インフルエンザはシンドかったですが、そのお陰で、世間から完全隔離されることになりました。
それは、自分の生活習慣・生活リズムからの隔離でもありました。
普段あたりまえに繰り返すペースというものが、実は、無意識のうちに自ら作り出しているものであったことを、
水槽からヒョイと出されて初めて実感しました。
時間・空間というのは、不変のものではありません。
様々な存在がすれ違うことなく関わり合えるように、ひとまずコレというものを指標としていますが、本来は十人十色
のものです。
一つの決め事として、みんな同じものを見ていることにしているだけです。
それは相対性理論の話ではなく、現実としての話です。
そしてその時間・空間とは、外から与えられるものではなく、自分自身が創り出すものでした。
しかし実際は、時間や空間が伸び縮みすることを分かってもなお、それは自分が関与するものではなく、自分の外の
環境や条件によって変化するものだと勘違いしてしまいます。
そうすると、どうなってしまうでしょうか。
たとえば、絵を描く時や粘土細工をやる時、必ず、核となるものを作ってそこから肉付けをしていきます。
これは私たちの体が作られる過程もそうですし、星や宇宙が出来上がる過程もそうです。
時間・空間にしても同じことが言えます。
核となる中心がどこにあるかで、当然ながら出来上がるものは大きく変わってきます。
その中心を自分の外に置いてしまうと、知らないうちにオーバーペースになったり、グルグルと振り回されることに
なります。
もう少し分かりやすく言いますと、たとえば家事や仕事というものは私たちの求めとは関係なしに向こうからジャン
ジャンやってきます。
それを決まった時間の中で処理しなくてはいけないとなると、それに応じたペースでこなすことになります。
そうして目の届く範囲、気持ちの届く範囲、心の範囲というものも、それに応じた広さになっていきます。
このため、“時間も空間も自分が決めるのではなく、自分の置かれた環境によって決まってくる”と思ってしまいます。
ましてや、そこに仕事仲間や家族が居ると、足並み揃えたペースや必要な守備範囲も自ずと決まってくるものだと
思ってしまいます。
しかし、そうではないのです。
様々な環境によって判断材料が変わることはあっても、時間や空間を最終的に決めているのは自分です。
仕事仲間や家族のペースに合わせよう、守備範囲を合わせようというのも、それを決めているのは自分です。
どこまで行っても、この時間や空間を創り出しているのは自分自身であるわけです。
病み上がりでユックリしか歩けず、またユックリとした判断しかできない自分であった時、不思議と心地の良いもの
でした。
それは、この時間も空間も自分が創り出したものであることを実感した瞬間であり、自分の意思が消え去った状態、
天地宇宙のリズムと一つになった状態と言ってよいものでした。
その時の感覚とは、作為的に何かを意図して「作る」のではなく、天地宇宙の呼吸のままに自然と「創られる」もの
でした。
まわりがセカセカと動いている映像や息づかいを、これ以上ないほど冷静に見ている自分が居る一方で、自分自身
はまわりの環境には1ミリも影響されない、本当にナチュラルな状態でした。
それは自分がドッシリと動かざる山のように盤石な状態ということではなく、世の中の全てが、そよ風のように自分を
撫でていくような感覚でした。
天地宇宙の呼吸、大自然の流動というのは、同じ一つのものに帰結します。
ただその現れ方は、人やモノによって様々なものとなります。
手足の長さが違うと歩くテンポが変わるのと同じように、天地自然の呼吸にしても人それぞれに現れるペースは独自の
ものになります。
「みんなバラバラのペースでやったら、バランスよく噛み合うのは無理ではないか」「お互いが自分を抑えつつ
相手に合わせないと連携は出来ないものだ」などという疑念は、思い込みや固定観念でしかありません。
一見みんなバラバラのペースだったとしても、その出所が天地の呼吸であるならば、自ずと呼吸は合ってくるもの
です。
好き勝手やった結果バラバラになるというのは、天地の呼吸ではなく、ただ個々が自我に任せてやったからです。
そもそも相手に合わせようとか、相手を自分に合わさせようというのも「我」を出すことですから、ギチギチの
