なんの不安もなく平和に暮らしていても、何かの拍子にふと過去のツラい記憶が蘇ることがあります。
すると思わずギクッとなって、条件反射的にワーッと心の奥へと押し込めてしまいます。
まさに「出てくるなー!」と押入れに戻すような感じです。
これは、あんなトンデモないこと一生忘れられるはずがないと諦めてしまっているのも原因の一つになっています。
シンドくなるのは仕方ないと決めつけてしまうと、結局、抱え込むことを選択したことになってしまいます。
受け入れることとは似て非なるものとなってしまうわけです。
何かを抱え込むというのは、その何かに囚われている状態で、
何かを受け入れるというのは、その何かに囚われていない状態です。
かたや、その何かの上に自分が乗っかってしまっている状態、かたや、乗っからずに客観的に見ている状態ということ
になります。
ワーッと慌ててフタをしようとするのは、自我が傷つくまいとして起こす防衛本能です。
前回までの喩えを借りれば、それは切り絵の世界の自動モードと言えます。
つまり一連の流れは、自分が切り絵の上に乗った状態の時にだけ発動するものであるわけです。
ウゲッとなったとしても、次の瞬間にスッと切り絵の平面から降りて見れば、サーッと流れていきます。
ウゲッとなったキッカケがそのまま行くに任せる。
それが、受け入れるということです。
表現を変えれば、相手をどかそうとするのではなく「自分がどく」と言ってもいいかもしれません。
とはいえ、一刻も早くラクになりたい時にはそんな悠長なことなど言ってられません。
ましてや半分パニック状態になっていれば尚更です。
とにかく目の前のものを見えなくすることで精一杯。
考えるより先に手が出てしまいます。
でも実は、切り絵の平面から降りるというのは、手間も時間もかからないことです。
一瞬でラクになって、しかもあとにモヤモヤも残りません。
それを一つ一つヒモ解いていきたいと思います。
まずは過去というものについてです。
ある瞬間に切り抜いた紙は、次の瞬間には目の前から無くなっています。
それを過去という形で私たちは設定しています。
そして一番切り抜いた紙というのは二度とハサミを入れることは出来ません。
もちろん、無かったことにすることも出来ませんし、他の切り絵に作り直すことも出来ません。
そんなのは当たり前だと分かっていても、つい「そうだったら良かったのに」と思ってしまうことがあります。
そうした些細な未練ですらも、過去というものを最後の最後で受け入れきれない要因となってしまいます。
そしてそんな未練が湧くのは、実は、心の底から当たり前だと思いきれていないことに原因があります。
当たり前ダという即断が、それ以上の深い理解を妨げてしまっているのです。
それは頭の暴走のタネを新たに作らないためにはプラスとなりますが、中途半端にタネが出来てしまった時にはマイナス
に働いてしまいます。
地道なことではありますが、なぜ当たり前なのか?とその先まで深掘りすることが、真の意味での諦め、つまり達観と
なり、受け入れることへと繋がっていくことになります。
思考こそが囚われの元凶だとするならば、あれこれ理屈を追うのは逆アクションのように感じてしまうかもしれませんが、
中途半端な不完全燃焼のまま思考停止をすると、根っこの部分で手放せてない状態が続いてしまいます。
頑固な囚われを手放すためには、とことん思考を続けて、納得することが必要となるわけです。
前置きが長くなってしまいましたが、切り絵の話に戻りたいと思います。
天地宇宙に不完全な仕組みは一つもありません。
今とは違う仕組みの方が良かったならば、必ず、そのように成っていたはずです。
その上で、あらためて何故、一度切り終わった紙には二度とハサミを入れることができないか?ということです。
それはこの世というのが、一瞬ごとに切り絵が差し替わっているからです。
つまり、過去の切り絵を修正する必要性がないということです。
解決済みの案件なのです。
「こう修正したい」と望むなら、その直後にすぐにそれを反映させることができるのですから、わざわざ過去を修正する
