寄席などで見られる演芸の一つに、紙切り(切り絵)というものがあります。
ハサミで白い紙をスーッと一筆書きに切っていくと、そこにシルエットの人物が浮かび上がるというものです。
紙切りには、切り取った紙が作品となるパターンと、切り落とした空間が作品となるパターンがあります。
特に後者は、紙ではなく空間の方が主役になるというのがとても振るってて、黒い板の上に切り絵を乗せた瞬間、何も無い
部分にパッと命が宿るのはちょっとした感動すらあります。
そしてこれというのは、まさにこの世の実相を現したものでもあります。
私たちの現実世界が白い紙だとすると、本当の私たちというのは下敷きとなった黒い板ということです。
私たちの実体とは天地宇宙そのものです。
それは、どこまでも行っても終わることのない、広大無辺のものです。
無限でありながら、見た目には何もない状態。
それはまさに宇宙に遍満する、実体のないダークエネルギーです。
下敷きとなっている黒い板とは、この無限に広がる天地宇宙であるわけです。
そこにハサミで切り抜かれた紙をスッと重ねると、たちまち私たちが浮かび上がってきます。
そしてその切り絵が次々とチェンジしていってコマ送りになっているのが、この世の現実ということです。
以前に「私たちは映画のコマ送りの中に自身を投影させて疑似体験している」と書きましたが、それは決して私たちが
コマの中に閉じ込められて動き回っているということではありません。
私たち自身というのは、そのコマよりも遥かに大きく天地無限に広がっています。
そこに切り抜いた紙を重ねることで、一つのコマができているだけです。
切り絵の隙間から覗かせる私たちというのは、私たちのほんの一部分に過ぎません。
でも、私たちはコレが私たちの全てだと思い込んでしまっています。
切り絵の下に広がる下敷き(写真ではテーブル)というのは、何ら変化することなく、常にここに在ります。
そこに切り絵が置かれる前からそうですし、それが無くなってからもそうです。
切り絵があろうが無かろうが、そこに在り続けているわけです。
まさしく、私たちは今ここに在り続けているのです。
ただ、そこに重ねる切り絵が、一刻ごとにパッパッと入れ替わるために、あたかも私たち自身が動いてるように見えて
いるだけです。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」というのは、この切り絵の方のことを指しています。
私たちは、昨日と同じ今日、あるいは先ほどと同じ今を過ごしているように見えますが、それは寸分たがわぬ切り絵を
セッセと作っているからです。
同じような切り絵を作り続けると、見た目は何も変化してないように見える。
それを「河の流れは絶えずして、もとの水でも無し」と言っているわけです。
その切り抜きを乗せているテーブルは、変わらずそこに在り続けます。
便宜上「そこ」と言いましたが、それは「そこかしこ」でもあります。
一ヶ所にとどまっているものではなく、限定されたものではありません。
下敷きとなっているのは、天地宇宙のすべてが無限に連なるものです。
それは、大いなる一つ、とも言われたりしています。
先ほどの写真で言えば、下のテーブルが上下左右へ無限に広がっている状態であり、それが本当の私たちということに
なります。
そうした構図の中にあって、私たちはその切り絵の方に視点を置くことで、切り絵そのものを「空間」と認識し、それが
入れ替わることを「時間」と認識しています。
ですから、切り絵に視点を置かず、下敷きであるテーブルの方に視点を置くと、感覚は一変します。
これまで時間・空間とともに流れ続けていた私たちというのは消えてなくなり、今ここに居続ける私たちとなります。
この世というのは、ドーンと微動だにしない広大無辺な私たちに、お面をパッ、パッと当てられているようなものです。
観光地などで記念撮影用に丸い穴に顔を突っ込んでご当地キャラクターになりきるパネルが置いてあったりしますが、
まさにあんな感じのものが私たちの目の前にパッ、パッと置かれて、そこから顔を出しているような感じです。
実際、観光地で顔を突っ込めば分かると思いますが、正直あれというのは窮屈でたまりません。
でも、キャラになりきるのを面白がって、みんな割り切りながら顔を突っ込んでいるわけです。
私たちも同じです。
今この現実というのは、本体の私たちからすれば恐ろしく窮屈なものかもしれませんが、なりきって面白がっているのです。