バラバラにしかなりません。
交響演奏にしても、お互いが「合わせよう」と意識しているうちは絶対に調和はしません。
形を追うことは縛りを生みます。
形を追わずにフリーな感覚へ毛穴を開ききった時、演奏者たちの心は大きな一つに溶け合います。
その時、自然に調和しているのです。
大自然というのは、多種多様な生き物に満ち満ちていて、見事なほどにみんなバラバラです。
しかし、誰が何をするでもなく、何十兆もの存在が完全に調和しています。
完全な調和とは、波立ちの無い、完全な静けさです。
もしも誰かが我のまさった呼吸をしたならば、波立ちが騒がしさとなり、凄まじい不協和音の嵐となることでしょう。
頭がリードして始動するのではなく、ただそこに在る。
在るがままに、在る。
そういうことになります。
会社や組織に属していると、求められるペースや成果というものがあるかもしれません。
それは仕事に限らず、日々に接する人々との関わり合いでも、たとえば友だちや家族との間でも存在するものです。
そうすると、相手に合わせるためや評価・結果を目指すための「時間・空間」を自ら創りだしてしまいます。
それは微調整の範囲で創れる時もあれば、かなりの無理をして創る時もあります。
ただ、どちらであったにせよ、まわりの人からすれば目の前に現れた時間・空間が事実となります。
それが当たり前のものとなるのです。
もちろんそれが定着するには、その存続、繰り返しが必要となります。
私たちは、自ら創造を繰り返すことで同じ時間・空間というものを再現し続けます。
すると、相手は相手でその時間・空間に応じた、自分の時間・空間を創造します。
その時、相手は自身に中心を置いて時空を作るかもしれませんし、中心をこちらの方に置いて作るかもしれません。
それもまた相手の習慣や信念、好みによります。
いずれにしても、相手はこちらの時間・空間に応じた自分の時間・空間を創っていますので、こちらに対してはそれまで
と同じ時間・空間の継続を無意識に求めることになります。
そうした相手の無意識の要求に応えるため、あるいは純粋に自身の信念や好みに従って、こちらもまた目の前の時間・
空間というものが同じであることを求めるようになります。
その結果、まわりの人たちに定着した自分(時間・空間)、そして自分自身に定着した自分(時間・空間)という
ものを崩すまい、無くすまいとして無意識のうちに無理を重ねてしまうことになります。
そんな中で、自分が素に戻って本当に落ち着く時間・空間を創造する、つまり、ゆったりと大きく広く過ごしたり
すると、目の前の進み方は明らかに変わっていきます。
すると、周囲の人たちがそれに違和感を覚えるだけでなく、自分自身もまた「いつもの自分とは違う」「自分らしくない」
「おかしい」とモヤモヤしてしまいます。
疲れていたり体調が悪かったりして、ペースが戻らなかったり、頭や身体が上手く回らなくなると、誰しもこの
ような感覚を経験したことでしょう。
でも、いったいどれが本当の自分のリズム、自分のペースなのでしょうか?
もしかしたら20年、30年と、中学・高校の頃から今までずっと続けてきたペースのほうが、天地自然に反した、
息(生き)苦しい呼吸だったのではないでしょうか。
自分らしさとは何なのでしょう。
コレが自分だと思っているその姿とは、本当に自然のままの素の自分なのでしょうか。
無理の上に無理を重ねると、年をとるほどに素の自分から離れていってしまいます。
もともとは天地自然の呼吸に合わせた固有のペースであるはずなのに、信念や観念によって、まわりとの調整に腐心
して画一的なペースに自らを矯正してしまう。
それは、自分だけに限らず、この世界のほぼ全ての大人たちがそのようにして社会のバランスを保とうとしている
ために、それこそが当たり前の行ないだと思い込んでしまうものです。
しかし、先ほども書きましたように、自らを抑えなければ秩序を乱したりバランスを崩してしまうというのは、我欲に
任せて好き勝手やった場合の話です。
信念や我欲に左右されず、ただ素の自分に素直にクリアに天地宇宙の呼吸を通せば、たとえ独特のペースになったと
しても周囲とのバランスが崩れることは決してありません。
必ず、周囲がそれに見合った形へと変化していきます。
類が友を呼ぶこともあれば、類が環境を呼ぶこともあるのです。