必要がないわけです。
これは天地の視点で書いていますので、囚われの無いことが前提となります。
天地宇宙には「今」しかありませんので、「過去」の産物というのはただの記録、つまり存在でしかありません。
アレコレと論評するものでない、というのが天地一般の認識であるわけです。
もし過去の産物が気に入らなければ、「今」、違うものをカッティングすればいいだけ。
切り絵の平面から降りれば、それが当たり前の感覚ということです。
その時その時の切り絵というものは、空間と同じ一枚絵として焼きついています。
そこだけ切り分けることができるものではなく、天地宇宙が一枚の広大な
パネルとして存在しているということです。
過去の一場面を修正するには、その時の平面すべてを作り直す必要があるわけです。
理屈としても、それそのものを修正することは無理なのです。
天地の視点に立ってみれば、過去にカッティングした切り絵を、何度も見直して頭を抱えることは意味のないことです。
振り返りというのは、今後のカッティングの参考とするために行なうものです。
前者は後悔と言われ、後者は反省と言われるものです。
トンデモナイことをしてしまった(された)と思うのならば、今後は同じカットを作るまいと決めるだけのことです。
過去に戻ってウーッと苦しむにしても、それが今に反映させるためのエネルギー充電ならば意味がありますが、苦しむ
ためだけの苦しみでは、自分をムチ打つ行為にしかなりません。
また、過去の切り絵を、誰かに見られないように隠してもそれ自体が無くなるわけではありません。
自分で忘れてしまうおうとしても、絶対に無くなりません。
在るのですから、無くならない。
ですから、無いものにしたいという無意識の願望は苦しみを生むだけでしかありません。
目の前に突如トラウマのキッカケが現れた時に、何とか無視しようとしても、それは逆効果にしかならないのです。
ただし、忘れることはできます。
それは押入れに押し込んで記憶を薄めるというものではなく、本当の意味での「忘れる」です。
たとえば、いつも偏頭痛に悩まされる人が、我も忘れるほどハシャいでいる時にその痛みを忘れてしまうことが
あります。
その時というのは、頭痛の素は存在しているのですが、自分が自我から降りたことでスルー状態になっているわけです。
つまりこの場合、忘れたことによって頭痛というものが存在しないのと同じ状態になったと言えます。
そして肝心なのは、それが、忘れようとして忘れたものではないというところです。
過去のツラい記憶にしても同じです。
フタをして隠すのは忘れることにはなりません。
むしろ後生大事に金庫に閉まうことになってしまいます。
それが大したものでないと思えたり、心の底からシャーないと思えたり、「今」に100%集中できた時に、私たちは
自然と忘れてしまいます。
囚われてないからサーっと川に流れるごとく、無くなってしまうわけです。
過去のどんな切り絵であっても、それはもうどうにも変えようのないものです。
囚われるものではありませんし、蒸し返して自らを貶めるものでもありません。
過去にどんな意味があるかというと、ぶっちゃけ何の意味もありません。
それは意味というよりも、状態と言った方がいいかもしれません。
常に、今この時だけが唯一無二であって、過去にしてもその瞬間に唯一無二だったというだけです。
ただの、状態です。
ですから、やたらと重くとらえる必要は無いのです。
常に「今」という視点に立てば、あらゆるものが今ここに集約されていきます。
つまり、過去というものにしても、私たちが今ここに中心を置いてこそ活きるものになります。
それを反省と言ってしまうとネガティヴイメージがついてしまいますので、錬磨と言った方がいいかもしれません。
今この時において、いかに囚われずに自然なカッティングに近づけるか。
そのために過去が活かされるということです。
たとえば何かの作品を作るときも、失敗や下手を重ねることで、少しずつ角の取れたものが出来てきます。
いきなり洗練されたものなど出来るはずがありません。
過去に失敗や下手クソを重ねてこそ、素晴らしい作風というものが練られていきます。
