この世界というのは循環と再生によって成り立っています。
流れ流れていることが、常に新鮮な清々しさを生み出しています。
生きるものすべてが、生じたのち育ち、老い朽ちて土に帰り、そしてまた生じます。
生き物だけに限らず、この世に存在するありとあらゆるものがそうであるわけです。
そのようにして天地発生以来、この瞬間に至るまで「今」というものが連綿とつづられてきました。
その理を悟り、今という瞬間が常に清らかに新鮮にあることを最上としたのが、神道の常若(とこわか)の考えです。
常若とは、清々しいエネルギーに輝き溢れる姿そのものを指します。
しかしながら産業革命以来の消費社会というのは、そうした循環とは真逆のものとなりました。
大量生産、安売り販売の世界では、直すよりも買い換える方が安いという状況になりました。
そうして修理業も廃れていくことになってしまいました。
昔は傘一つとっても、今に換算すれば3千円くらいしたように感じます。
そのため骨が折れたりジョイントが壊れた時には修理に出すのが当たり前でした。
しかし今はその修理屋さんそのものが居ません。
おまけに千円やそこらで新品が手に入ります。
そして安かろう悪かろうを絵に描いたように、驚くほどモロく簡単に壊れてしまう。
そうしてまた新品を買い換える…
このようにして、今まで自然に流れていたはずの循環は枯れ果て、途絶えてしまいました。
それだけではありません。
安いという概念によって、物を軽んじる心が私たちの中に生じてしまいました。
どうせ千円だから、まぁいいか、と。
これでは愛着など芽生えるはずもありません。
ほんの40、50年前の日本にはモッタイナイ文化がありました。
それはケチケチしてるということではなく、物に対する謙虚な心でした。
そしてそれというのは物に限らずあらゆる事柄へ向ける心であり、果ては自分自身に向けられる心そのものであったわけです。
今や、物を軽んじるがごとく、私たちは私たち自身のことも軽んじてしまっている。
しかしこれまでご先祖様たちは、自分自身に対しても謙虚な心を向けていたということです。
その何千年も受け継がれてきた心が、わずか50年やそこらで絶えようとしています。
服にせよ家にせよ、布や板を当ててツギハギになっても、今と昔ではその時の心の痛みが違いました。
誰かにそれを見られる恥ずかしさというのは昔だって今と変わりなかったはずですが、そうしたことよりも、粗雑に使い捨てることへの
申し訳なさの方が遥かに心が痛むことだったわけです。
そうして私たちのご先祖様たちは、そのような透き通った心のままに、美しい伝統文化を生み出していったのでした。
例えば「金継ぎ」という芸術は、まさしくそうした心を端的に表すものではないかと思います。
金継ぎというのは、割れた陶器を漆で接着して金粉を塗って継ぐ伝統技法です。
もちろん、最初はモノを大切に扱おうとする精神から始まったものでしょうが、それが驚くほどの美しさを生むことになりました。
もともと陶器というのは単色よりも微妙な色合いや濃淡のある方が好まれました。
バランスの取れた色形よりも、変化に富んだ複雑さの中に、私たち日本人は美しさを感じてきました。
単調でのっぺりした色形ではなく、濃淡や凸凹というものに自然の息吹を感じるわけです。
茶碗や湯のみが割れる時というのは作為的なカットなど一切ない、イレギュラーな形となります。
すなわち自然そのものです。
人為的なカットはそこに心が色濃く反映されてしまい、その時点で不自然さが際立つことになります。
作為のない状態に、私たちは大自然を感じるわけです。
そもそもは粗雑に扱うことへの申し訳なさに端を発した技術でしたが、いつしかそれは元々の姿以上の美しさを生み出す伝統技法となった
のでした。
今一度振り返るに現代の、物を粗末に扱う心、使い捨ての心というのは、そのまま私たち自身に対する心になっていきます。
すなわち、私たちは無意識のうちに私たち自身を使い捨てている、消耗したらポイ捨てするものだと捉えているということです。
「もとより物とは壊れるもの、直すもの」という当たり前な感覚が無い。
傷つきヒビが入ったらもうそれは2級品だ、処分品だと自動判定してしまう心。
それがそのまま私たち自身に向くと、少しの傷だけでもダメ人間だと決めつけてしまう心となります。
そうして、自分なんかは居ても意味がないとか、必要がないという思考に陥ってしまうわけです。
しかし、この世界のあらゆるものは流れ流れて変わりゆくもので、ヒビ1つ入らぬ頑強なものなど存在などしないのです。
むしろそれを目指した古代文明の成れの果てというものを、今やボロボロの巨石群として見ることができるはずです。
