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大御心の御影に護られて

2016-08-09 23:18:20 | 国を常しえに立てます
天皇陛下の御公務と聞くと、例えば地方の式典に参列されるとか、国賓を晩餐会にお招きするとか、山のように積まれた
公布文書に御璽(印鑑)を押印されるとか、そういうイメージばかり頭に浮かぶのではないかと思います。

これは「開かれた皇室」と称して、ことさらそのような場面しか映像に流さないマスコミのせいとも言えますし、そもそも
天皇という存在が私たち日本人にとっていかなるものか明確に教えようとしなかった学校や親の責任とも言えます。
さらには憲法にある「象徴」という抽象的な表現が、私たちの思考を曖昧なものにさせてしまっていると言うことも出来ます。

しかし一番の原因は、私たち自身が努力を怠っていたということに尽きるかもしれません。

たとえば私たちは、何か情報が隠されるとすぐに、知る権利に反するとか民主的でないとか騒ぎ立てますが、真の民主主義
あるいは自由というのは、他の誰かから情報を無限に与えられることを指すのではなくて、私たち自身が自ら知ろうとして
前へ歩み出すことがあって成立するものです。
民主主義というのは、自立した人間が居ることによって初めて成り立つ言葉であるということです。
その場に居座ってただ口を開けて待っているのは、自由主義でも民主主義でも無いわけです。

「天皇という存在は国民にとって何であるか」「象徴とは何なのか」は、私たちが自ら知ろうと決意すればすぐに分かる
ことです。
マスコミからの受け売りでなく、陛下が常日ごろ何をなされているのかを正確に知るだけで、その問いはすぐさま解決します。

それだからこそ、陛下は、先日のお気持ちご表明においても『天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求める
とともに…』と仰られたのです。

それにしても、生涯、柔らかな表現しか口にされなかった天皇陛下がまさかこれほどまでハッキリと強い表現を私たち国民に
向けるとは思いもしませんでした。
それほど、私たちは、宮中の人間も含めて皆、天皇という象徴の立場を理解していない。理解しようとしていない。
分かったような気になっているか、深い関心を持たずに思考を放棄しているということではないかと思うのです。

そして現行憲法下では「象徴」という単語しか使えないがゆえに、あえてその抽象的な単語を使うことによって「では
象徴とは何なのか?」と問いかけ、私たちの寝ボケまなこを覚まそうとされたのではないでしょうか。

あらためて天皇陛下の御公務に心を向けますと、冒頭あげた事務的なもの以外に、宮中祭祀というものがあります。

これを、昔から続くただの伝統に過ぎないと見るのは、あまりにも思慮の浅い、乏しい感性と言わざるを得ません。
たかだか数百年の文明社会と違って、その遥か昔から続く繁栄という事実が、祭祀の真価を実証していると言えます。
それらは、当たり前に続いたわけではないということです。
ましてや、感性が研ぎ澄まされていくほどに祭祀の大切さというものは疑いようのない真実として肌から芯へと染み渡って
いくものです。

天皇陛下は、この国の平和と国民の安寧、ただそれだけを祈っておられます。

新嘗祭ひとつ取っても、ただ祈るだけではなく、深夜に至るまで長時間の正座でそれをなされるというのはどれほど御辛い
ものでしょうか。
それが単なる伝統や儀式であれば、長い歴史の中で何百年も前に簡略化されていたことでしょう。
真面目さや義務感だけでは何千年も続けられるものではありません。
それをやることの真価、肌感があり、またひたすらに国民のことを思えばこそ、体力を越えた祈りを可能ならしめたのでは
ないかと思えてなりません。

それを単なる形式としか考えず、代役を立てればいい、簡素化すればいい、というのは祭祀の何たるかを何も分かっていない。
天皇という存在の何たるかも全く分かっていないということになってしまいます。

この度の天皇陛下のお気持ち御表明に先立ち、周囲の人たちは、「これまでのなさりようを国民は知っています。代役を
立てて形だけの天皇となっても異を唱える者はいません」と言って、譲位という考えに関して翻意を促したそうですが、
陛下は「そうじゃない」「違うんだ」と絞り出すように仰られたそうです。
もちろん周りの方たちは、陛下の真面目なお人柄を思い、またその身を案じてそのように仰られたのでしょう。
しかし、代役という発想の時点で、そもそもの祭祀の意味や天皇の意味を根本から履き違えてしまっていると言わざるを
得ないわけです。

もとのもとの話を少し振り返りたいと思います。

天皇がまさしく天皇になるのは、大嘗祭(だいじょうさい)だと言われます。
大嘗祭というのは、天皇に即位してから初めて行なう新嘗祭(にいなめさい)のことを言います。

ちなみに新嘗祭というのは、その年の新穀を天(神)に捧げ、その供物を天皇陛下が召し上がる祭儀です。
つまり、天と一つとなる行為であるわけです。

前回にも書きましたように、この世とあちらとは境目なく本来「今ここ」において一つのものですが、その粗さが異なるために
私たちにとってはズレたようになっています。
そのため、その狭間やあちら寄りに居ますと、この世のものは食せなくなります。

