちがわざわざ全てを忘れて来ているのは、この壮大なテーマパークを芯から楽しむためでもあり、また“初めての
おつかい”を再現するためでもあります。
おっかなビックリもまた喜びの裏返しなのです。
この世を軽んじて、下敷きの世界にばかり心を向けているのでは、乳離れできない現実逃避のお子様でしかありません。
すべてを分かった上で、あらためて楽しみきる。
この世に100パーセント心を向けることが、私たちが今なすべきこと
です。
全景が見えたあとも、現実のパネルは何も変わらないかもしれません。
これまでと同じように、雑多な仕事暮らしや平凡な生活が続くでしょう。
ただ、この世の自分が全てだと思いこんでそこに埋没するのと、全てを
分かって没頭するのとでは、見た目が同じでも天地ほどの違いとなります。
悟ればたちまち聖人君子になるというものでもありませんし、生活が一変するというものでもありません。
おんなじように、一庶民の生活が待っているだけです。
でも、それに対する自分の感覚は驚くほど軽やかになっているはずです。
それこそはこの切り絵をそのまま受け入れた瞬間であるわけです。
そしてそれは、爽やかな優しい風となって、その切り絵から漂い出ることでしょう。
(おわり)
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そして、今この姿というのは、そこに切り絵を乗せたものに過ぎないという話をしてきました。
そうなりますと、この世の死というのは、その切り絵が無くなることを意味します。
切り絵が無くなろうと、私たち自身は相変わらず今ここにドーンと在るままです。
それまでと何も変わりません。
長いこと窮屈なところに顔を押し込んでいたのが無くなったわけですから、一気に軽くなって、急に大きくなった
ように感じるかもしれません。
最初のうちこそ、観光パネルに押し当てていた跡が残ってますので、この世の姿形のままでいるかもしれませんが、
跡が消えていくにつれて全体に溶け合っていくことでしょう。
たとえば、自分の腕に何かをギューと押し当ててそれをパッと離すと、その跡が皮膚に残ります。
その部分だけ、まわりの皮膚と違う形になります。
そして時間とともにスーッと跡は消えていき、まわりとの境目もなくなり、元の状態に戻ります。
これと全く同じです。
私たちは共通の決めごととして、パネルに顔を突っ込んでいる状態を、本当の自分ということにしようと、お互いに
了解し合っています。
夢の国に行った時は、着ぐるみのミッキーを見てそれが本物ということにしておいた方が、幸せに楽しめるというもの
です。
もともとはそういう遊び心だったのです。
ただその薬が効きすぎて、着ぐるみの世界にドップリ浸かって苦しんでしまっているのが、今の私たちです。
頭の思考というのは、実は、切り絵と同じ平面上に存在しています。
ここでいう思考とは「自我から発せられる思考」のことですが、細かく書くと分かりにくくなってしまうので、一先ず
ひとくくりに「思考」と書くことにします。
あれこれ思ったり考えたりした途端、私たちは私たち自身(広大なテーブル)から離れて、切り絵の平面へと移動して
しまいます。
次々とスライドしている切り絵の上に乗っかって、意識は慌ただしく過去や未来へとポンポン飛んでいきます。
過去や未来というのは、天地無限に広がる本当の私たち自身ではなく、ただの切り絵に過ぎません。
しかしあたかもそれが、今ここに在る私たち自身と同一のものであるような錯覚に陥ってしまいます。
そうして、悶々と悩んだり心配したりしてしまうわけです。
わずかでも思考した瞬間、私たちは、今ここ(=天地宇宙、私たち自身)から離れてしまいます。
思考が切り絵の次元に存在しているということは、「今ここ」に戻るには思考を手放す必要があるということです。
思考によって今ここに戻ることはできません。
意思や作為が働いているうちは、“今ココっぽい切り絵”に戻ることはできても、下に広がる次元に戻ることはできない
のです。
思考を手放すための方便は、これまでも色々と書いてきました。
・一心不乱にやる
・一所懸命になる
・100%集中する
・リラックスする
・完全に諦める
・ほっとく
・受け入れる
・ハシャぐ
・笑う
・身体を動かす
・感覚に耳を澄ます
・深い呼吸をする
・真善美に触れる
・全てを信じきる
・任せきる…
あらためて見ますと、どれもこれも子どもの頃は当たり前にやっていたことなのに、今ではすっかり疎遠になったもの
