これでいいのダ

心をラクに生きましょう。どんな日々もオールOKです!

幾万重(いくまんえ)の彩り 2

2016-08-22 15:40:48 | 国を常しえに立てます
日々を過ごしていますと、私たちは、家族、友達、仕事仲間、あるいは嫌いな人など、自分に関わる人ならば誰であっても
必ず心を向けています。

心の向け方というのは、ふんわり優しかったり、冷たかったり、トゲトゲしていたりと様々です。

なにが良い悪いということは今日のところは一先ず置いておいて、そうした頭の判断を抜きにして真っさらに観てみますと、
たとえコンチクショウと思うことがあっても、それよりさらに深いところでは相手に優しい心が向くことに気づきます。

めちゃめちゃ頭にきたり不愉快になったりして、ひとしきり怒ったあと、シーンとした状態からフト、相手をフォローする
ような、言葉にならない想いが中心の方からジンワリと湧き上がってきます。

しかし、無意識に浮かぶその思いに負けまいとして、自我は自分の正義や相手の罪を、先ほどよりさらに激しく並び立てます。
自分は正しい、相手が悪い、と。
ジンワリ浮かんできた感覚を直視することができずに、その何となくバツの悪い感覚というものを消し去ろうとして、理屈を
並べて現実逃避するわけです。

ここでいう「現実」とは、魂の奥から湧き上がる感覚のことです。
内から出てくるその感覚に目を向けまい、見まいとするのは現実逃避であるということです。

自らの正当性と相手の不当性をより一層明らかにしようという作業は、結局はその出来事を何度も思い返す作業となります。
つまり、やればやるほど、不快な気持ちや怒りを増幅させることになってしまいます。

でもそこで、その怒っているのが自分以外の誰かだと思ってみますと瞬時にリセットされます。
しがみついていた状態から離れるからです。

すると、心の底から湧き出るものを冷静に眺めるようになり、先ほどまでは甘さや弱さなどと思っていたそれが、そうでは
なくて自分自身の芯から発せられる純粋なものだと自分は知っていることに気がつきます。
許してはいけない、相手が悪い、というのはただの理屈であり、価値観や信条に照らして脳が創り出すものに過ぎません。
あるいは、怒りの激流にこのまま乗っていたいという我欲でしかないとも言えます。

カリカリしながら頭に血が上っていくうちに大地から足元が離れて行ってしまいますが、「それ、やーめた」と仮初めの
幻像を手離して「今」に戻ってくると、最初から自分は知っていたという感覚になります。
ちょうど夢の中で、何故かすでに全て知っている、あの感覚です。

さて、今日は批判じみた話をするつもりではありません。
表面に現れるような見た目の感情とは違い、誰でも必ず深いところでそれとは違う心が広がっているということを言いたかった
のでした。

ですから、日常の中で「ムカッとなったり悪感情を抱いたりしてはいけない」ということでは無いわけです。
むしろそうやって聖人君子になろうとするのは逆効果にしかなりません。

カーッとなっても構わない。
要はそのあと、最後はどういう状態で終わったかということです。

「いいトコもあるんだけど」「怖がり屋なだけ」「色々ツラいだろな」「そうさせてしまったのは自分にも原因あるかぁ」
など、その時々に応じて色々なものがチラッと脳裏をかすめます。
そうしたものは初発の悪感情などよりも、ずっと深い次元の思いであるわけです。

あとはその湧き出る思いに対して素直になれるかどうかだけのこと。
見ないように無視したり、塗り潰して見えなくするのではなくです。
どちらを選ぶにしても、それらは知らず知らずのうちに条件反射化していきますので、まずは手放し運転はやめた方がいいと
いうことになります。

そして深い部分の心というのは、浅い部分の心も大きく包み込むものです。
つまり、根っこでどう思えるかでオールクリアになるということです。

深いところの心というのは、それだけ表面には現れにくいものとなりますが、もっとも浅いところの心、例えば一時の感情に
任せた怒りなどは表にすぐ現れ、誰の目にも明らかになります。
そして目に見えるものなだけに囚われやすく、しがみ付いてしまいやすいと言うことができます。