しかし、天に捧げたものや精進潔斎したものはあちらのものになりますので、自らがあちら寄りに行って居てもその供物は
食すことができるわけです。(精神論ではなくて、物理的な話です)

それは言い方を変えれば、あちらの食べ物を口にすることによって、自らもあちらと一つになるということでもあります。

さらにこのことを違う形で表現しているのが、古事記の黄泉比良坂のくだりです。
黄泉の国(あの世)のものを食べたイザナミはこの世に戻れなくなったというのは、次元の異なるものに触れるとシンクロ
することを暗示していると言えるでしょう。

さて、新嘗祭というものがそうであるように、大嘗祭というのは、人間である天皇が、天皇霊ともいえる天の心(波動)と
一つになるための現実的なプロセスと言うことができるかもしれません。
単なる伝統行事や儀式、形式ではありません。
これ以上ないほど現実的なものです。

ですから、御簾内に入られる前の天皇陛下はまだこの世の存在であられますが、直会を終わられて出てこられた天皇陛下は
あちらとこちらの両方を共に預かる存在であられます。
それは言葉を変えれば、あちらとこちらを繋ぐ柱そのものということになります。

それを表すものの一つに、伊勢神宮の「心の御柱」(しんのみはしら)があります。
この御正殿の中央床下に立てられた御柱は、天皇陛下の御身長と同じ高さとされています。
つまり、天皇の化身を依り代として、天と地、神世とこの世を繋いでいるわけです。

天皇という存在は、まさしく御柱、身柱(みはしら)であられるということです。

神社に立てられた御柱と同じく、その存在そのものが天地を繋ぐ身柱であられます。

天皇陛下が宮中祭祀で国家や国民の幸せを祈るというのはそういうことです。
さらには、陛下がこの国土の隅々まで行幸されて祈りを置いて来られるというのは、自らが心の御柱となりて、その土地と
人々を、天の尊き、優しき大御心で包み込むこと、お護りになられることに他ならないということです。


天皇陛下は、昨日のお気持ち御表明に際して「祈り」という表現をされましたが、それは祭祀と同意のものです。
本来の祀り(まつり)というのは、祈りに他ならないからです。
そこには宗教色など微塵もありません。
人間の価値観や自我の入る余地などないのです。

ですから、この国土の様々な場所で、人々に対して、またその土地土地に対して祈りを捧げる行為というのは、それが
そのまま祭祀であらせられるのです。
単なる小旅行や式典参加などではなく、自らが御柱となってその土地その住民を祓われている。
宮中の神殿だけでなく、全国各地津々浦々にまで自ら赴いて、祭祀を行われているということです。

そのことを胸に、ご表明の一節を今一度振り返ってみます。


『私が天皇の位についてからほぼ28年、この間(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と
共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、
同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えました。』



『これまで私が皇后と共に行なって来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に
支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈る
という務めを、人々の深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。』



ご高齢な御身での過密スケジュール。
その合間を縫っての長距離移動というものがどれほど過酷なものであるのか想像にかたくありません。
にも関わらず、ただひたすらに私たちの身を思い、全国各地へ祈りを置いてまわられているのです。


『次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが難しくなる
のではないかと案じています。』



今や、この全身全霊という言葉が、心の奥底まで染み入ることかと思います。
そしてここにおいてなお、そこまでのことが出来なくなってしまうことを苦慮されている。
何という勿体なさ、申し訳なさ。
慈愛などというにはあまりにも言葉が足りなさすぎます。
大御心(おおみごごろ)とは、まさしくこのことではないでしょうか。

象徴の務めとは、天と同じ心、天そのものとなって初めて成立する。
そのためにこそ、大嘗祭によって天と地と重なり合うことによって「しんのみはしら」になられる。
芯の天皇となられる。
そうしたことを経て、天皇という存在がその務めを果たさなければいけないという強い実感に至られたのではないでしょうか。
代役はおろか、摂政でも駄目なのです。
天皇はたとえどのような身になろうとも「天皇」であられることに変わることはないのです。

未成年や重病などにより、象徴としての行為を果たし得なくなって摂政を置いたとしても、『その立場に求められる務め
を果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。』というのはそういうことを
お示しになられているのではないかと思います。

倒れようが寝たきりになろうが、あるいは若年であろうが、ひとたび天地と一つになった天皇は「天皇」であり続ける。
地位としての天皇ではなく、「しんのみはしら」としての「天皇」です。
そして象徴としての行為は、何処まで行っても「天皇」にしか出来ない。
逆を言えば、「天皇」がされることにより初めてそれが「象徴の行為」と成る。
他の何者かが同じことをやっても、それは単なる儀式や形式にしかならない。
倒れて動けなくとも、それが出来るのは「天皇」しか居ない。
もしも天皇がそれを出来ないのであれば、摂政ではなくやはり「天皇」を立てるしかない。
そういうことを仰せなのではないでしょうか。


