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強さと優しさ

2015-03-29 20:18:40 | 心をラクに
強さと優しさは、表裏一体のものです。
どちらか一方が欠けるということはありません。

強さとは厳しさでもあり、優しさは寛容さでもあります。
優しさと厳しさとは相反する言葉のように聞こえますが、優しさは時として厳しさにもなります。

相手を受け入れるというのは、私心が無い状態です。
ですから我欲のある寛容さというのでは、見せかけのものでしかありません。
我欲から生じる寛容さとは、自分の守りたいもの、たとえば信条や他人からの評価といったものとの比較によって支えられるため、我慢の
限界を超えると途端に霧散してしまいます。

しかし天地のように私心がなければ、限界はなくなり、全てをそのままに受け入れます。
価値観や固定観念で善し悪しを判断せず、ただ相手の芯の部分を見ているからです。

そしてそうであればこそ、それは厳しさと表裏一体となります。
芯の部分だけを観るわけですから、言動や心癖といった表面的なものに対しては睨みを利かせることになります。

手を出すのではなく睨みを利かせることで、見透かされた相手の芯の部分は、自分で自分を律するのです。

洗いざらいバレてしまい、逃げることもできないため、物凄い恐ろしさを感じます。

しかしその厳しさというのは、相手の芯の部分を100%受け入れていることに変わりはありません。
天地の心は、裏表を引っくり返して態度を変えたわけではなく、常に同じままであり続けています。

睨みを利かすというのは、グッと心を変えるようなものではなく、優しさと同じように相手の芯の部分を丸裸で見守っているだけです。
ただ、それが私たちにとっては、見透かされた怖さであり厳しさに感じるということです。

それを厳しいと感じるのは、見逃してもらいたい甘えがどこかにあると言うこともできます。
甘えというものは、我執から生じます。
ですから、なおさらにその天地の眼差しが睨みに感じられて、逃げることができなくなるのです。

これを昔の人は「お天道様が見ている」といいました。

天ではなく、天道と言うところがミソだと思います。
天道とは太陽の通る道のことなのですが、お日さまではなくわざわざお天道様と言うところがふるってます。

天の道というと、やはり神ながらの道という言葉を思い浮かべます。
神ながらの道とは天地と一体となる道ですから、天道にしましても、天地一体たる自分の芯の部分が自分を見ている、という意味が含まれて
いるように感じます。

“何者かは分からないが、全てを見透かしている存在がいますよ”という意味ですから、結局それは天地であり、自分自身であるということ
ではないかと思います。

さてそんなお天道様は見逃してくれないようなものでも、我欲ある寛容さだと、大目に見てしまったりするものです。
相手を傷つけてしまわないようにとか、相手に嫌われたくないとか思ってしまうのはよくある話です。

しかし天地には、もちろん嫌われるとか傷つけてしまうというような我欲はありません。
ただ、相手の芯の部分に、変わらない心を向けています。

何かを失うという不安は一切ありません。
私心のない状態とは、まさしく天地と一体の状態であり、心御柱が中心に打ち立てられた状態です。

それは、押すことも引くこともなく、一切ブレない絶対的な強さです。
全く雑味のない状態とは、寛容さであり、強さでもあるのです。

母はいつもニコニコ優しいだけではありません。
子が過ちを犯す時は、我が身を忘れて真剣に叱ります。
我欲のない透明な心は、私たちの芯の部分にダイレクトに届きます。
それは命の声です。
天地と一つゆえの、揺るぎない強さです。

優しさも厳しさも全く同じものです。
心が透明になるほどに、それらはどちらも等しく現れてきます。

ですから優しさにせよ厳しさにせよ、それが沸々と湧いてきた時にそれを出すまいと自制して押えこもうとするのは、逆に心を濁らせることに
なってしまいます。
ここでの話は、男らしさ、女らしさ、自分らしさ、という固定観念や価値観の弊害のことを言っています。

優しさと厳しさとは、母性と父性の象徴です。

日本は天照様の国。母なる国です。
優しい日差しと、包むような温かさに溢れる国です。
しかし、そこには単なる母性だけでなく、強く厳しい父性もあります。
それはまさに大自然が私たちに見せる姿そのものです。

天照様もいざという時には、武装をして男勝りの一面を見せました。
大日如来も憤怒のお不動様に変化(へんげ)します。
それらは決して豹変したということではなく、もともと一つのものなのです。

この世は、すべて陰陽のバランスで成り立っています。
どちらか一方ということはありません。
天地宇宙は最初から、そのバランスにより成り立っています。
片方だけでは、均衡が取れないからです。

どちらも存在しているからこそ、中心が定まります。
天地はあらゆるバランスで成り立っています。
私たちの世界でアンバランスが現われるのは、そこに我執が入ってしまうからです。

