小さい頃、私は、こまっしゃくれた子供だったようです。
人前で喜びや悲しみを顔に出すのは、大人げないことだと思っていました。
背伸びというか、カッコつけたかったわけですね(笑)
ですから、家の外では感情を抑えて、なるべく表に出さないようにしていました。
私の母は喜怒哀楽のハッキリしたタイプなので、そうした態度をとても不満に思っていたようです。
一緒にボーリングに行った時も、私としては普通に楽しんでいたのですが、母からは「カッコつけ
てるからイヤだ」と言われたことがありました。
何か派手なポーズを決めたわけではありませんし、キザに振る舞ったつもりもありませんでした。
自分では淡々とやっていましたので、何のことか分からず、口喧嘩になった覚えがあります。
今になって思えば、母はもっと私に喜んだり悲しんだり、普通にハシャいで欲しかったのだと
思います。
私たちは、今この世界の一枚絵の中に溶け込んでいますが、その様子を多くの存在がハラハラ
わくわくしながら見守ってくれています。
そして、その観客席には私たち自身も座っています。
私たちも、自分の映画を一緒に観ているわけです。
そんな時、映画の主役が、喜怒哀楽を抑えて能面のように淡々と過ごしていたら、どうでしょうか。
しかも、さまざまな気持ちがハジけそうになると水をかけて消している様子まで、せんぶ観えて
しまっているのです。
あ~、もったいない・・・と溜め息をついてしまうのではないでしょうか。
テレビの人気番組に、小さな子どもが初めてお遣いに行くというものがあります。
知らない世界へ一人でドキドキしながら飛び込む姿に、視聴者の目は釘付けになります。
不安や恐れと葛藤する姿に、観ている方もハラハラ手に汗握り、ちょっとしたことに驚く姿には
思わず笑みがこぼれ、そして透き通った優しさを観ると、心洗われホロリと涙するのです。
やはり、損得勘定なしに一生懸命にやって、そして一喜一憂している姿であればこそ、大いに
盛り上がるのではないかと思います。
もし、その子どもが感情を押し殺し、平静なままスーッと買い物をしてしまったら、何も面白く
ありません。
ましてや、何もかも全て分かってる状態で馴染みの店に行く、というのでは企画段階でボツです。
つまりは、現実世界がそうであるわけです。
どうなるか分からないから、いいのです。
安全なところから出まいと頑なになっているのでは、企画倒れなのです。
自分の知らない世界、知らない視野へと、恐る恐るドキドキびくびくしながら出て行くから、
いいのです。
自分の心に素直になった方が、他の誰でなく自分自身が喜ぶということです。
何かに気兼ねして自分の感情を押し殺すというのは、全く逆なわけです。
神話を読んでみますと、神様自身がそのことを身を持って教えてくれています。
日本の神話に登場する神様たちは、とても表情が豊かです。
誰かの目を気にするでもなく、大いに泣き、大いに笑い、そして大いに怒っています。
実に、豊かな心が見て取れます。
それを大人げないとか、みっともないと思うのは、私たち人間の浅知恵でしかありません。
カッコいいとかカッコ悪いというのは、人の目を気にした価値判断です。
もちろん、自由奔放だからといって他人に迷惑をかけるのはいけません。
慎みは必要です。
ただ、自分の豊かな心までも押さえつけることはないわけです。
ポロポロ泣いたり、ゲラゲラ笑えばいいのです。
それを泣き虫だとか、落ち着きがないと思われたとしても、それは他人の価値観でしかありません。
自分の中心を相手に置くわけではないのですから、そんなことはどうでもいいことなのです。
そもそも自分の心が透明であれば、泣いても笑っても、まわりは笑顔でスッと受け入れてくれます。
もしかしたら、神話の神様の姿というのは、私たちのご先祖さまの姿なのかもしれません。
昔は、現代と違って、死というものが身近にありました。
いつまで生きられるか分からない肌感覚に包まれるなか、心はシャキッと覚めて、自ずと一つ一つ
のことに注力していたことでしょう。
そして様々なこと、様々な存在に感謝しながら、全身で生きていたはずです。
それゆえ、一つ一つの喜怒哀楽も、今とは透明度が違ったのではないかと思うのです。
実際、戦国時代や幕末維新、世界大戦の時など、武骨でストイックに見える時代こそ、日本人は