本当の心、真(深、芯)の心とは、目に見えない陰となって人知れず包み込んでいきます。

しかし見えるものにしがみ付いてしまうと、雑味の多いドロドロが広がっていきます。
その下にどんなに深い心が広がっていようと、それを覆い尽くしてしまいます。

それを昔の人は穢れと呼びました。

そして、そのドロドロを向けた相手が同じ土俵に居ればドロ相撲の穢し合いになりますし、逆に相手が浅いところに囚われず
澄み切って居たならば、行き場を失った穢れは鏡に反射するようにして自分自身に帰ってきます。
ちょうど一人っきりの密室で不完全燃焼を繰り返すと一酸化炭素中毒になるのと同じです。

その反対に、相手に対してフワリと優しい心を向ければ、もしも相手が雑味のドロドロした状態にあったとしても、それが
スーッと薄まるようにして祓われていくようになります。

逆のケースだと跳ね返されないのは、我執の雑味が粒子の粗いものであるのに対して、天地一体の清らかな空気は粒子の極めて
細かいものであるからです。
より深く、より中心に近いほど粒子が細やかになっていきます。

この世の中というのは、人の数だけ様々な風を波立たさせ、また包み込んでいます。

幾重にも重なる彩りの、より深いところ、自分自身の少しでも芯に近いところまでの風通しが良いかどうかが最後の決め手
になります。


オセロでいえば一番端っこのコマのようなものです。
それまで黒ばかりだったものも全て白にしてしまいますし、逆に白だった全てを黒にしてしまうことにもなります。

そして、その芯が誰よりも澄んでいるが故に、一番に深いところへとそよ風を広げておられるのが天皇陛下であられるわけです。

陛下だけに限らず、神主さんもお坊さんもクリスチャンも、同じように祈りをもって清らかに心を広げています。
幾重に渡って重なる荒波の下には、さらにまた幾重にも渡って清らかな風が折り重なっているのです。

私たちが日常において知らず知らずのうちに発してしまう淀んだ心があったとしても、それよりもわずかでも深いところに
広がる心が必ずあります。

目に見える相手の姿に対して怒りや悲しみを感じたとしても、それよりさらに深いところに広がる心があるということです。

そしてそれは相手に対して広がっているだけでなく、私たちのすぐ足下にも誰かの心が広がっていることに気がつくでしょう。

例えば、皇后陛下が天皇陛下に向ける仕草を見てみると感じることがあります。
明らかにそれと分かるほどに相手をジッと見つめるのではなく、居るのか居ないのか分からぬ淡さで、ただ静かに心を寄り
添わせています。

前者は我(が)というものが醸し出す粒子の粗い愛ですが、後者は天地と質を同じくする澄んだ慈しみの心です。
その心は相手を温かく包み込み、邪気を祓い、健やかに活き活きと生かさせます。

それは妻であり、母であり、天地であり、陽の光であり、陽の御影であり、御先祖様であり、大御祖(おおみおや)であります。

私たちは誰もが慈愛の心を持っています。
そして、私たち自身もまた今この瞬間、誰かの慈愛の心に包まれています。
まずはそのおかげさま、目には見えない影に、感謝の心を向けるのが先決でしょう。

今さらキリスト教的なキラキラした話をしようというわけではありません。
そもそも天地というものがその心に満ちているという話です。
というより、その心が天地そのものであるわけです。
私たちも我執を無くせば自ずとそうなるのは当然の話ではないでしょうか。

大海に両手を差し入れて、頑なにギュッと囲いこんだりしなくとも、その手を広げれば自ずと大海そのものがそこに現れる。
それと同じことです。

慈愛の心と聞くと、マザーテレサや聖母マリアのような途轍もない無償の愛に満ちたものを想像するかもしれませんが、
別にそんな大層なものを想像する必要はありません。
むしろそうしたイメージこそが、価値観やら理想像やら様々な我執を塗り固め、そこへ近づけない障害となってしまいます。
そんなややこしいものでなく、単にいま目の前に広がる天地の自然な姿であるわけですから、特別なものだったり
頑張ったりするものでなく、ごく普通の、ごく自然のものであるに決まっているのです。


それこそが、私たちの中にも、そして私たちのすぐ隣にも、観音菩薩やマリア様がおられるという意味です。

そう成ろうとするものではなく、もともと天地がそういうものであるのです。

誰かに汚れた風を吹き付けられたからといって、自分も同じ風を吹き返してしまうのでは何の意味もありません。

確かに私たちというのは、条件反射的に相手の姿を真似ようとする本能があります。
相手の今いる心に、足元を合わせようとします。
それは相手からしても同じです。
だから鏡の法則というのです。