でも面白がることや成り切っていることを忘れてしまうと、仮初めの型の中で本当の汲々になってしまいます。
ドツボにはまってグチャグチャになってしまった時は、原点に戻るのが一番です。
まずは顔を引っこ抜いて大きな自分に視点を戻して、その上でキャラになりきって面白がることを受け入れる。
記念撮影なんかしたくないと駄々こねても仕方ないわけです。
どうせやらなしゃーないんですから、そこは潔く諦めて、ゆるキャラでも何でもスッポリかぶってしまって、何ならアホに
なって踊ってしまった方がよっぽどラクというものです。
しかし、それにも増してさらに大事なことは、本当の私たちというのは今のココから一歩たりとも動いていないという
この事実です。
先ほどの観光地の撮影パネルに話を戻しますと、いま私たちの目の前にあるこのパネルは、私たちという一個人の姿形だけ
でなく、まわりの人たちや様々な存在、世界の景色すべてが描かれたパネルです。
その丸く空いたところから、ヒョイと顔を出している。
それが今の私たちです。
そのような壮大なパネルが次々と入れ替わっているのであって、私たち自身は変わらず今ここにドッシリ座ったままです。
これを、自分という個体で考えてしまうと分かりにくくなりますが、無限の広がりで考えればすんなりイメージできると
思います。
そんなものが動くはずがありません。
私たちとは、まさにそれであるわけです。
だから、「今ここ」なのです。
神道でも禅でも精神世界でも、昔から同じことを言われ続けている理由はそこにあります。
そもそも私たち自身というのは、今の此処にしか居ないのです。
「今」「ここ」に私たちは居座り続けています。
切り絵がいくらチェンジしても、それは微動だにしません。
だから、天地宇宙と一体となるのは唯一「今ここ」だけということになるのです。
「天地宇宙は、私たち自身です」
「『今ここ』は、私たち自身です」
「『今ここ』というヘソの緒で天地宇宙と繋がっています」
「『今ここ』で本当の私たち自身と繋がっています」
これまでのブログで様々な表現がありましたが、すべてはそういうことでした。
(つづく)
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ハサミで白い紙をスーッと一筆書きに切っていくと、そこにシルエットの人物が浮かび上がるというものです。
紙切りには、切り取った紙が作品となるパターンと、切り落とした空間が作品となるパターンがあります。
特に後者は、紙ではなく空間の方が主役になるというのがとても振るってて、黒い板の上に切り絵を乗せた瞬間、何も無い
部分にパッと命が宿るのはちょっとした感動すらあります。
そしてこれというのは、まさにこの世の実相を現したものでもあります。
私たちの現実世界が白い紙だとすると、本当の私たちというのは下敷きとなった黒い板ということです。
私たちの実体とは天地宇宙そのものです。
それは、どこまでも行っても終わることのない、広大無辺のものです。
無限でありながら、見た目には何もない状態。
それはまさに宇宙に遍満する、実体のないダークエネルギーです。
下敷きとなっている黒い板とは、この無限に広がる天地宇宙であるわけです。
そこにハサミで切り抜かれた紙をスッと重ねると、たちまち私たちが浮かび上がってきます。
そしてその切り絵が次々とチェンジしていってコマ送りになっているのが、この世の現実ということです。
以前に「私たちは映画のコマ送りの中に自身を投影させて疑似体験している」と書きましたが、それは決して私たちが
コマの中に閉じ込められて動き回っているということではありません。
私たち自身というのは、そのコマよりも遥かに大きく天地無限に広がっています。
そこに切り抜いた紙を重ねることで、一つのコマができているだけです。
切り絵の隙間から覗かせる私たちというのは、私たちのほんの一部分に過ぎません。
でも、私たちはコレが私たちの全てだと思い込んでしまっています。
切り絵の下に広がる下敷き(写真ではテーブル)というのは、何ら変化することなく、常にここに在ります。
そこに切り絵が置かれる前からそうですし、それが無くなってからもそうです。
切り絵があろうが無かろうが、そこに在り続けているわけです。
まさしく、私たちは今ここに在り続けているのです。
ただ、そこに重ねる切り絵が、一刻ごとにパッパッと入れ替わるために、あたかも私たち自身が動いてるように見えて