よく笑い、よく泣いていました。
幕末に来日した外国人は、日本人が弾けるように笑い、そして何より、ひと目をはばからずに泣いて
いる姿に驚きました。
そのような、溢れ出るほどの豊かな心を、みんなアタリマエに持っていたのです。
今の私たちは、当時の外国人と同じ見方しかできませんので、ご先祖様たちのその姿を想像すると
少し驚いてしまいますが、それが精神的に未熟だったかというと全く逆なわけです。
実際、当の外国人は、そうしたことも含めて日本人のことを、高潔だと評しています。
決して子どものように見えたわけではなく、その雑味のない透明な精神に、むしろ清々しさを感じて
いたのです。
そして薩摩武士も幕末の志士たちも、よく泣きました。
大東亜戦争下の日本男児たちも、泣きました。
それは、一つ一つの今に、それだけ真剣に向き合っていたことの現われです。
私利私欲が削られた透明な感性が、即座に、その心を発露させていたのです。
一喜一憂といっても、ただ感情の暴走に流されることとは違うわけです。
今に向き合い、素直に自分の気持ちを解放しているのです。
今から離れて、感情の激流に巻き込まれるのとはわけが違うのです。
それらは、似て非なるものとして、切り分けて考える必要があります。
感情というと、囚われの元凶や悪の権化のように思われがちですが、そこはリセットしなくては
いけないところだと思います。
ポイントは、自分の中心が保たれているかどうかです。
我欲が強ければ強いほど、自分の中心点から外れていきます。
自分の中心から離れた状態ですと、感情に押し流されてしまいます。
しかし自分の中心はそのままで、心を大きく拡げた状態で感情を解放させると、カラッと澄んだ
一喜一憂になります。
同じ怒るにしても、感情にまかせたそれと、透明なそれとでは受け手の感覚が全く違います。
前者は、雑味が外側からぶつかり、反発が生じて互いにあとを引きます。
しかし後者は、透き通るように内側へダイレクトに届くため、喝を入れられ我に帰る感じになります。
あとに引くこともなく、突き抜けた感じになります。
あるいは、愛と恋の違いなども、そこにあると思います。
我欲があるかないか、自分の中心点が失われてないかどうかです。
それによって、粘っこい執着丸出しの愛となるか、風のように爽やかな恋となるか、大きな違いが
出てくるのです。
これは悲しみも同じです。
自分の中心から外れて感情に流されてしまうと、ダラダラとクドい粘着質が後を引きます。
しかし、自分の中心が定まった状態で心を開放させた時は、透明で綺麗な悲しみとなり、観る者の
心にもグッと響きます。
中心から広がる想いは、我欲ではありません。
拡がる波紋のようなものです。
澄みきった風が、人々の心をスッと通り抜けます。
ここでいう中心とは、自分の芯が「今」にある状態です。
世の中には「感情は流さなくてはいけない」「流して眺めましょう」という考え方がありますが、これは、
自分の中心がなくなって流されていることを諌めてのものです。
中心を無くしてあちこち流されていることを自覚せず、さらに流されまくっていることに対して、そうした
方便を使っているわけです。
ですから、我欲や雑味が多いと感じた時は、そのような方便を使うのが有効です。
ただ、中心が自分の臍下にスッと定まっている時は、感情に素直になっていいのです。
我欲でなく透き通った状態であれば、それは心を広げることになるからです。
このように中心点と素直さが大切というのは、他の場面にも当てはまることです。
例えば、自分の知らない話を聞いて、「本当だろうか・・・いや、ダマされないぞ」と思って過ごすよりも
「へぇ~そうなんだ。それは面白い」と思って過ごす方が、彩り豊かな人生となるものです。
前者の不安の根っこにあるものは、ケガをしたくないという思いです。
でも、自分の中心がしっかりしていれば、「騙される」ということはありません。
それは、自分の外に心を置くことによって生まれるものだからです。
損得勘定や我欲の混じった好奇心の場合は、その延長に面白みを感じてしまいます。
ですから、アテが外れて「騙された」ということになるのです。
自分の中心がここにあれば、そもそも面白く感じるものが変わってきます。
最初からアテなど無いので、ハシゴを外されることもありません。