言い方を変えれば、失敗や下手クソというのは、お陰様そのものということになるのです。
過去のミスを忌み嫌っているかぎり、それを受け入れることはとても難しくなります。
「嫌いだけど受け入れる」というのでは芯から受け入れたことにはなりません。
ミスというもので自らが傷ついてしまうことが、ミスを敵対視してしまう理由の一つとなります。
それは私たちを傷つけるものではなく、私たちを助けるものでもあるのです。
粘土細工にしてもゲームにしても、ミスしたからといって、泣いたりイジケたり、逆ギレして怒ったり、あるいは
自分は知らないと言い張る姿というのはどうでしょうか。
現実逃避や現実否定してもまた同じ失敗を繰り返すだけだろうと思うはずです。
このことは自分がミスした場合だけでなく、他の誰かが加害者だった場合でも同じです。
認めにくいことかもしれませんが、切り絵の世界から降りてみれば、トラウマというのもお陰さまの仮の姿と言うこと
ができます。
誰かに切り絵をズタズタにされて悲しい思いをしたとしても「嗚呼、可哀想な自分」という結論で終わらせてしまったら、
厳しい言い方ですが、結果だけ見れば先ほどのケースと何も変わらなくなってしまいます。
この世というのは起こった現象そのものには意味はなく、そのあとの進め方に意味が生じます。
思考停止の塩漬けにしてしまってはいけないのです。
ただ、加害者が自分であるのと他者であるのとでは、その背景もその過程も天地ほど違うものです。
明らかな不可抗力ですし、か弱い立場では虐待そのものです。
だからこそ、「受け入れる」ことが必要となるわけです。
思考ストップはいけないと言っても、物事には順序があります。
傷ついた自分をそのままに放っといてゴリゴリと先に進めるということではありません。
その先へ進むためには、その前にまず傷ついた自分を受け入れること、癒してあげることが先になります。
それさえすれば、そのあとは思考停止うんぬんなど考えるまでもなく、自然と流れていくようになります。
傷ついた自分が居るのでしたら、切り絵の平面から一旦降りて、天地そのものの大きな自分に戻ってから、ソッと優しく
抱き締めてあげます。
ズタズタになった傷の深さというのは、自分が一番良く知っています。
そうであればこそ、大いなる母となって優しく包み込んであげられるのは、他の誰でもない、この私しか居ません。
それをせずして、押入れの奥に押し込めて思考停止してしまうというのは、自分で自分を見捨てることになってしまいます。
結果として、自分で折檻しているにも等しいのです。
たとえ今の自分が立ち直ったつもりでいても、何かのキッカケで傷つけられた自分が蘇ってくるというのは、その、
いたいけな自分がいまだに助けを求め続けているということです。
自分だからいいや、という問題ではありません。
これまで見て見ぬふりをしてきただけでなく、これからも見て見ぬふりをするというのは、あまりに酷です。
誰かに見捨てられたというのなら、最後の砦である私たち自身が優しく受け入れてあげなければ、幼き私たちの心は
誰が救えるというのでしょうか。
その傷だらけの小さき私たちというのは、他の誰かに助けを求めているのではありません。
今この私たちに助けを求めているのです。
加害者に非を認めさせたいとか、加害者に救いを求めたいという気持ちは、表向きの感情でしかありません。
本当の叫びは、その奥にあります。
そこを勘違いしてしまうと、繰り返し何度でも、ウワーッと押入れに押し込めることになってしまいます。
小さな私たちが助けを求める「今この私たち」というのは、切り絵の下に広がる本当の私たち、大きな大きな私たちの
ことです。
天地宇宙に広がる私たちとは、過去の切り絵の下にも広がっています。
そこには時間も空間も存在しません。
だからこそ、傷ついた小さき私たちは、その私たちにSOSを送っているわけです。
今この切り絵に乗ったままの私たちが、抱きしめよう、包みこもうとしても何の解決にもなりません。
大人になった自分だったらあの頃の自分も受け入れられる、受け入れられなければいけない、と思うのは気負いすぎです。