ばかりというのが、悲しいかな、ナルホドなという感じです。
さて、ここまで切り絵に喩えて自分の姿を追って来ましたが、それというのは当然、自分以外の人たちにも当てはまる
ことです。
誰もがその本体は私たちと同じ広大無辺のテーブル(大いなる一つ)であり、みんなもまた切り絵のパネルからヒョイ
と顔を出しているということです。
切り絵の向こうには、天地宇宙が広がっています。
それは人間に限らず、動物にせよ草木にせよ、みんなそうであるわけです。
どの切り絵も、みな同じ一つのテーブルの上に置かれたものです。
私たちの目に映る全ては、観光パネルの穴からヒョイと顔を覗かせている天地宇宙そのものであるのです。
まったくもって、山川草木悉有仏性です。
そしてそのテーブルこそは私たち自身でありました。
つまり、天地のあらゆるものは私たち自身でもあるということです。
仏性というのは、まさしく私たち自身のことなのです。
それにしても、なぜ私たちはわざわざそんなややこしいことをやっているのでしょうか。
その理由というのは、前回の冒頭にも書いた通りです。
それは、まさに笑点の演芸そのものであるわけです。
舞台の上で、様々な切り絵をササーッと切り取る。
出来たものを見て、オーッとドヨめくこともあれば、ゲラゲラと笑いが起こることもあります。
あるいは、なかなか上手くいかずにウーンと苦労している姿を、固唾を飲んで見守る。
これもまた一興ということです。
んなアホな!?
命ってそんな軽いもんちゃうやろ?
もっとスゴいことするためのもんちゃうの??
そう思われる方もいるかもしれません。
別にそれが「軽いもん」とは思いませんが、でもそういうことです。
もちろん、命というものは途轍もなく尊いものです。
それは疑いようのない事実です。
ただ、その事実をそのまま全て切り絵に乗せてしまうからシンドくなってしまうのです。
命というものと今回の切り絵というものを完全に同一視してしまうと、今回の切り絵をとにかく凄いものにしないと
見合わない、命に申し訳ないという思いが芽生えてしまいます。
そしてそれが満たされないことの不足感や劣等感、挫折感というものが自分を卑下する原因となってしまいます。
自分はまだ足りていない、ダメな部分がある…
そうして、そのままの自分を無条件にオールOKで受け入れることに抵抗を覚えてしまうのです。
しかし、命とは永遠に変わることなく今ここに在るものです。
切り絵がどうなろうと、何も変わらず静かに広がったままでいます。
その全てを切り絵に乗せてしまうというのは、それこそ無茶な話です。
それはそれ、これはこれなのです。
見合っていないとか、申し訳ないと思うこと自体が、現実無視の一人相撲なわけです。
現実というのは、大きな大きな自分が、この切り絵をフンワリと優しく包んでいます。
この切り絵が凄いか凄くないかなど、本当にどうでもいいことなのです。
そして、凄いとか平凡とかいう判断こそは、まさしく人間の考えが生み出すものに過ぎません。
どれほど目立とうが、どれほど地味だろうが、所詮は同じ切り絵なのです。
もしも誰か他の人物の切り絵を見て、凄いとか羨ましいとか感じたとしても、そう思っているのは今この切り絵に
乗っかっている自分なのです。
思考は常に切り絵の次元にあります。
切り絵が、他の切り絵に成りたいと思っても、そんなのはハナから無理な話であるわけです。
その大奥に鎮座している広大無辺な自分は、そんなことはつゆも思っていません。
何故なら、あっちの方でその切り絵を覗いているのも自分だからです。
もちろん、夢や憧れはとても大事なものです。
よし自分も頑張ろう!というのは大切なことです。
しかし「それに比べて今の自分は…」と比較が入ってしまうとおかしなことになってしまいます。
あらゆる雑音には脇目も触れずに一所懸命やるというのは、本当に素晴らしいことです。
そこには理屈も定義付けも必要ありません。
ただ、やる。
一心不乱にやる。
第一、「壮大なことを成すために一所懸命やるのだ」なんておかしな話でしょう。
脇目を触れまくりです。
でも固定観念とはそういうものです。
無意識下であっても何かしらの思いや考えが残っていると「今ここ」に完全な集中はできません。
「一所」に懸命にはなれないということです。
あれこれ考えて出来上がった理想像に押し潰されて落ち込むというのは、とても悲しい状態です。
そんなものは「今ここ」とは関係のない、空想の世界、ファンタジーの世界なのです。
切り絵と同じ平面上の、思考の産物に過ぎません。