結果がどうかなど気にせず、今を楽しんできたので、既に十分満足です。
なので、実は嘘でした、と言われても「なんだそっか」で終わりです。
そんな心配よりも、日々の輝きを楽しもうとする素直さの方が、得る喜びは大きいのです。
このような素直さを体現した人は、過去に沢山います。
たとえば西郷隆盛は、どのようなことも一切疑わずに信じたといいます。
身の上話を聞いた時には、本人以上に喜んだり、ハラハラ心配したり、ポロポロ泣いたそうです。
そして、あとでそれが嘘だったと知った時も、ガッハッハと笑い飛ばしたそうです。
過去は過去で、その瞬間の自分に素直になっていた。
そして今は、今の自分に素直になっていたということでしょう。
自らを中心として、天地に無限の心を開いていたわけです。
感情豊かなだけでなく、とてつもなく度量が大きく胆も座っていたというのは、それ故でしょう。
そして何も話さなくとも、そばに居るだけで幸せな気持ちになれたといいます。
そういう点では、頭山満翁も同じですし、山岡鉄舟もそうだったと思います。
やはり、お二方とも、相手の話ではなくその相手自身を信じました。
それは、自分を信じていることでもあったわけです。
すべてをそのまま受け入れたのです。
ですから、もしも騙されたもしても、本心から何の後悔もなかったのです。
自分を信じきって相手を信じきった時点で、それはもう終わったことだからです。
その三人とも、自宅には大勢の人たちが集まり、何もせずゴロゴロと長居していたといいます。
どんなくだらない話でも、その声に触れるだけで幸せになれたということでしょう。
また、たとえ会話がなくとも、ただ近くにいるだけで心が安らいだということかもしれません。
そして、この人のためなら死んでもいいと思うのです。
それは理屈ではありません。
損得勘定でもありません。
ひとえに「徳」です。
天地の心に包まれた時、人はホッと優しい心地になります。
それは我執や囚われが取り払われた、生まれながらの素の状態です。
自らも天地に溶け込んでいき、そうして心からの安らぎを覚えるのです。
そしてまた、囚われのない素直な状態にあると、自分のまわりは楽しいことだらけになります。
子どもの頃のそれです。
楽しいことがやってくるのを待つのではなく、自ら楽しもうとするスタンスです。
何の変化もない状況でも、何か楽めないかと、創造力と探究心がフル回転になります。
そこに一石が投じられたらば、何だろう?と好奇心を膨らませます。
そして、ますますワクワク回転です。
そこでもし、意味が理解できなかったとしても、立ち止まることはありません。
納得できなければ楽しむのをやめてしまう、なんて馬鹿なことはありません。
目的はただ、楽しむことです。
「分からないけど面白い」という素直な気持ちです。
しかし大人になると、腑に落ちないと先に進むのはやめようと慎重になっていきます。
その先に楽しいことがあっても、「いや、まずは疑おう」となるのです。
もちろん、その姿勢が必要な場面は数多くあります。
確かに、なんでも手放しで受け入れるのは危険なことです。
ただ、少なくとも遊ぶことに関しては、そのストッパーを外してもいいと思うのです。
楽しむことが目的なのですから、楽しまなければ意味がないのです。
あとでそれが方便だったと分かっても、もう十分楽しんだわけですから、「あ~、騙されたー」と
笑っておしまいです。
そして、本当に素直であれば、そもそも騙されるということは有り得ないのです。
ですから、いちいち疑い深くなるよりも、素直に騙された方が「得」なのです。
遊びというのは、とにかく楽しんだもん勝ちです。
地に足をつけて自分の中心をスッと通したまま心を広げますと、透き通った豊かな感情が
溢れ出てきます。
その感情にフタをする必要はありません。
雑味を無くして心が広がるほどに、天地の温かさに溶けあっていきます。
そして、まわりは優しい心地に包まれていきます。
自分の目の前には、楽しいことがたくさん現われてきます。
今を楽しもうとするほどに、ますます楽しくなっていきます。
そして楽しめば楽しむほど、さらに心は広がり、天地と一つになっていきます。
それが素直さというものです。
それは徳であり、本当に得なことなのです(笑)