同じ平面にいるかぎり、瞬時に当時の自分にシンクロしてしまい、その傷をそのままに受けてしまいます。
吹きすさぶ嵐に立ち向かって、これを流せるようにしなくては救われないと気張っても、余計に苦しくなるだけです。
そういう無理なゴリ押しの話ではありません。
いたいけな自分に心を重ねるというのは、あくまで今の自分が大きな天地宇宙となっての話です。
天地宇宙に溶け合っていれば、その内にある小さな囲みの傷も、我がこととして感じ取ることができます。
自分の中心を相手の中へ移すのではなく、自分が大きく広がり相手を包み込むことで、芯から優しく受け入れることが
できるのです。
ヒドい目に遭ったのは事実です。
それを無理やり肯定したり、プラスに思い込もうということではありません。
ヒドいのはヒドいけど、思考停止もしない。
いま大事なのは「それはそれ、コレはコレ」という理解です。
理屈で分かっていても、どうしようもないことはあります。
ただ、そこで今一歩踏み込むならば、実際どの程度の理解で「どうしようもない」という結論に達したのかという
ことになってきます。
ツラすぎるあまり道半ばで決めつけてしまっていないか、思考放棄していないかということです。
「ツラいけど直視しないといけない」
「過去に囚われてはいけない」
「過去は未来への糧にしなくてはいけない」
そうした結論自体、中途半端なものでしかありません。
分かったつもりというのが一番危険です。
そこから先の、何故そうなのか?という部分が腑に落ちないままやっていると、悲しみをさらに心の奥底に追いやること
になりかねません。
感情もまた切り絵と同じ平面上に存在します。
ですから、切り絵から降りて見れば、平面全体を俯瞰することになります。
落ち着いて景色を見るというのは、それを自然に受け入れるのと同じことになります。
つまりそれは、そこに在る感情も突き放すことなく受け入れている状態であるわけです。
頑張って受け入れるのではなく、状態としてそうなっているということです。
過去の自分を非難することもありませんし、過去の誰かを非難することもありません。
もしも自分の過去の切り絵を未だにアレコレと言ってくる人が居たとしても、それはその人が切り絵の平面上に乗った
状態で自分を見ているということでしかありません。
しかしクドクド言われた時に自分まで同じ平面上に乗ってしまうと、シュンとなったり、ムカっとなってしまいます。
切り絵から離れて眺めてみれば、その人がそういうのももっともだよなぁ、と感じられることもあります。
それは相手の言い分が正しいという場合もありますが、相手がこうした価値観に立って見たのならばそのように映る
のが自然だという納得感、理解の方が大きいでしょう。
すると、言い訳したり、言い争いをして自分を守ろうとする気持ちは無くなります。
それらは自我が発するものですから、切り絵から離れればウソのように消えてしまうのです。
また他の誰でもない、この自分が過去の自分をアレコレと言ってしまうのなら、それは取りも直さず、今この私が
切り絵と同じ平面上に居るというだけのことです。
その平面上に居るというのは、自我の運転する車に乗っている状態ということになります。
自我というものは「こうあるべきだ」「こうではいけない」などと、終わることのない無限ループを繰り返すものです。
そこには論理などありません。
切り絵を守ることが全て。
目先のことを本能的にジャッジするだけです。
あの時はあの時。
あれでいいのダ。
それは決して肯定という意味ではありません。
肯定も否定もなく、ただ受け入れることで今この瞬間カッティングへのこだわり(囚われ)が薄まるということです。
あの時の自分も、今この自分も、切り絵の奥に鎮座する自分は全く同じものです。
囚われが薄まることで、切り抜きがクリアになって下のテーブルが綺麗に見えてくるというだけです。
この目の前の「今」を受け入れることが、あの時の「今」を受け入れることに繋がっていくのです。
(つづく)
