新年度とともに、駅前やオフィス街でフレッシュマンたちの姿を目にするようになりました。
どこか不安げに寄り添い合う彼らの、ニコニコ輝くその笑顔を見ていますと、自分にもあんな時代があったよなぁと、
頭の中に懐メロが流れ始めます。
しかしその一方では「まだ苦労を知らないからなぁ」と爺むさい考えが浮かんできたりもするのでした。
本当は、その時こそが初心忘るべからずの瞬間なのですが、正直そこまで真っさらな透明になるのは無理だろうという
思いの方が強すぎて、どこか空々しく聞こえてしまいます。
私たちは、本能的に、一度築き上げたものは大切に守ろうとします。
それが良い方向に動けば伝統や文化へと繋がっていきますが、自我がまさってしまうと掴んで離すまいとする執着へと
変化してしまいます。
以前、春日大社の権宮司さんがこんなことを仰っていました。
「コップに水を入れて満杯になったら、それ以上水を入れることはできない。
でも、コップが倒れて水がこぼれると、また新しい水を注ぐことができる。」
歳を重ねて経験や知識が増えていくと、知らず知らずのうちにその満たされたコップの中だけで物事を終わらそうと
してしまいます。
コップの中に入れ込む過程で、知らず知らずのうちに曲解することもあります。
そしてそれでも収まりきらないものは、断罪して悪者にしたり、自分の肌に合わないとして、バッサリ斬り捨ててしまい
ます。
もちろん、何十年もかけて作りあげたコップや、少しずつ満たしてきた水というのは、とても大切なものです。
軽視していいものではありません。
ただ、それにこだわりすぎたり、寄りかかりすぎて、他のものを受け入れられなくなるのは、あまりに勿体ない話です。
それでは何の変化も訪れませんし、何の成長もありません。
自分像というものは、それを固めてしまった時点で木彫りの人形と変わらなくなってしまいます。
これが自分だ!と決めつけた瞬間、あとはそれを必死に守る人生になってしまいます。
まるで、重要文化財か何かを、強固な保護ケースにいれて厳重に取り扱うようにです。
私たちがこの世に生まれてきた目的は、平和に生き抜くためではなく、様々な揺らぎに一喜一憂するためです。
何百キロもひたすら一直線に続く平坦な道を安全運転で走ることに何の面白みがあるでしょう。
ドライブというのは、そこにカーブやアップダウンといった変化があるからこそ、オォーと心が声をあげて喜びとなる
のではないでしょうか。
この世というのは、あらゆるものが流動しています。
何一つ、変化しないものはないわけです。
変わり続ける世界、動き続ける世界の中にあって、私たち自身も流れ続けることによって、初めてその風を感じられる
ようになります。
職人にしても、武道にしても、やはりそれまで学んできたものを一度空っぽにしないと新しいことは身につきません。
過去の経験や知識にドップリ浸かっていると、それがフィルターとなって、有りのままの姿が映らなくなります。
おまけに、どこか似たよな部分を見つけてしまうと、推定予測が働いて勝手な全体像が先に出来上がってしまいます。
そこからの微修正という作業が、どれだけ真実を歪ませてしまっているかは当人には分からないわけです。
私たちは、おおよそのゴールや全体像というものを想像しながら先へ進む習慣が身体に染み付いてしまっています。
その方が大ケガのリスクが減るからです。
過去の経験や知識が多ければ多いほど、その勝手な想像は、より強固なものに出来上がってしまいます。
そこから修正をかけて、本来の状態に近づけるには非常な困難が伴います。
何より、これでもう良しと終わらせようとしてしまう自分自身が一番の障壁となるわけです。
分かったつもりになってしまうと、それ以上何も入ってこなくなります。
本当に、ありのままの風が自分を吹き抜けていくには、独りよがりな先取り予測は捨てて、ただ目の前の一歩一歩を確実に
踏みしめていくだけです。
だから、コップの中は空になっている方がいいわけです。
たとえば武道において初心者が白帯を締めるのは、真っさらで透明な状態で教えを受けるという心の現れです。
そもそも道着が白いのも同じ理由からではないかと思います。