私たちの人生というもの、そして私たち自身も、何度も傷つき、欠けたり割れたりするものです。
それが生きているということであり、この世に存在するということです。
それは恥じたり隠すことなんかではなく、そこにこそ美しさがあるのです。
ありのままを受け入れるなんていう綺麗事のレベルではなく、純粋に誰もがそこに一層の美しさを感じる。
理屈など必要がないことは、金継ぎの美しさを見れば一目瞭然でしょう。
上の写真というのは、私たちそのものであるわけです。
昔の日本人はよく笑い、そしてよく泣いたと言います。
開国間もない日本に来た外国人が、大の大人が人目もはばからず泣いている姿に驚いたと書いています。
現代の私たちからすれば、鋼の精神を持つ侍が、人前で涙を見せたというのはとても信じられないことです。
でもそれこそが私たちの凝り固まった固定観念そのものであるわけです。
強くあるためには壊れてはいけない、割れてはいけないという心。
それが今の私たちです。
天地の自然の流れというのはそんな我利我利したものではありません。
割れても欠けても、それ本来の強さや美しさが損なわれることなどカケラもない。
それを知っていればこそ、泣く時は泣くし、笑う時は笑う。
私たちのご先祖様たちは、本人もまわりもそれを当たり前に受け入れていたわけです。
その姿を、みっともないとか恥ずかしいなどと感じた西洋人の方こそ、遥かに幼く、我心に凝り固まった偏屈者だということです。
そしてその偏屈というのは他でもない、今この私たちの姿でもあるのです。
そもそも鬱だとか、心を壊すだとか、なんだか現代が夢も光もない鬱屈とした時代のように言われていますが、そんなことはないのです。
たまたまほんの少し前の高度成長期が白夜のような異常事態だっただけで、その前は、今この時代と本質的には何も変わらなかった
のです。
ただ、その頃はそうしたものを普通に受け入れていました。
欠けまい折れまいとするのではなく、しょっちゅう欠けるし割れる。
欠けまい割れまいと抵抗して頑張ったりせず、それを素直に受け入れる。
そうしてそこからツギハギをして、当たり前のように一層の逞しさと美しさが現れる。輝きが溢れる。
欠けたり割れたりしたからといって敗北者の烙印など押したりはしない。
この世とはそういうものだと自分もまわりもごく自然に共有していたわけです。
私たちの身体というのも日々細胞が入れ替わっています。
数ヶ月で全て入れ替わるとも言いますし、骨も含めると数年かかって入れ替わるとも言います。
いずれにしても常に新しいパーツと古いパーツが混在しているということです。
それこそツギハギそのものと言うことが出来ます。
神道においてもそうした新陳代謝こそが新鮮な輝きの素であると考えられ、常若の精神が伊勢の遷宮となり春日の造替となりました。
棟持柱が次の大鳥居となり、もとの大鳥居が他の神社の鳥居となる…それは生まれ変わりとともにこの世のとこしえの循環を表すものです。
私たちは日々、傷つき再生しています。
それは比喩などではなく、現実として心も身体もその通りであるわけです。
細胞一つ取ってもそうであるように、この世に生きるというのはそういうこと。存在するというのはそういうことなのです。
実際、大病を患った人ほど長生きをしたり、若かりし日に死線をさまよった人の方が老いてますます丈夫になったりするものです。
逆に、温室で蝶よ花よと傷一つなく大切に育てられた人の方があっさり逝ってしまったりします。
傷は恐れるものではありません。
粉々に砕け散っても、私たち自身が無くなることはありません。
むしろ、その一つ一つがこの次の頑丈な骨継ぎとなり、さらなる輝きを生み出す素にもなっていくのです。
壊れてもイイのです。
傷ついてもイイ。
欠けてもイイのです。
それは、より一層の輝きとなり、逞しさとなります。
壊れることを恐れなくていい。
それにダメ出し判定することなど無いのです。
挫折を怖れる必要はありません。
失敗を怖れる必要もありません。
非難も失望も、何も怖いものなどありません。
私たちは傷ついても大丈夫なのです。
欠けても壊れても大丈夫なのです。
人に潰されても、仕事に潰されても、生活に潰されても大丈夫。
身体が壊れても、心が壊れても、私たち自身が壊れることは決してないのです。
金継ぎの国宝のごとく、その先にはまさかの世界が広がっています。
そこで壊れるものは、のっぺりと単調なラインの我執でしかありません。
そうした作為を越えた世界にこそ、天地自然の輝きが現れ出てくるのです。