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すると思わずギクッとなって、条件反射的にワーッと心の奥へと押し込めてしまいます。
まさに「出てくるなー!」と押入れに戻すような感じです。
これは、あんなトンデモないこと一生忘れられるはずがないと諦めてしまっているのも原因の一つになっています。
シンドくなるのは仕方ないと決めつけてしまうと、結局、抱え込むことを選択したことになってしまいます。
受け入れることとは似て非なるものとなってしまうわけです。
何かを抱え込むというのは、その何かに囚われている状態で、
何かを受け入れるというのは、その何かに囚われていない状態です。
かたや、その何かの上に自分が乗っかってしまっている状態、かたや、乗っからずに客観的に見ている状態ということ
になります。
ワーッと慌ててフタをしようとするのは、自我が傷つくまいとして起こす防衛本能です。
前回までの喩えを借りれば、それは切り絵の世界の自動モードと言えます。
つまり一連の流れは、自分が切り絵の上に乗った状態の時にだけ発動するものであるわけです。
ウゲッとなったとしても、次の瞬間にスッと切り絵の平面から降りて見れば、サーッと流れていきます。
ウゲッとなったキッカケがそのまま行くに任せる。
それが、受け入れるということです。
表現を変えれば、相手をどかそうとするのではなく「自分がどく」と言ってもいいかもしれません。
とはいえ、一刻も早くラクになりたい時にはそんな悠長なことなど言ってられません。
ましてや半分パニック状態になっていれば尚更です。
とにかく目の前のものを見えなくすることで精一杯。
考えるより先に手が出てしまいます。
でも実は、切り絵の平面から降りるというのは、手間も時間もかからないことです。
一瞬でラクになって、しかもあとにモヤモヤも残りません。
それを一つ一つヒモ解いていきたいと思います。
まずは過去というものについてです。
ある瞬間に切り抜いた紙は、次の瞬間には目の前から無くなっています。
それを過去という形で私たちは設定しています。
そして一番切り抜いた紙というのは二度とハサミを入れることは出来ません。
もちろん、無かったことにすることも出来ませんし、他の切り絵に作り直すことも出来ません。
そんなのは当たり前だと分かっていても、つい「そうだったら良かったのに」と思ってしまうことがあります。
そうした些細な未練ですらも、過去というものを最後の最後で受け入れきれない要因となってしまいます。
そしてそんな未練が湧くのは、実は、心の底から当たり前だと思いきれていないことに原因があります。
当たり前ダという即断が、それ以上の深い理解を妨げてしまっているのです。
それは頭の暴走のタネを新たに作らないためにはプラスとなりますが、中途半端にタネが出来てしまった時にはマイナス
に働いてしまいます。
地道なことではありますが、なぜ当たり前なのか?とその先まで深掘りすることが、真の意味での諦め、つまり達観と
なり、受け入れることへと繋がっていくことになります。
思考こそが囚われの元凶だとするならば、あれこれ理屈を追うのは逆アクションのように感じてしまうかもしれませんが、
中途半端な不完全燃焼のまま思考停止をすると、根っこの部分で手放せてない状態が続いてしまいます。
頑固な囚われを手放すためには、とことん思考を続けて、納得することが必要となるわけです。
前置きが長くなってしまいましたが、切り絵の話に戻りたいと思います。
天地宇宙に不完全な仕組みは一つもありません。
今とは違う仕組みの方が良かったならば、必ず、そのように成っていたはずです。
その上で、あらためて何故、一度切り終わった紙には二度とハサミを入れることができないか?ということです。
それはこの世というのが、一瞬ごとに切り絵が差し替わっているからです。
つまり、過去の切り絵を修正する必要性がないということです。
解決済みの案件なのです。
「こう修正したい」と望むなら、その直後にすぐにそれを反映させることができるのですから、わざわざ過去を修正する
必要がないわけです。