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人前で喜びや悲しみを顔に出すのは、大人げないことだと思っていました。
背伸びというか、カッコつけたかったわけですね(笑)
ですから、家の外では感情を抑えて、なるべく表に出さないようにしていました。
私の母は喜怒哀楽のハッキリしたタイプなので、そうした態度をとても不満に思っていたようです。
一緒にボーリングに行った時も、私としては普通に楽しんでいたのですが、母からは「カッコつけ
てるからイヤだ」と言われたことがありました。
何か派手なポーズを決めたわけではありませんし、キザに振る舞ったつもりもありませんでした。
自分では淡々とやっていましたので、何のことか分からず、口喧嘩になった覚えがあります。
今になって思えば、母はもっと私に喜んだり悲しんだり、普通にハシャいで欲しかったのだと
思います。
私たちは、今この世界の一枚絵の中に溶け込んでいますが、その様子を多くの存在がハラハラ
わくわくしながら見守ってくれています。
そして、その観客席には私たち自身も座っています。
私たちも、自分の映画を一緒に観ているわけです。
そんな時、映画の主役が、喜怒哀楽を抑えて能面のように淡々と過ごしていたら、どうでしょうか。
しかも、さまざまな気持ちがハジけそうになると水をかけて消している様子まで、せんぶ観えて
しまっているのです。
あ~、もったいない・・・と溜め息をついてしまうのではないでしょうか。
テレビの人気番組に、小さな子どもが初めてお遣いに行くというものがあります。
知らない世界へ一人でドキドキしながら飛び込む姿に、視聴者の目は釘付けになります。
不安や恐れと葛藤する姿に、観ている方もハラハラ手に汗握り、ちょっとしたことに驚く姿には
思わず笑みがこぼれ、そして透き通った優しさを観ると、心洗われホロリと涙するのです。
やはり、損得勘定なしに一生懸命にやって、そして一喜一憂している姿であればこそ、大いに
盛り上がるのではないかと思います。
もし、その子どもが感情を押し殺し、平静なままスーッと買い物をしてしまったら、何も面白く
ありません。
ましてや、何もかも全て分かってる状態で馴染みの店に行く、というのでは企画段階でボツです。
つまりは、現実世界がそうであるわけです。
どうなるか分からないから、いいのです。
安全なところから出まいと頑なになっているのでは、企画倒れなのです。
自分の知らない世界、知らない視野へと、恐る恐るドキドキびくびくしながら出て行くから、
いいのです。
自分の心に素直になった方が、他の誰でなく自分自身が喜ぶということです。
何かに気兼ねして自分の感情を押し殺すというのは、全く逆なわけです。
神話を読んでみますと、神様自身がそのことを身を持って教えてくれています。
日本の神話に登場する神様たちは、とても表情が豊かです。
誰かの目を気にするでもなく、大いに泣き、大いに笑い、そして大いに怒っています。
実に、豊かな心が見て取れます。
それを大人げないとか、みっともないと思うのは、私たち人間の浅知恵でしかありません。
カッコいいとかカッコ悪いというのは、人の目を気にした価値判断です。
もちろん、自由奔放だからといって他人に迷惑をかけるのはいけません。
慎みは必要です。
ただ、自分の豊かな心までも押さえつけることはないわけです。
ポロポロ泣いたり、ゲラゲラ笑えばいいのです。
それを泣き虫だとか、落ち着きがないと思われたとしても、それは他人の価値観でしかありません。
自分の中心を相手に置くわけではないのですから、そんなことはどうでもいいことなのです。
そもそも自分の心が透明であれば、泣いても笑っても、まわりは笑顔でスッと受け入れてくれます。
もしかしたら、神話の神様の姿というのは、私たちのご先祖さまの姿なのかもしれません。
昔は、現代と違って、死というものが身近にありました。
いつまで生きられるか分からない肌感覚に包まれるなか、心はシャキッと覚めて、自ずと一つ一つ
のことに注力していたことでしょう。
そして様々なこと、様々な存在に感謝しながら、全身で生きていたはずです。
それゆえ、一つ一つの喜怒哀楽も、今とは透明度が違ったのではないかと思うのです。
実際、戦国時代や幕末維新、世界大戦の時など、武骨でストイックに見える時代こそ、日本人は