そうであればこその「道」であるわけです。
職人の世界でも、弟子にはあれこれと言葉で教えることはせず、ただ見て感じさせますが、それというのも頭から入れると
余計なものが邪魔をしてしまうからです。
見たり感じさせたり、あるいは真似をさせるというのは、先取りなどが無い、まさに「今」の一歩一歩そのものです。
そしてここでいう余計なものとは、経験や知識であり、それらに囚われる自我のことです。
前者は水に、後者はコップに置き換えることができます。
私たちがコップに水が張られていないと不安になるのは、空のままでは劣った状態、弱い状態だと思い込んでいるからです。
でも、そんなものは自我同士の幻想に過ぎません。
コップはコップのままで、天地からそのまま受け入れられています。
水が入ってようが入っていまいが、コップはコップです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
コップとして存在していることが全てなのです。
子どもにせよ新入社員にせよ、実際のところ経験も知識もわずかであるため、コップの水が少ない状態を当たり前に受け
入れています。
だからこその真っさらな瞳であり、有りのままの風であるわけです。
私たちも、自我の執着に付き合わなければ、たちまち彼らと同じようになります。
これまで一滴一滴ためてきた水というのは、それはそれ。
ゴミ扱いすることはないにせよ、それはそれとして感謝とともにサーッと手放していけば、コップは空に近づいていきます。
ただ、それがなかなかできない。
だからこそ、そういう時のために私たちは、自分で自分のイベントを用意します。
冒頭にも紹介しましたが春日の権宮司は、コップが倒れれば水が無くなると仰いました。
私たちの人生は、山あり谷あり、悪路ありのドキドキわくわくの爆走オフロードです。
小石を踏んで軽くバウンドした時には、コップから少しだけ水がこぼれ出ます。
その分だけ私たちは謙虚になり、真っさらな状態に近づきます。
そしてその分だけ、新たな事柄が新鮮な一滴となって注がれることになるのです。
大きめの石をガツンと踏んだ時には、強烈な衝撃により沢山の水がこぼれてしまいますが、それだけ物事を素直に受け
入れることが出来るようになるわけです。
そうした小石や岩によってドカンと揺れ動く様を、私たちはハプニングと呼んだり、失敗や挫折と呼んだりします。
しかし、そうしたものは明らかに私たちにとって良い方向へと繋がっているのです。
自信や名声、そうしたものが損なわれた時に落ち込むのは当然のことですが、逆にそれらが今まで水を逃さまいと押さえ
つけてきた張本人であることもあります。
そして、失われたよりも遥かに大きなものを私たちは得られるのです。
さらには、壁や岩に激しくぶつかって、水がこぼれるだけにとどまらず、コップそのものが粉々に砕けてしまうことも
あります。
これまで必死に作り上げてきた自分像、デコレーションしてきた自我、そうしたものが粉々に消え去った時というのは
まるで自分というものがすべて失われたように感じるかもしれません。
それまで当たり前にあった実体が無くなった感覚。
死に物狂いに掴み続けたものが煙のようにスッと無くなってしまった喪失感に呆然としてしまいます。
失敗や挫折に打ちひしがれたり、ストレスから心を壊す。
それは本当にツラく、厳しく、死にたいほどの苦しさでしょう。
しかし、コップすらも壊れた状態というのは、生まれたままの真っさらな状態のことでもあります。
それは天地宇宙と分け隔てのないツーツーの状態ということです。
今までの水をすべて失ってしまった、それどころか新たな水をためることすら出来ないという、そのことは悲観する以上に、
まさにあらゆる物事を有りのままに受け入れる天地そのものと一つにあると言えるわけです。
過去の水が無いということは、過去に縛られないということ。
ためることができないということは、先取りの予測を起こす材料が無いということ、つまり未来の不安に心奪われたりは
しないということです。
水もコップも無い状態とは、過去も未来もなく、常に、目の前の「今」だけしか無い状態であるわけです。