これは天地の視点で書いていますので、囚われの無いことが前提となります。
天地宇宙には「今」しかありませんので、「過去」の産物というのはただの記録、つまり存在でしかありません。
アレコレと論評するものでない、というのが天地一般の認識であるわけです。
もし過去の産物が気に入らなければ、「今」、違うものをカッティングすればいいだけ。
切り絵の平面から降りれば、それが当たり前の感覚ということです。
その時その時の切り絵というものは、空間と同じ一枚絵として焼きついています。
そこだけ切り分けることができるものではなく、天地宇宙が一枚の広大な
パネルとして存在しているということです。
過去の一場面を修正するには、その時の平面すべてを作り直す必要があるわけです。
理屈としても、それそのものを修正することは無理なのです。
天地の視点に立ってみれば、過去にカッティングした切り絵を、何度も見直して頭を抱えることは意味のないことです。
振り返りというのは、今後のカッティングの参考とするために行なうものです。
前者は後悔と言われ、後者は反省と言われるものです。
トンデモナイことをしてしまった(された)と思うのならば、今後は同じカットを作るまいと決めるだけのことです。
過去に戻ってウーッと苦しむにしても、それが今に反映させるためのエネルギー充電ならば意味がありますが、苦しむ
ためだけの苦しみでは、自分をムチ打つ行為にしかなりません。
また、過去の切り絵を、誰かに見られないように隠してもそれ自体が無くなるわけではありません。
自分で忘れてしまうおうとしても、絶対に無くなりません。
在るのですから、無くならない。
ですから、無いものにしたいという無意識の願望は苦しみを生むだけでしかありません。
目の前に突如トラウマのキッカケが現れた時に、何とか無視しようとしても、それは逆効果にしかならないのです。
ただし、忘れることはできます。
それは押入れに押し込んで記憶を薄めるというものではなく、本当の意味での「忘れる」です。
たとえば、いつも偏頭痛に悩まされる人が、我も忘れるほどハシャいでいる時にその痛みを忘れてしまうことが
あります。
その時というのは、頭痛の素は存在しているのですが、自分が自我から降りたことでスルー状態になっているわけです。
つまりこの場合、忘れたことによって頭痛というものが存在しないのと同じ状態になったと言えます。
そして肝心なのは、それが、忘れようとして忘れたものではないというところです。
過去のツラい記憶にしても同じです。
フタをして隠すのは忘れることにはなりません。
むしろ後生大事に金庫に閉まうことになってしまいます。
それが大したものでないと思えたり、心の底からシャーないと思えたり、「今」に100%集中できた時に、私たちは
自然と忘れてしまいます。
囚われてないからサーっと川に流れるごとく、無くなってしまうわけです。
過去のどんな切り絵であっても、それはもうどうにも変えようのないものです。
囚われるものではありませんし、蒸し返して自らを貶めるものでもありません。
過去にどんな意味があるかというと、ぶっちゃけ何の意味もありません。
それは意味というよりも、状態と言った方がいいかもしれません。
常に、今この時だけが唯一無二であって、過去にしてもその瞬間に唯一無二だったというだけです。
ただの、状態です。
ですから、やたらと重くとらえる必要は無いのです。
常に「今」という視点に立てば、あらゆるものが今ここに集約されていきます。
つまり、過去というものにしても、私たちが今ここに中心を置いてこそ活きるものになります。
それを反省と言ってしまうとネガティヴイメージがついてしまいますので、錬磨と言った方がいいかもしれません。
今この時において、いかに囚われずに自然なカッティングに近づけるか。
そのために過去が活かされるということです。
たとえば何かの作品を作るときも、失敗や下手を重ねることで、少しずつ角の取れたものが出来てきます。
いきなり洗練されたものなど出来るはずがありません。
過去に失敗や下手クソを重ねてこそ、素晴らしい作風というものが練られていきます。