だからといって、意識的にバランスを取ろうとすると余計に我執が入りこんでしまい、さらにバランスを崩してしまいます。

たとえば、片足立ち一つとっても、何も考えずにやればバランスを崩しませんが、バランスを取ろうと考えながら片足を上げるとグラグラ
揺れてしまいます。
また、何も考えずにいれば階段も自然にあがれますが、片足ずつバランスを崩さないようにしようと考えながら足をあげるとギクシャク
するものです。

バランスというのは、放っとけば自然に均衡するものなのです。
しかしそこに我執が入るとたちまち崩れてしまう。

陰陽も同じです。
この世に光と影があるのは、理由も何もありません。
それが自然だからです。

影を忌み嫌ったり光だけを見ようとするのはもちろん我執そのものです。
といって「影が無ければ光も存在しない、だから影も大事だ」という屁理屈もまた我執でしかありません。

光は良いものだとするレッテル貼りの心癖が残ったままでは、本当の理解には程遠いのです。
そうした囚われや思い込みの我執こそが、自然本来のバランスを崩してしまいます。

思いを手放してそのままを受け入れれば、自ずと一点で均衡していきます。

あるいはまた、ジェンダーフリーのような平等観念なども我執でしかありません。
それは上っ面の部分だけしか見ていないからです。
表面の見た目だけのバランスを均衡させようとするのは、浅はかな人間考えです。

本来、母性と父性のバランスを保たせるのは、表と裏のバランスのことなのです。

つまり、男は「父性を表に、母性を裏に」。
一方、女は「母性を表に、父性を裏に」です。


そうすることで表であるこの世でも、男(父性)と女(母性)という陰陽のバランスが取れるのです。
表だけで男女を同じものにしようとするジェンダーフリーは、天地の理に反する歪んだエゴでしか
ありません。

男が威張っているとか、女が虐げられているとかいうのは、本当に弱い人間がやることです。
それは上っ面でしかありません。

表と裏では逆転しているのがこの世の真相です。

男性は普段は強がっていますが、いざとなるとロマンチストですし弱虫です。
女性は普段はか弱いですが、いざとなると肝が座っていますし、男の尻を叩いてドーンと大きく
構えています。

つまり表と裏の役割が逆転しているわけです。

だから表では、男性が強くあって女性を守り、女性は優しくあって男性を受け止めます。
そして裏では、女性が強くあって男性を守り、男性は優しくあって女性を受け止めるのです。


まさに、女性の手のひらの上で男性が汗かいて頑張る姿こそが、自然なのです。

男が威張っているのも、手のひらの上です。
そんなことは、男たちは十分承知してます。
それを、見た目のことだけに囚われて、勝ったの負けたのと比較評価するから、男女不平等などと
いう幼稚な発想になるのです。

もちろん、表の姿にアグラをかいて調子に乗っている男もいけません。
男は、表で威張っていればこそ、裏では優しくないといけないのです。
そして女は、表ではしおらしくしていればこそ、裏では芯の強さが必要なのです。

バランスという言葉を履き違えて、平等だとか公平だとか、我利我利の固定観念に囚われて、上っ面だけを比較判断するような人間考えは
捨てたほうがいいということです。

自分もそんな歪んだ固定観念に長いこと囚われていました。
男子たるもの男らしくあるためには、仲よしこよしの甘っちょろい弱さは必要ないと。
強さを求めようとするあまり、排他的で攻撃的になっていました。

とりわけ優しさや寛容さというのは表に出してはいけないと意固地になっていました。
父性を求めるがゆえ、自分の中の母性を否定していたわけです。

しかし、天地から睨みをきかされて自分の芯を丸裸にされますと、もはやバンザイです。
少しずつ自分の弱さ(と思いこんでいたもの)を、そのままに受け入れるようになって、初めてそれらが不可分の表裏一体であることを
知るようになりました。
理解してから受け入れたのではなく、受け入れてから理解するようになりました。

その時は、男らしさが薄まっても仕方がない、もう自分の甘さや女くささもそのままで認めよう、と諦めて受け入れました。
しかし実はそれが甘さでもなければ女くささでもなかったことを知ったのでした。
いかに社会通念や固定観念というものが、思い込みに歪められたものであるかを実感しました。

こうした社会通念は、時代時代によって変わるものでもあります。

古代から戦前に至るまで日本は男尊女卑の国だったと、今では考えられてしまっています。
確かに、表舞台である社会においてはそうだったかもしれません。
しかし、だからといって女性が弱々しい心で生きていたかというと、決してそうではありませんでした。

むしろ芯の強さこそが美しさであり続けました。
そしてそれは硬質の強さではなく、柳のようにしなやかで折れることのない強さでした。

つまり、我欲による強さではなく、透き通った透明な強さだったということです。

ですから、現代のように社会進出をして、束縛から解放されて強くなったかのような女性たちよりも、その時代の女性たちの方が心柱は
ずっと強かったと言えるのではないかと思います。
なぜならば、強さの置きどころが全く違うからです。
社会における強さというのは、得てして我の強さでしかないわけです。