よく笑い、よく泣いていました。
幕末に来日した外国人は、日本人が弾けるように笑い、そして何より、ひと目をはばからずに泣いて
いる姿に驚きました。
そのような、溢れ出るほどの豊かな心を、みんなアタリマエに持っていたのです。
今の私たちは、当時の外国人と同じ見方しかできませんので、ご先祖様たちのその姿を想像すると
少し驚いてしまいますが、それが精神的に未熟だったかというと全く逆なわけです。
実際、当の外国人は、そうしたことも含めて日本人のことを、高潔だと評しています。
決して子どものように見えたわけではなく、その雑味のない透明な精神に、むしろ清々しさを感じて
いたのです。
そして薩摩武士も幕末の志士たちも、よく泣きました。
大東亜戦争下の日本男児たちも、泣きました。
それは、一つ一つの今に、それだけ真剣に向き合っていたことの現われです。
私利私欲が削られた透明な感性が、即座に、その心を発露させていたのです。
一喜一憂といっても、ただ感情の暴走に流されることとは違うわけです。
今に向き合い、素直に自分の気持ちを解放しているのです。
今から離れて、感情の激流に巻き込まれるのとはわけが違うのです。
それらは、似て非なるものとして、切り分けて考える必要があります。
感情というと、囚われの元凶や悪の権化のように思われがちですが、そこはリセットしなくては
いけないところだと思います。
ポイントは、自分の中心が保たれているかどうかです。
我欲が強ければ強いほど、自分の中心点から外れていきます。
自分の中心から離れた状態ですと、感情に押し流されてしまいます。
しかし自分の中心はそのままで、心を大きく拡げた状態で感情を解放させると、カラッと澄んだ
一喜一憂になります。
同じ怒るにしても、感情にまかせたそれと、透明なそれとでは受け手の感覚が全く違います。
前者は、雑味が外側からぶつかり、反発が生じて互いにあとを引きます。
しかし後者は、透き通るように内側へダイレクトに届くため、喝を入れられ我に帰る感じになります。
あとに引くこともなく、突き抜けた感じになります。
あるいは、愛と恋の違いなども、そこにあると思います。
我欲があるかないか、自分の中心点が失われてないかどうかです。
それによって、粘っこい執着丸出しの愛となるか、風のように爽やかな恋となるか、大きな違いが
出てくるのです。
これは悲しみも同じです。
自分の中心から外れて感情に流されてしまうと、ダラダラとクドい粘着質が後を引きます。
しかし、自分の中心が定まった状態で心を開放させた時は、透明で綺麗な悲しみとなり、観る者の
心にもグッと響きます。
中心から広がる想いは、我欲ではありません。
拡がる波紋のようなものです。
澄みきった風が、人々の心をスッと通り抜けます。
ここでいう中心とは、自分の芯が「今」にある状態です。
世の中には「感情は流さなくてはいけない」「流して眺めましょう」という考え方がありますが、これは、
自分の中心がなくなって流されていることを諌めてのものです。
中心を無くしてあちこち流されていることを自覚せず、さらに流されまくっていることに対して、そうした
方便を使っているわけです。
ですから、我欲や雑味が多いと感じた時は、そのような方便を使うのが有効です。
ただ、中心が自分の臍下にスッと定まっている時は、感情に素直になっていいのです。
我欲でなく透き通った状態であれば、それは心を広げることになるからです。
このように中心点と素直さが大切というのは、他の場面にも当てはまることです。
例えば、自分の知らない話を聞いて、「本当だろうか・・・いや、ダマされないぞ」と思って過ごすよりも
「へぇ~そうなんだ。それは面白い」と思って過ごす方が、彩り豊かな人生となるものです。
前者の不安の根っこにあるものは、ケガをしたくないという思いです。
でも、自分の中心がしっかりしていれば、「騙される」ということはありません。
それは、自分の外に心を置くことによって生まれるものだからです。
損得勘定や我欲の混じった好奇心の場合は、その延長に面白みを感じてしまいます。
ですから、アテが外れて「騙された」ということになるのです。
自分の中心がここにあれば、そもそも面白く感じるものが変わってきます。
最初からアテなど無いので、ハシゴを外されることもありません。