いるだけです。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」というのは、この切り絵の方のことを指しています。
私たちは、昨日と同じ今日、あるいは先ほどと同じ今を過ごしているように見えますが、それは寸分たがわぬ切り絵を
セッセと作っているからです。
同じような切り絵を作り続けると、見た目は何も変化してないように見える。
それを「河の流れは絶えずして、もとの水でも無し」と言っているわけです。
その切り抜きを乗せているテーブルは、変わらずそこに在り続けます。
便宜上「そこ」と言いましたが、それは「そこかしこ」でもあります。
一ヶ所にとどまっているものではなく、限定されたものではありません。
下敷きとなっているのは、天地宇宙のすべてが無限に連なるものです。
それは、大いなる一つ、とも言われたりしています。
先ほどの写真で言えば、下のテーブルが上下左右へ無限に広がっている状態であり、それが本当の私たちということに
なります。
そうした構図の中にあって、私たちはその切り絵の方に視点を置くことで、切り絵そのものを「空間」と認識し、それが
入れ替わることを「時間」と認識しています。
ですから、切り絵に視点を置かず、下敷きであるテーブルの方に視点を置くと、感覚は一変します。
これまで時間・空間とともに流れ続けていた私たちというのは消えてなくなり、今ここに居続ける私たちとなります。
この世というのは、ドーンと微動だにしない広大無辺な私たちに、お面をパッ、パッと当てられているようなものです。
観光地などで記念撮影用に丸い穴に顔を突っ込んでご当地キャラクターになりきるパネルが置いてあったりしますが、
まさにあんな感じのものが私たちの目の前にパッ、パッと置かれて、そこから顔を出しているような感じです。
実際、観光地で顔を突っ込めば分かると思いますが、正直あれというのは窮屈でたまりません。
でも、キャラになりきるのを面白がって、みんな割り切りながら顔を突っ込んでいるわけです。
私たちも同じです。
今この現実というのは、本体の私たちからすれば恐ろしく窮屈なものかもしれませんが、なりきって面白がっているのです。
でも面白がることや成り切っていることを忘れてしまうと、仮初めの型の中で本当の汲々になってしまいます。
ドツボにはまってグチャグチャになってしまった時は、原点に戻るのが一番です。
まずは顔を引っこ抜いて大きな自分に視点を戻して、その上でキャラになりきって面白がることを受け入れる。
記念撮影なんかしたくないと駄々こねても仕方ないわけです。
どうせやらなしゃーないんですから、そこは潔く諦めて、ゆるキャラでも何でもスッポリかぶってしまって、何ならアホに
なって踊ってしまった方がよっぽどラクというものです。
しかし、それにも増してさらに大事なことは、本当の私たちというのは今のココから一歩たりとも動いていないという
この事実です。
先ほどの観光地の撮影パネルに話を戻しますと、いま私たちの目の前にあるこのパネルは、私たちという一個人の姿形だけ
でなく、まわりの人たちや様々な存在、世界の景色すべてが描かれたパネルです。
その丸く空いたところから、ヒョイと顔を出している。
それが今の私たちです。
そのような壮大なパネルが次々と入れ替わっているのであって、私たち自身は変わらず今ここにドッシリ座ったままです。
これを、自分という個体で考えてしまうと分かりにくくなりますが、無限の広がりで考えればすんなりイメージできると
思います。
そんなものが動くはずがありません。
私たちとは、まさにそれであるわけです。
だから、「今ここ」なのです。
神道でも禅でも精神世界でも、昔から同じことを言われ続けている理由はそこにあります。
そもそも私たち自身というのは、今の此処にしか居ないのです。
「今」「ここ」に私たちは居座り続けています。
切り絵がいくらチェンジしても、それは微動だにしません。
だから、天地宇宙と一体となるのは唯一「今ここ」だけということになるのです。
「天地宇宙は、私たち自身です」
「『今ここ』は、私たち自身です」
「『今ここ』というヘソの緒で天地宇宙と繋がっています」
「『今ここ』で本当の私たち自身と繋がっています」
これまでのブログで様々な表現がありましたが、すべてはそういうことでした。
(つづく)
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