そしてまた、その時代の男性たちもそうした役割分担を分かっていればこそ、家庭では頭が上がら
なかったわけですし、奥さんの後ろ盾が
あるからこそ安心して外で存分に働けたわけです。

猛将 来島又兵衛しかり、西郷隆盛しかり、坂本龍馬しかり。
まるでヤンチャに出かける子どもと、それを見守る母のように。

そして妻は、負け惜しみではなく本心から、亭主の活躍は自分の活躍でもあると分かっていました。
そのように天地自然の役割分担がされていた時代ですが、上っ面で判断する西洋的な価値観から
すれば、残念ながらそれは男女不平等であり
男尊女卑でしかなくなるのでした。

その時代には、男子は強さとともにそれ以上の優しさを求められ、女子は優しさとともにそれ以上の強さを求められていました。
しかしその表の部分しか見ないと、男子は強さのみ、女子は優しさのみが強調されてしまい、そういう時代だったとなってしまいます。

そして私自身もまた、強さの先にこそ寛容さがあると思い込み、甘さは切り捨てようとしたのでした。

本来、甘さと優しさは全く異なるものです。
しかし、世間ではそれがいっしょくたになってしまっています。

我欲の混ざった優しさは、甘さでしかありません。

そうした甘さを嫌うあまり、優しさにもフタをしてしまいました。
しかしそれでは、厳しさではなく、荒々しい激しさしか残りません。
それでもその先には、宮本武蔵や多くの剣豪が達したような、静けさや寛容さがあるのだと思いこんでいました。

どれだけ父性を鍛えようとも、表裏一体の母性を押さえつけている限り、それは決して天地自然の強さには近づけません。
手放してから知ったのは、母性を受け入れることで、父性も本来の大きさを現わすということでした。

これとは逆のことが、戦後の誤った母性解釈にも現われています。

本来一つであるはずの“厳しさ”と“優しさ”を切り離して、前者を否定してしまいました。
その結果残ったものは、優しさではなく、単なる甘さでした。

他国(他人)の顔色を見て、他国(他人)の嫌がることは一切やめようというのは、八方美人の
優等生根性でしかなく、我執そのものです。

誰かから褒められることでしか、自分を認められないということです。
外部を通してしか、自分の位置を確認できない。
それは自分の中心を失ってしまった結果です。

心を外に置いてしまうと、外に波が立つと自分の立ち位置がグラつき、不安に陥ってしまいます。
すると、自分の安心のために、外の波を無くそうと何にでも従おうとする図式が出来上がってしまうわけです。

それは、他者と仲良くするという本当の意味を理解していないことでもあります。
本来、それぞれが自立した存在だと認めあうことが、仲良くするということです。
それが天地自然の姿です。

何からなんでも相手に同意することは全く違います。
それは自然界では、自己の死を意味します。

この世の存在はすべて違いがあって当たり前で、考え方が違うのも当たり前なのです。
その上でそれをお互い尊重し合い、許容しあうというのが自然の姿です。

戦後の平和思想というのは、行きたくもないのにトイレに付き合うのが仲良しと思っている女子高生と何も変わりません。

相手が非難してきたり、攻撃してきたりすることを、全て自分の中心で受け入れて、その上で真摯に耳を向けて、自分の中心から言葉を
発するのが、天地自然の姿です。
相手の土俵でも、自分の土俵でもなく、天地の土俵です。

天地の土俵とは、自分も相手も全てを包み込む大らかさです。
そして、母性も父性も全てがそのままに現われている状態こそが、天地自然の状態であり、それこそが天地の土俵なのです。

このことは、過去の日本人は感覚的に分かっていたのだと思います。
たとえば仏像の多くは、みんな中性的な姿に観えます。
慈愛の菩薩様も、決して女性ではありません。
それは、男女ともに母性と父性が内在していることを示すものであり、我執を手放した天地自然の姿というのはそれら均衡にあることを
伝えようとしているのではないかと思います。

男性は母性に惹かれ、女性は父性に惹かれるのは、自分に無いものを求めているというだけではなく、それが表ではバランスの均衡となり、
裏では自分の表を支えるエネルギーでもあるからだと思います。

自分の中にあるものを、押さえつけたり否定したりすることはありません。
すべてを手放して自然にまかせれば、自ずとバランスは保たれます。

社会通念の思い込みに縛られず、気楽に手を離しても大丈夫なのです。
男性も女性も、その固定観念を手放すことが、全てを受け入れることになります。
それで自分が弱くなることはありません。
むしろ、さらに大きな自分になることでしょう。


女子よ、もっと強く逞しくあれ
男子よ、もっと優しく大らかであれ

女子よ、いつも優しく大らかであれ
男子よ、いつも強く逞しくあれ


すべてを手放せば、天地自然のバランスが働くようになります。

そうして、女子も男子もさらなる輝きを放つようになっていくのではないかと思います。



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