『天皇が象徴であるとともに、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への
理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。』



それぞれが我を張って断絶を作るのではなく、その壁を取り払って大きな一つになる。
「統合」とはそういうことです。

そして、そうした濁りや壁を祓い清めるお務めをされてきたのが天皇陛下であったわけです。
それは上からの押し付けなどではなく、まさしく、親が子を思うような優しく温かい眼差しそのものでありました。

私たちが全く知らない、見えてもいない、その陰で、このような大きな御心が私たちを大きく包み込んでいました。
翼を広げて激しい風から雛を守る親鳥のように、その大いなる影のもとに私たちは護られてきました。

私たちが生きてきたこれまでの間ずっと、天皇陛下、皇后陛下のそのような大きな大きな御心が注がれ続けていたわけです。
もちろん、そのようなことを微塵も出されることなく、ただ微笑みながら静かに寄り添って。

もはや言葉になりません。

そこまでの大御親心に対して、私たちはいったい何が出来るのでしょうか。

この気持ちを表すならば、まさしく地に額を着けるほどにして感謝を捧げたくなるほどです。
それは上だ下だというつまらない価値判断などでなく、思いを純粋に表すならば自然とそのような形になってしまうということです。

ただ、今ここで言っているのはそのような刹那的な発散のことではなく、この私たちの張り裂けそうな思いを昇華させるすべが
何なのかです。

それは、その大御心のわずか少しでも倣らって実行することなのではないかと思います。

つまり、人々が互いに我欲を払い、壁を無くして一つになるということではないかと思うのです。

そのためにすることとは、先ほどの陛下のお言葉にある通りです。
つまり、国民が天皇の理解を深めるとともに、天皇ご自身も私たち国民への理解を深め、共にある自覚を自らの内に育てる、
それによって一つになるというくだりです。

天皇陛下はすべて自らお手本を示されています。

私たち国民もお互いの理解に務め、お互いが共にあるという自覚を自らの内に育てるというのが国民統合への道であるわけです。

ただそれをバラバラにやっているのでは、小さな輪(和)にしか成らないかもしれません。
それが天皇という象徴へ皆の心がフォーカスし、同時にまた天皇という象徴がその膨大な数の私たちへ同じく心を向ける
ことにより、大きな輪(和)が生み出されます。

あたかも、天が私たち全てを光で照らすかの如くに。
そしてその光とは、私たち一人一人が天へ向けた心が、天によって照り返されたものでもあります。
すなわち「しんのみはしら」は「かがみ」そのものということになります。

天照大御神は邇邇芸命に鏡を渡し、“それを私と思え”と仰られました。

この日本は天照大御神の護りし国です。
そして、天皇陛下とは天照大御神の末裔であられるわけです。

その御影、その御蔭により、私たち国民は一つの心へ統合されているということです。
今はただ静かに感謝の想いを捧げるのみです。


そして最後に。
こうした感謝の心とは、私たちの内から輝く天照大御神の光に他ならないということも付け加えさせて頂きます。

御身お一人だけが神一重なのではなく、誰しもがみな同じものを内在しているということです。
だからこそ、天皇陛下と国民とが大きな一つと成れるわけです。

それはつまり、私たちも様々な土地、様々な人々に触れて、心を共にすることで一つになることができる、互いに濁りを
晴らすことができるということを意味しています。

生きとし生けるものは、その親の為すことを真似ながら成長し、それをまた次の代へと紡いでいきます。

私たちもまた、大御心に触れて、その為される姿を倣って、自らを鏡として互いに心を向け合い、我執を祓って、断絶を
排し、心和やかに重なり合わさることが、私たちの安寧とこの国の弥栄へと繋がっていくことでしょう。

それこそは大御祖(おおみおや)の喜ぶところとなり、まさしくこれまでの大恩に報いることになるのではないでしょうか。




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(追記)
隣国が、台風を理由に尖閣へと避難占領することを画策しています。
オリンピックに浮かれているこの時期を狙い、今この時も、400隻を越える大量の漁船を尖閣の境界水域ギリギリの位置
に固めています。

そのような隣国です。
万が一にも陛下に何かがあった時に、相手に魔をささせるような隙を見せてはいけません。
当然そうしたことも含まれての、ご決心であられたということでしょう。

今の平穏というのは、たまたま成立しているものではありません。
目には見えない数多くの御蔭さまによって成されたものです。

これからもその当たり前が未来永劫続くようにというのが、国家の安泰を祈るということです。

祈りは、禊ぎとなり祓いとなります。

日本に来た観光客や外人が感じる、この国独特の一体感というものは、自然発生的に醸成されたものでないのです。





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