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流れ流れていることが、常に新鮮な清々しさを生み出しています。
生きるものすべてが、生じたのち育ち、老い朽ちて土に帰り、そしてまた生じます。
生き物だけに限らず、この世に存在するありとあらゆるものがそうであるわけです。
そのようにして天地発生以来、この瞬間に至るまで「今」というものが連綿とつづられてきました。
その理を悟り、今という瞬間が常に清らかに新鮮にあることを最上としたのが、神道の常若(とこわか)の考えです。
常若とは、清々しいエネルギーに輝き溢れる姿そのものを指します。
しかしながら産業革命以来の消費社会というのは、そうした循環とは真逆のものとなりました。
大量生産、安売り販売の世界では、直すよりも買い換える方が安いという状況になりました。
そうして修理業も廃れていくことになってしまいました。
昔は傘一つとっても、今に換算すれば3千円くらいしたように感じます。
そのため骨が折れたりジョイントが壊れた時には修理に出すのが当たり前でした。
しかし今はその修理屋さんそのものが居ません。
おまけに千円やそこらで新品が手に入ります。
そして安かろう悪かろうを絵に描いたように、驚くほどモロく簡単に壊れてしまう。
そうしてまた新品を買い換える…
このようにして、今まで自然に流れていたはずの循環は枯れ果て、途絶えてしまいました。
それだけではありません。
安いという概念によって、物を軽んじる心が私たちの中に生じてしまいました。
どうせ千円だから、まぁいいか、と。
これでは愛着など芽生えるはずもありません。
ほんの40、50年前の日本にはモッタイナイ文化がありました。
それはケチケチしてるということではなく、物に対する謙虚な心でした。
そしてそれというのは物に限らずあらゆる事柄へ向ける心であり、果ては自分自身に向けられる心そのものであったわけです。
今や、物を軽んじるがごとく、私たちは私たち自身のことも軽んじてしまっている。
しかしこれまでご先祖様たちは、自分自身に対しても謙虚な心を向けていたということです。
その何千年も受け継がれてきた心が、わずか50年やそこらで絶えようとしています。
服にせよ家にせよ、布や板を当ててツギハギになっても、今と昔ではその時の心の痛みが違いました。
誰かにそれを見られる恥ずかしさというのは昔だって今と変わりなかったはずですが、そうしたことよりも、粗雑に使い捨てることへの
申し訳なさの方が遥かに心が痛むことだったわけです。
そうして私たちのご先祖様たちは、そのような透き通った心のままに、美しい伝統文化を生み出していったのでした。
例えば「金継ぎ」という芸術は、まさしくそうした心を端的に表すものではないかと思います。
金継ぎというのは、割れた陶器を漆で接着して金粉を塗って継ぐ伝統技法です。
もちろん、最初はモノを大切に扱おうとする精神から始まったものでしょうが、それが驚くほどの美しさを生むことになりました。
もともと陶器というのは単色よりも微妙な色合いや濃淡のある方が好まれました。
バランスの取れた色形よりも、変化に富んだ複雑さの中に、私たち日本人は美しさを感じてきました。
単調でのっぺりした色形ではなく、濃淡や凸凹というものに自然の息吹を感じるわけです。
茶碗や湯のみが割れる時というのは作為的なカットなど一切ない、イレギュラーな形となります。
すなわち自然そのものです。
人為的なカットはそこに心が色濃く反映されてしまい、その時点で不自然さが際立つことになります。
作為のない状態に、私たちは大自然を感じるわけです。
そもそもは粗雑に扱うことへの申し訳なさに端を発した技術でしたが、いつしかそれは元々の姿以上の美しさを生み出す伝統技法となった
のでした。
今一度振り返るに現代の、物を粗末に扱う心、使い捨ての心というのは、そのまま私たち自身に対する心になっていきます。
すなわち、私たちは無意識のうちに私たち自身を使い捨てている、消耗したらポイ捨てするものだと捉えているということです。
「もとより物とは壊れるもの、直すもの」という当たり前な感覚が無い。
傷つきヒビが入ったらもうそれは2級品だ、処分品だと自動判定してしまう心。
それがそのまま私たち自身に向くと、少しの傷だけでもダメ人間だと決めつけてしまう心となります。
そうして、自分なんかは居ても意味がないとか、必要がないという思考に陥ってしまうわけです。
しかし、この世界のあらゆるものは流れ流れて変わりゆくもので、ヒビ1つ入らぬ頑強なものなど存在などしないのです。
むしろそれを目指した古代文明の成れの果てというものを、今やボロボロの巨石群として見ることができるはずです。