結果がどうかなど気にせず、今を楽しんできたので、既に十分満足です。
なので、実は嘘でした、と言われても「なんだそっか」で終わりです。
そんな心配よりも、日々の輝きを楽しもうとする素直さの方が、得る喜びは大きいのです。
このような素直さを体現した人は、過去に沢山います。
たとえば西郷隆盛は、どのようなことも一切疑わずに信じたといいます。
身の上話を聞いた時には、本人以上に喜んだり、ハラハラ心配したり、ポロポロ泣いたそうです。
そして、あとでそれが嘘だったと知った時も、ガッハッハと笑い飛ばしたそうです。
過去は過去で、その瞬間の自分に素直になっていた。
そして今は、今の自分に素直になっていたということでしょう。
自らを中心として、天地に無限の心を開いていたわけです。
感情豊かなだけでなく、とてつもなく度量が大きく胆も座っていたというのは、それ故でしょう。
そして何も話さなくとも、そばに居るだけで幸せな気持ちになれたといいます。
そういう点では、頭山満翁も同じですし、山岡鉄舟もそうだったと思います。
やはり、お二方とも、相手の話ではなくその相手自身を信じました。
それは、自分を信じていることでもあったわけです。
すべてをそのまま受け入れたのです。
ですから、もしも騙されたもしても、本心から何の後悔もなかったのです。
自分を信じきって相手を信じきった時点で、それはもう終わったことだからです。
その三人とも、自宅には大勢の人たちが集まり、何もせずゴロゴロと長居していたといいます。
どんなくだらない話でも、その声に触れるだけで幸せになれたということでしょう。
また、たとえ会話がなくとも、ただ近くにいるだけで心が安らいだということかもしれません。
そして、この人のためなら死んでもいいと思うのです。
それは理屈ではありません。
損得勘定でもありません。
ひとえに「徳」です。
天地の心に包まれた時、人はホッと優しい心地になります。
それは我執や囚われが取り払われた、生まれながらの素の状態です。
自らも天地に溶け込んでいき、そうして心からの安らぎを覚えるのです。
そしてまた、囚われのない素直な状態にあると、自分のまわりは楽しいことだらけになります。
子どもの頃のそれです。
楽しいことがやってくるのを待つのではなく、自ら楽しもうとするスタンスです。
何の変化もない状況でも、何か楽めないかと、創造力と探究心がフル回転になります。
そこに一石が投じられたらば、何だろう?と好奇心を膨らませます。
そして、ますますワクワク回転です。
そこでもし、意味が理解できなかったとしても、立ち止まることはありません。
納得できなければ楽しむのをやめてしまう、なんて馬鹿なことはありません。
目的はただ、楽しむことです。
「分からないけど面白い」という素直な気持ちです。
しかし大人になると、腑に落ちないと先に進むのはやめようと慎重になっていきます。
その先に楽しいことがあっても、「いや、まずは疑おう」となるのです。
もちろん、その姿勢が必要な場面は数多くあります。
確かに、なんでも手放しで受け入れるのは危険なことです。
ただ、少なくとも遊ぶことに関しては、そのストッパーを外してもいいと思うのです。
楽しむことが目的なのですから、楽しまなければ意味がないのです。
あとでそれが方便だったと分かっても、もう十分楽しんだわけですから、「あ~、騙されたー」と
笑っておしまいです。
そして、本当に素直であれば、そもそも騙されるということは有り得ないのです。
ですから、いちいち疑い深くなるよりも、素直に騙された方が「得」なのです。
遊びというのは、とにかく楽しんだもん勝ちです。
地に足をつけて自分の中心をスッと通したまま心を広げますと、透き通った豊かな感情が
溢れ出てきます。
その感情にフタをする必要はありません。
雑味を無くして心が広がるほどに、天地の温かさに溶けあっていきます。
そして、まわりは優しい心地に包まれていきます。
自分の目の前には、楽しいことがたくさん現われてきます。
今を楽しもうとするほどに、ますます楽しくなっていきます。
そして楽しめば楽しむほど、さらに心は広がり、天地と一つになっていきます。
それが素直さというものです。
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