しかし、もともと私たちがそのようにするのも、神様に始まり、親や先人など、心地よい相手に倣おうとする本能による
ものでもあります。

人というのは、それ自身、幾重にも重なった存在です。
ですから、見た目の分かりやすいところに焦点を合わせるか、それよりも深いところへ焦点を合わせるかで、自然と自分の
心の反応も変わっていきます。

ただ、相手に合わせて自分をチューニングさていくというのではいずれ疲れ果ててしまいます。
それでは自分を律することにしかならないからです。

相手に合わせようというのではなく、自分自身の、より芯に近いところを清らかにしていく。
そのそよ風を全身に感じ、素直に受け入れていく。
それが一番の近道でしょう。
そしてそのようにしていくと自分も自然と深まっていきます。

澄んでいくことと深まることとは同意であるわけです。

目の前で、相手がどのような言動をしていたとしても、自分が深みにあると表面的なことは大して気にならず、相手の深部へ
心が広がっていきます。
そしてそれはそこに合わせこもうとしてるのではなく、自我を離れると、自然に相手の深部が心に映されていくと言うことも
出来ます。

ムカッとしたその裏で「まぁ仕方ないわなぁ」という自然な想いは、それすなわち寛容の心であり、赦しの心であるわけです。
しかしそれが赦そうとする心であった場合は、それは赦しの心ではなく、単に上塗りの心でしかなくなります。

偽善の心、嘘偽りの心というのは、最も我執に満ちたものだと言えます。
赦そうとするのではなく、我知らず「受け入れている」。
その状態が、言うなれば、赦しの心であるということです。

私たちが自然と相手を模倣するものであるならば、為すことは明らかです。

より相手の深みを知る。
相手の芯の部分を映し観る。

そのためには、表面に囚われず、またそのすぐ下に何層にも広がる様々な波風にも目を奪われず、どれだけ透明度を高くして、
自分自身の芯の部分まで風通しを良くできるかです。

そしてそのような状態へは、感覚でもって近づいていくしかありません。

ということは、雰囲気を全身全霊で味わう、そして自らもそれに溶け合うように模倣していくのが近道であるということです。
ですから、天地宇宙に少しでも近いもの、我執が希薄なもの、真善美というものに触れていくのがいいわけです。

「あぁいいなぁ」という感覚を噛み締めてみる。
その感覚に浸かる時、私たちはすでにその次元に居るということです。

心の洗われる人物、風景、作品、そのようなものに心をただ向けるだけで、すでに私たち自身はさらなる深みへと勝手にチュー
ニングされていくということなのです。

本当に単純で簡単な話です。

子供らしく無邪気に、これは気持ちが良いという感覚に全身全霊を預けてしまう。
その皮膚感覚を思い起こす時、私たちは自ずとその心になっているのです。

私たちは、天地や大いなる存在に始まり、すぐ身近な人に至るまで幾万重もの心に護られています。
その目に見えない、お陰様へと心を向けた時、私たちは自然とその深みへと同調していくようになっています。

努力したり頑張ったりするようなことではありません。

私たちというのは、とてもシンプルにできています。
何かに心を向ければ、そのままそれと同じになっていく。
真似ようとする思いは、内から湧き上がる本能であるわけです。

気がつくということ、目を向けるということは、そこへ自分も同化していくことです。

そのようにスッと心を向けたときに、何とは無しに皮膚に伝わってくる感覚があります。
それはつまり心が向くことで、そこへと瞬時に移動して、同じ空気感を肌が感じているということです。

私たちを包み込み、足下に無限と広がる様々なお陰様へ心を向けると、その清らかな次元へ私たち自身もシンクロしていき
ます。
そしてそれは私たち自身の芯の部分へと近づくことでもあります。

様々な御影、様々な御蔭に心を向けてみるだけで、全てが洗われたかのように驚くほどスッキリ軽やかになっていきます。

目に見えない日陰に私たちが光を当てているようにイメージしがちですが、実は御蔭というサラサラと輝く清らかな風に
よって、気づかぬうちに私たちの方が祓われ清らかにされているのでした。

自ら翳らせた暗雲に目を奪われず、その向こうに広がる青空に心を向ける。

たとえ今の空が曇っていても、その上には全天の青空が広がっていることを私たちは知っています。
信じているのではなく、知っています。

そこに広がる輝きとは、天地の心であり、陛下の心であり、両親の心であり、はたまた妻や夫、家族の心であり、隣人の心
であり、そして何よりそれは自分自身の心であるのです。



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