言い方を変えれば、失敗や下手クソというのは、お陰様そのものということになるのです。
過去のミスを忌み嫌っているかぎり、それを受け入れることはとても難しくなります。
「嫌いだけど受け入れる」というのでは芯から受け入れたことにはなりません。
ミスというもので自らが傷ついてしまうことが、ミスを敵対視してしまう理由の一つとなります。
それは私たちを傷つけるものではなく、私たちを助けるものでもあるのです。
粘土細工にしてもゲームにしても、ミスしたからといって、泣いたりイジケたり、逆ギレして怒ったり、あるいは
自分は知らないと言い張る姿というのはどうでしょうか。
現実逃避や現実否定してもまた同じ失敗を繰り返すだけだろうと思うはずです。
このことは自分がミスした場合だけでなく、他の誰かが加害者だった場合でも同じです。
認めにくいことかもしれませんが、切り絵の世界から降りてみれば、トラウマというのもお陰さまの仮の姿と言うこと
ができます。
誰かに切り絵をズタズタにされて悲しい思いをしたとしても「嗚呼、可哀想な自分」という結論で終わらせてしまったら、
厳しい言い方ですが、結果だけ見れば先ほどのケースと何も変わらなくなってしまいます。
この世というのは起こった現象そのものには意味はなく、そのあとの進め方に意味が生じます。
思考停止の塩漬けにしてしまってはいけないのです。
ただ、加害者が自分であるのと他者であるのとでは、その背景もその過程も天地ほど違うものです。
明らかな不可抗力ですし、か弱い立場では虐待そのものです。
だからこそ、「受け入れる」ことが必要となるわけです。
思考ストップはいけないと言っても、物事には順序があります。
傷ついた自分をそのままに放っといてゴリゴリと先に進めるということではありません。
その先へ進むためには、その前にまず傷ついた自分を受け入れること、癒してあげることが先になります。
それさえすれば、そのあとは思考停止うんぬんなど考えるまでもなく、自然と流れていくようになります。
傷ついた自分が居るのでしたら、切り絵の平面から一旦降りて、天地そのものの大きな自分に戻ってから、ソッと優しく
抱き締めてあげます。
ズタズタになった傷の深さというのは、自分が一番良く知っています。
そうであればこそ、大いなる母となって優しく包み込んであげられるのは、他の誰でもない、この私しか居ません。
それをせずして、押入れの奥に押し込めて思考停止してしまうというのは、自分で自分を見捨てることになってしまいます。
結果として、自分で折檻しているにも等しいのです。
たとえ今の自分が立ち直ったつもりでいても、何かのキッカケで傷つけられた自分が蘇ってくるというのは、その、
いたいけな自分がいまだに助けを求め続けているということです。
自分だからいいや、という問題ではありません。
これまで見て見ぬふりをしてきただけでなく、これからも見て見ぬふりをするというのは、あまりに酷です。
誰かに見捨てられたというのなら、最後の砦である私たち自身が優しく受け入れてあげなければ、幼き私たちの心は
誰が救えるというのでしょうか。
その傷だらけの小さき私たちというのは、他の誰かに助けを求めているのではありません。
今この私たちに助けを求めているのです。
加害者に非を認めさせたいとか、加害者に救いを求めたいという気持ちは、表向きの感情でしかありません。
本当の叫びは、その奥にあります。
そこを勘違いしてしまうと、繰り返し何度でも、ウワーッと押入れに押し込めることになってしまいます。
小さな私たちが助けを求める「今この私たち」というのは、切り絵の下に広がる本当の私たち、大きな大きな私たちの
ことです。
天地宇宙に広がる私たちとは、過去の切り絵の下にも広がっています。
そこには時間も空間も存在しません。
だからこそ、傷ついた小さき私たちは、その私たちにSOSを送っているわけです。
今この切り絵に乗ったままの私たちが、抱きしめよう、包みこもうとしても何の解決にもなりません。
大人になった自分だったらあの頃の自分も受け入れられる、受け入れられなければいけない、と思うのは気負いすぎです。