私たち人間は、もとより分かってるようで何も分かっていません。
それは決して謙遜だったり卑下しろという意味ではなく、そもそもの私たちは全てを分かっている状態だったところを、
わざわざ狙って、何も分からず何も知らない状態になったということです。
この世に何をしに来ているのかを思い返せば、今みたいにコップを満たして肩肘を張ったり背伸びをしたりしているのが
いかにバカバカしいことか分かってくると思います。
ましてや、足元では背伸びを捨てきれないでいるくせに、それでいて「謙遜にならなくてはいけない!」と優等生ぶって
上半身だけ身をかがめている姿が、本当に何をやってるんだか訳が分からんというのも、よく分かるはずです。
そんな回りくどいことなどしなくてもイイのです。
卑下するとか、優等生になろうとするとか、背伸びをするとか、そういうことをするまでもなく、最初っから私たちは
「何も分かっていない」のです。
そうなることを願ってココに来ているのです。
何も知らない、何も分かっていない。
だからこそハラハラドキドキしながら、ワクワクの方がそれを上まわる。
私たちは、今この時から、そのように成れます。
何故なら、この世に生まれてきたというのはそういうことだからです。
この世に存在しているというのは、そういうことなのです。
それこそが本当の「初心忘るべからず」です。
何も知らない、何も分かっていないことを隠すなどナンセンスということです。
少しばかり歳を食ったり、役職があがったり、段位が上がったりしたところで、中身は何も変わってなど居ません。
あとはギュッと掴んだ手を緩めるかどうかだけのことです。
この世に生まれてきた初心を思い返せば、入社したての気持ち、白帯の頃の心に戻ることなど他愛もないことではない
でしょうか。
明日にはまた、緊張の面持ちでその目を輝かせるフレッシュマンたちをあちこち見かけることでしょう。
でもその初々しさ、その輝きというのは、他人事などではなく、まさしく私たち自身の姿であるのです。
大きな、大きな、初心忘るべからず。
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どこか不安げに寄り添い合う彼らの、ニコニコ輝くその笑顔を見ていますと、自分にもあんな時代があったよなぁと、
頭の中に懐メロが流れ始めます。
しかしその一方では「まだ苦労を知らないからなぁ」と爺むさい考えが浮かんできたりもするのでした。
本当は、その時こそが初心忘るべからずの瞬間なのですが、正直そこまで真っさらな透明になるのは無理だろうという
思いの方が強すぎて、どこか空々しく聞こえてしまいます。
私たちは、本能的に、一度築き上げたものは大切に守ろうとします。
それが良い方向に動けば伝統や文化へと繋がっていきますが、自我がまさってしまうと掴んで離すまいとする執着へと
変化してしまいます。
以前、春日大社の権宮司さんがこんなことを仰っていました。
「コップに水を入れて満杯になったら、それ以上水を入れることはできない。
でも、コップが倒れて水がこぼれると、また新しい水を注ぐことができる。」
歳を重ねて経験や知識が増えていくと、知らず知らずのうちにその満たされたコップの中だけで物事を終わらそうと
してしまいます。
コップの中に入れ込む過程で、知らず知らずのうちに曲解することもあります。
そしてそれでも収まりきらないものは、断罪して悪者にしたり、自分の肌に合わないとして、バッサリ斬り捨ててしまい
ます。
もちろん、何十年もかけて作りあげたコップや、少しずつ満たしてきた水というのは、とても大切なものです。
軽視していいものではありません。
ただ、それにこだわりすぎたり、寄りかかりすぎて、他のものを受け入れられなくなるのは、あまりに勿体ない話です。
それでは何の変化も訪れませんし、何の成長もありません。
自分像というものは、それを固めてしまった時点で木彫りの人形と変わらなくなってしまいます。
これが自分だ!と決めつけた瞬間、あとはそれを必死に守る人生になってしまいます。
まるで、重要文化財か何かを、強固な保護ケースにいれて厳重に取り扱うようにです。