私たちの人生というもの、そして私たち自身も、何度も傷つき、欠けたり割れたりするものです。
それが生きているということであり、この世に存在するということです。
それは恥じたり隠すことなんかではなく、そこにこそ美しさがあるのです。
ありのままを受け入れるなんていう綺麗事のレベルではなく、純粋に誰もがそこに一層の美しさを感じる。
理屈など必要がないことは、金継ぎの美しさを見れば一目瞭然でしょう。
上の写真というのは、私たちそのものであるわけです。
昔の日本人はよく笑い、そしてよく泣いたと言います。
開国間もない日本に来た外国人が、大の大人が人目もはばからず泣いている姿に驚いたと書いています。
現代の私たちからすれば、鋼の精神を持つ侍が、人前で涙を見せたというのはとても信じられないことです。
でもそれこそが私たちの凝り固まった固定観念そのものであるわけです。
強くあるためには壊れてはいけない、割れてはいけないという心。
それが今の私たちです。
天地の自然の流れというのはそんな我利我利したものではありません。
割れても欠けても、それ本来の強さや美しさが損なわれることなどカケラもない。
それを知っていればこそ、泣く時は泣くし、笑う時は笑う。
私たちのご先祖様たちは、本人もまわりもそれを当たり前に受け入れていたわけです。
その姿を、みっともないとか恥ずかしいなどと感じた西洋人の方こそ、遥かに幼く、我心に凝り固まった偏屈者だということです。
そしてその偏屈というのは他でもない、今この私たちの姿でもあるのです。
そもそも鬱だとか、心を壊すだとか、なんだか現代が夢も光もない鬱屈とした時代のように言われていますが、そんなことはないのです。
たまたまほんの少し前の高度成長期が白夜のような異常事態だっただけで、その前は、今この時代と本質的には何も変わらなかった
のです。
ただ、その頃はそうしたものを普通に受け入れていました。
欠けまい折れまいとするのではなく、しょっちゅう欠けるし割れる。
欠けまい割れまいと抵抗して頑張ったりせず、それを素直に受け入れる。
そうしてそこからツギハギをして、当たり前のように一層の逞しさと美しさが現れる。輝きが溢れる。
欠けたり割れたりしたからといって敗北者の烙印など押したりはしない。
この世とはそういうものだと自分もまわりもごく自然に共有していたわけです。
私たちの身体というのも日々細胞が入れ替わっています。
数ヶ月で全て入れ替わるとも言いますし、骨も含めると数年かかって入れ替わるとも言います。
いずれにしても常に新しいパーツと古いパーツが混在しているということです。
それこそツギハギそのものと言うことが出来ます。
神道においてもそうした新陳代謝こそが新鮮な輝きの素であると考えられ、常若の精神が伊勢の遷宮となり春日の造替となりました。
棟持柱が次の大鳥居となり、もとの大鳥居が他の神社の鳥居となる…それは生まれ変わりとともにこの世のとこしえの循環を表すものです。
私たちは日々、傷つき再生しています。
それは比喩などではなく、現実として心も身体もその通りであるわけです。
細胞一つ取ってもそうであるように、この世に生きるというのはそういうこと。存在するというのはそういうことなのです。
実際、大病を患った人ほど長生きをしたり、若かりし日に死線をさまよった人の方が老いてますます丈夫になったりするものです。
逆に、温室で蝶よ花よと傷一つなく大切に育てられた人の方があっさり逝ってしまったりします。
傷は恐れるものではありません。
粉々に砕け散っても、私たち自身が無くなることはありません。
むしろ、その一つ一つがこの次の頑丈な骨継ぎとなり、さらなる輝きを生み出す素にもなっていくのです。
壊れてもイイのです。
傷ついてもイイ。
欠けてもイイのです。
それは、より一層の輝きとなり、逞しさとなります。
壊れることを恐れなくていい。
それにダメ出し判定することなど無いのです。
挫折を怖れる必要はありません。
失敗を怖れる必要もありません。
非難も失望も、何も怖いものなどありません。
私たちは傷ついても大丈夫なのです。
欠けても壊れても大丈夫なのです。
人に潰されても、仕事に潰されても、生活に潰されても大丈夫。
身体が壊れても、心が壊れても、私たち自身が壊れることは決してないのです。
金継ぎの国宝のごとく、その先にはまさかの世界が広がっています。
そこで壊れるものは、のっぺりと単調なラインの我執でしかありません。
そうした作為を越えた世界にこそ、天地自然の輝きが現れ出てくるのです。
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