同じ平面にいるかぎり、瞬時に当時の自分にシンクロしてしまい、その傷をそのままに受けてしまいます。
吹きすさぶ嵐に立ち向かって、これを流せるようにしなくては救われないと気張っても、余計に苦しくなるだけです。
そういう無理なゴリ押しの話ではありません。
いたいけな自分に心を重ねるというのは、あくまで今の自分が大きな天地宇宙となっての話です。
天地宇宙に溶け合っていれば、その内にある小さな囲みの傷も、我がこととして感じ取ることができます。
自分の中心を相手の中へ移すのではなく、自分が大きく広がり相手を包み込むことで、芯から優しく受け入れることが
できるのです。
ヒドい目に遭ったのは事実です。
それを無理やり肯定したり、プラスに思い込もうということではありません。
ヒドいのはヒドいけど、思考停止もしない。
いま大事なのは「それはそれ、コレはコレ」という理解です。
理屈で分かっていても、どうしようもないことはあります。
ただ、そこで今一歩踏み込むならば、実際どの程度の理解で「どうしようもない」という結論に達したのかという
ことになってきます。
ツラすぎるあまり道半ばで決めつけてしまっていないか、思考放棄していないかということです。
「ツラいけど直視しないといけない」
「過去に囚われてはいけない」
「過去は未来への糧にしなくてはいけない」
そうした結論自体、中途半端なものでしかありません。
分かったつもりというのが一番危険です。
そこから先の、何故そうなのか?という部分が腑に落ちないままやっていると、悲しみをさらに心の奥底に追いやること
になりかねません。
感情もまた切り絵と同じ平面上に存在します。
ですから、切り絵から降りて見れば、平面全体を俯瞰することになります。
落ち着いて景色を見るというのは、それを自然に受け入れるのと同じことになります。
つまりそれは、そこに在る感情も突き放すことなく受け入れている状態であるわけです。
頑張って受け入れるのではなく、状態としてそうなっているということです。
過去の自分を非難することもありませんし、過去の誰かを非難することもありません。
もしも自分の過去の切り絵を未だにアレコレと言ってくる人が居たとしても、それはその人が切り絵の平面上に乗った
状態で自分を見ているということでしかありません。
しかしクドクド言われた時に自分まで同じ平面上に乗ってしまうと、シュンとなったり、ムカっとなってしまいます。
切り絵から離れて眺めてみれば、その人がそういうのももっともだよなぁ、と感じられることもあります。
それは相手の言い分が正しいという場合もありますが、相手がこうした価値観に立って見たのならばそのように映る
のが自然だという納得感、理解の方が大きいでしょう。
すると、言い訳したり、言い争いをして自分を守ろうとする気持ちは無くなります。
それらは自我が発するものですから、切り絵から離れればウソのように消えてしまうのです。
また他の誰でもない、この自分が過去の自分をアレコレと言ってしまうのなら、それは取りも直さず、今この私が
切り絵と同じ平面上に居るというだけのことです。
その平面上に居るというのは、自我の運転する車に乗っている状態ということになります。
自我というものは「こうあるべきだ」「こうではいけない」などと、終わることのない無限ループを繰り返すものです。
そこには論理などありません。
切り絵を守ることが全て。
目先のことを本能的にジャッジするだけです。
あの時はあの時。
あれでいいのダ。
それは決して肯定という意味ではありません。
肯定も否定もなく、ただ受け入れることで今この瞬間カッティングへのこだわり(囚われ)が薄まるということです。
あの時の自分も、今この自分も、切り絵の奥に鎮座する自分は全く同じものです。
囚われが薄まることで、切り抜きがクリアになって下のテーブルが綺麗に見えてくるというだけです。
この目の前の「今」を受け入れることが、あの時の「今」を受け入れることに繋がっていくのです。
(つづく)
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