私たちがこの世に生まれてきた目的は、平和に生き抜くためではなく、様々な揺らぎに一喜一憂するためです。
何百キロもひたすら一直線に続く平坦な道を安全運転で走ることに何の面白みがあるでしょう。
ドライブというのは、そこにカーブやアップダウンといった変化があるからこそ、オォーと心が声をあげて喜びとなる
のではないでしょうか。
この世というのは、あらゆるものが流動しています。
何一つ、変化しないものはないわけです。
変わり続ける世界、動き続ける世界の中にあって、私たち自身も流れ続けることによって、初めてその風を感じられる
ようになります。
職人にしても、武道にしても、やはりそれまで学んできたものを一度空っぽにしないと新しいことは身につきません。
過去の経験や知識にドップリ浸かっていると、それがフィルターとなって、有りのままの姿が映らなくなります。
おまけに、どこか似たよな部分を見つけてしまうと、推定予測が働いて勝手な全体像が先に出来上がってしまいます。
そこからの微修正という作業が、どれだけ真実を歪ませてしまっているかは当人には分からないわけです。
私たちは、おおよそのゴールや全体像というものを想像しながら先へ進む習慣が身体に染み付いてしまっています。
その方が大ケガのリスクが減るからです。
過去の経験や知識が多ければ多いほど、その勝手な想像は、より強固なものに出来上がってしまいます。
そこから修正をかけて、本来の状態に近づけるには非常な困難が伴います。
何より、これでもう良しと終わらせようとしてしまう自分自身が一番の障壁となるわけです。
分かったつもりになってしまうと、それ以上何も入ってこなくなります。
本当に、ありのままの風が自分を吹き抜けていくには、独りよがりな先取り予測は捨てて、ただ目の前の一歩一歩を確実に
踏みしめていくだけです。
だから、コップの中は空になっている方がいいわけです。
たとえば武道において初心者が白帯を締めるのは、真っさらで透明な状態で教えを受けるという心の現れです。
そもそも道着が白いのも同じ理由からではないかと思います。
そうであればこその「道」であるわけです。
職人の世界でも、弟子にはあれこれと言葉で教えることはせず、ただ見て感じさせますが、それというのも頭から入れると
余計なものが邪魔をしてしまうからです。
見たり感じさせたり、あるいは真似をさせるというのは、先取りなどが無い、まさに「今」の一歩一歩そのものです。
そしてここでいう余計なものとは、経験や知識であり、それらに囚われる自我のことです。
前者は水に、後者はコップに置き換えることができます。
私たちがコップに水が張られていないと不安になるのは、空のままでは劣った状態、弱い状態だと思い込んでいるからです。
でも、そんなものは自我同士の幻想に過ぎません。
コップはコップのままで、天地からそのまま受け入れられています。
水が入ってようが入っていまいが、コップはコップです。
それ以上でもそれ以下でもありません。
コップとして存在していることが全てなのです。
子どもにせよ新入社員にせよ、実際のところ経験も知識もわずかであるため、コップの水が少ない状態を当たり前に受け
入れています。
だからこその真っさらな瞳であり、有りのままの風であるわけです。
私たちも、自我の執着に付き合わなければ、たちまち彼らと同じようになります。
これまで一滴一滴ためてきた水というのは、それはそれ。
ゴミ扱いすることはないにせよ、それはそれとして感謝とともにサーッと手放していけば、コップは空に近づいていきます。
ただ、それがなかなかできない。
だからこそ、そういう時のために私たちは、自分で自分のイベントを用意します。
冒頭にも紹介しましたが春日の権宮司は、コップが倒れれば水が無くなると仰いました。
私たちの人生は、山あり谷あり、悪路ありのドキドキわくわくの爆走オフロードです。
小石を踏んで軽くバウンドした時には、コップから少しだけ水がこぼれ出ます。
その分だけ私たちは謙虚になり、真っさらな状態に近づきます。
そしてその分だけ、新たな事柄が新鮮な一滴となって注がれることになるのです。
大きめの石をガツンと踏んだ時には、強烈な衝撃により沢山の水がこぼれてしまいますが、それだけ物事を素直に受け