そんな幻想に振り回される暇があったら、とにかく今の目の前のことを淡々とやるだけです。
どうしても空想の産物に囚われてしまう時は、壮大なことにせよ、素晴らしい自分にせよ、それとて遊びの延長に
過ぎないと考えてみるのもいいかと思います。
凄いことを成すのも、あるいは凄い自分というのも結局はみんな切り絵なんだよ、と。
思考をもって思考を制す、です。
分かっていても手放せないなら、上書きをして、見た目を軽くしてしまう。
そうすれば、何のためらいもなく自然にポイと捨てられるでしょつ。
それに、切り絵に過ぎないという遊び心があってこそ初めて、壮大なことが成せるとも言えます。
「凄いことをするのは実に重々しいことなのだ」という思い込みは、その実現を遠ざけることにしかなりません。
切り絵に、重いも軽いもありません。
そこには等しく、楽しさがあるだけです。
力みを抜くといっても、適当にやっていいとか、怠けていいということではありません。
ナチュラルに楽しければ、真面目もエエ加減も関係ないということです。
本当に楽しんでいる姿が、もし誰かの目にはエエ加減なように映ったとしても、そんなものは気にする方が無駄という
ものです。
その誰かの目というのは、結局は切り絵に乗っかってる視点でしかないからです。
また、白い紙をチョキチョキと切っているのは、私たち自身です。
だから、時間も空間も自分が創造しているという話にもなってきます。
どのように切るかは自分次第ですから、この世というのは本来は自由自在です。
ただそこには、今回はこのアトラクションで行こうと、自ら決めて来ている部分もあります。
また、我欲のまさった紙切りは、エッジの尖った雑な切り抜きにしかなりません。
若い頃はイケイケでガツガツした切り口となりますが、歳を追うごとに我欲は薄まり円やかな切り口となります。
我欲が薄まるにつれて力が抜けて、天地の呼吸、天地のリズムに乗った切り方になっていきます。
それは、「こうしたい」「こうありたい」という主張のない透明なものとなります。
ですから、理屈としては全取っ替えも可能ですが、自ずと範囲が決まってくるということです。
ただ、かなりの範囲まではカッティングが出来るのもまた真実です。
それだけの自由を与えられているのに、自分で勝手な制約を決めつけてしまうのはもったい無い話であるわけです。
いずれにせよ、切り絵の形を好きだ嫌いだと考えているうちは、自分の中心は切り絵の世界へ囚われてしまっている
ことになります。
紙の切り方やテクニックを鍛えるよりも、まずはそこから一歩下がってフッと一息つく。
そこでこの全景を見てしまったら、ブハハと笑って、ハサミをガチガチに握っていた力みも抜けることでしょう。
そうして今一度、軽く持ってその穴から覗いて見るということです。
ただ決して忘れてならないのは、そこから顔を覗かせているのは間違いなく私たちであることです。
ですから、所詮は切り絵だといって、この現実世界や自分というものを軽んじることは絶対にあってはなりません。
それは結局は、本当の自分を軽視していることになってしまいます。
私たちがわざわざ全てを忘れて来ているのは、この壮大なテーマパークを芯から楽しむためでもあり、また“初めての
おつかい”を再現するためでもあります。
おっかなビックリもまた喜びの裏返しなのです。
この世を軽んじて、下敷きの世界にばかり心を向けているのでは、乳離れできない現実逃避のお子様でしかありません。
すべてを分かった上で、あらためて楽しみきる。
この世に100パーセント心を向けることが、私たちが今なすべきこと
です。
全景が見えたあとも、現実のパネルは何も変わらないかもしれません。
これまでと同じように、雑多な仕事暮らしや平凡な生活が続くでしょう。
ただ、この世の自分が全てだと思いこんでそこに埋没するのと、全てを
分かって没頭するのとでは、見た目が同じでも天地ほどの違いとなります。
悟ればたちまち聖人君子になるというものでもありませんし、生活が一変するというものでもありません。
おんなじように、一庶民の生活が待っているだけです。
でも、それに対する自分の感覚は驚くほど軽やかになっているはずです。
それこそはこの切り絵をそのまま受け入れた瞬間であるわけです。
そしてそれは、爽やかな優しい風となって、その切り絵から漂い出ることでしょう。
(おわり)
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