入れることが出来るようになるわけです。
そうした小石や岩によってドカンと揺れ動く様を、私たちはハプニングと呼んだり、失敗や挫折と呼んだりします。
しかし、そうしたものは明らかに私たちにとって良い方向へと繋がっているのです。
自信や名声、そうしたものが損なわれた時に落ち込むのは当然のことですが、逆にそれらが今まで水を逃さまいと押さえ
つけてきた張本人であることもあります。
そして、失われたよりも遥かに大きなものを私たちは得られるのです。
さらには、壁や岩に激しくぶつかって、水がこぼれるだけにとどまらず、コップそのものが粉々に砕けてしまうことも
あります。
これまで必死に作り上げてきた自分像、デコレーションしてきた自我、そうしたものが粉々に消え去った時というのは
まるで自分というものがすべて失われたように感じるかもしれません。
それまで当たり前にあった実体が無くなった感覚。
死に物狂いに掴み続けたものが煙のようにスッと無くなってしまった喪失感に呆然としてしまいます。
失敗や挫折に打ちひしがれたり、ストレスから心を壊す。
それは本当にツラく、厳しく、死にたいほどの苦しさでしょう。
しかし、コップすらも壊れた状態というのは、生まれたままの真っさらな状態のことでもあります。
それは天地宇宙と分け隔てのないツーツーの状態ということです。
今までの水をすべて失ってしまった、それどころか新たな水をためることすら出来ないという、そのことは悲観する以上に、
まさにあらゆる物事を有りのままに受け入れる天地そのものと一つにあると言えるわけです。
過去の水が無いということは、過去に縛られないということ。
ためることができないということは、先取りの予測を起こす材料が無いということ、つまり未来の不安に心奪われたりは
しないということです。
水もコップも無い状態とは、過去も未来もなく、常に、目の前の「今」だけしか無い状態であるわけです。
私たち人間は、もとより分かってるようで何も分かっていません。
それは決して謙遜だったり卑下しろという意味ではなく、そもそもの私たちは全てを分かっている状態だったところを、
わざわざ狙って、何も分からず何も知らない状態になったということです。
この世に何をしに来ているのかを思い返せば、今みたいにコップを満たして肩肘を張ったり背伸びをしたりしているのが
いかにバカバカしいことか分かってくると思います。
ましてや、足元では背伸びを捨てきれないでいるくせに、それでいて「謙遜にならなくてはいけない!」と優等生ぶって
上半身だけ身をかがめている姿が、本当に何をやってるんだか訳が分からんというのも、よく分かるはずです。
そんな回りくどいことなどしなくてもイイのです。
卑下するとか、優等生になろうとするとか、背伸びをするとか、そういうことをするまでもなく、最初っから私たちは
「何も分かっていない」のです。
そうなることを願ってココに来ているのです。
何も知らない、何も分かっていない。
だからこそハラハラドキドキしながら、ワクワクの方がそれを上まわる。
私たちは、今この時から、そのように成れます。
何故なら、この世に生まれてきたというのはそういうことだからです。
この世に存在しているというのは、そういうことなのです。
それこそが本当の「初心忘るべからず」です。
何も知らない、何も分かっていないことを隠すなどナンセンスということです。
少しばかり歳を食ったり、役職があがったり、段位が上がったりしたところで、中身は何も変わってなど居ません。
あとはギュッと掴んだ手を緩めるかどうかだけのことです。
この世に生まれてきた初心を思い返せば、入社したての気持ち、白帯の頃の心に戻ることなど他愛もないことではない
でしょうか。
明日にはまた、緊張の面持ちでその目を輝かせるフレッシュマンたちをあちこち見かけることでしょう。
でもその初々しさ、その輝きというのは、他人事などではなく、まさしく私たち自身の姿であるのです。
大きな、大きな、初心忘るべからず。
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