たとえば、赤ちゃんは外部の全てを信じきり、任せきっています。
彼らにとっては内も外もなく、天地宇宙のすべてが自分自身であるからです。
それは私たちが、自分自身であるこの身体を、この手を、この足を、警戒したり気兼ねしたりすることが無いのと全く
同じ感覚です。
それこそが信じきっている状態、任せてきっている感覚です。
そして、そうした赤子の姿を目の当たりにすると、私たちは無条件に手を差し伸べてしまいます。
信じきる、任せきるという心が私たちに降り注ぐと、私たちの造っている壁が溶かされ、赤児と同じ一つの心となる
からです。
つまりその時、私たちにとって相手(赤ちゃん)もまた自分の一部となるということです。
そのため、何かせずには居られなくなるわけです。
信じきる、任せきるというのは「誰々を」信じる、任せるというのではなく、自分の外の全て、「人もモノも環境も
全てを」完全に信じきるということです。
「信じきる」「任せきる」ということは、途轍もない光となって周囲に響き渡ります。
これと同じことは、大人であっても起きます。
たとえば、天真爛漫な人、無邪気な人、自由奔放な人たちがそうです。
テレビ番組で、無計画のヒッチハイク旅行を楽しむ外人さんが出てきたりしますが、言葉が全く通じないのに何故か
まわりが放っとけなくなり、手を差しのばしてしまいます。
決して食いっぱぐれることがない、そして、どうにかなる。
これもまた先ほどの話と同じであるわけです。
そうした人たちには恐れや不安が一切なく、純粋な楽しさや喜びしかありません。
それはまさに、自分の周囲というものを信じきっている状態、天地宇宙というものに任せきっている状態です。
ですから、本人には「申し訳ない」とか「助けてもらった」というような卑下た感情は微塵もなく、ただ「嬉しい」
という感覚があるだけです。
手を差し伸べた人たちにしても「助けてあげた」「手伝ってあげた」というような損得勘定や上から目線はカケラも
無く、ただ清々しさと喜びがあるだけです。
そこには、お互い一切の貸し借りは発生しません。
それこそは、この世に満ちる天地宇宙の無条件の愛と同じものです。
昔の日本はどこへ行ってもそのような感覚が見られました。
今でも下町のおっちゃんやおばちゃん、関西の人たち、田舎のジィちゃんバァちゃんなど、心がオープンな人たちは
そうです。
そして、そうした人たちは相手に気をつかわず、裏表なく自由に生きています。
お互いが自らを抑えて相手とのバランスを調整しようとすると、そこに気遣いが生まれて、申し訳なさや貸し借りの
感覚が生じてしまいます。
私たちは、パリッとした出来る人間を持続する必要もありませんし、誰ともぶつからない気づかいの人を続ける必要
もありません。
信念や我欲の雑音をかき鳴らしたり、あるいはそれを消そう消そうと自分を抑えつけてたりして、天地宇宙の呼吸を
滞らせてしまうのは、ただただ生き苦しいだけです。
全てを信じ切り、任せきった状態で、自分の素のままに現せば、そこに自分固有の時間と空間が創り出されます。
それこそが、真のマイペースというものです。
囚われも我執もない、天地宇宙の呼吸に任せたならば、周囲の人たちは自然と壁を無くしてそこへ溶け合っていくこと
でしょう。
足並みを乱してしまう、迷惑をかけてしまうなどと心配する必要はありません。
逆にそれが囚われや我執そのものになっていきます。
何もかも信じきり任せきった状態というのは、天地宇宙と一つになった状態です。
そして、天地宇宙とは愛そのものです。
愛というのは与えたり与えられたりするものではなく「状態」です。
天地宇宙に満ち満ちている、「状態」です。
何も心配せず、ただ自分の素のままをさらけ出せば、それが周囲の壁をノックすることになります。
囚われやしがらみを断ち切って自由になるというのは、ツラい仕事や人間関係を断ち切るということではありません。
今のこの環境の中で、本当の自分に素直になって、時間・空間そして自分というものを創造するということです。
それが、無条件の愛を呼び覚ますことになるのです。
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それは、自分の生活習慣・生活リズムからの隔離でもありました。
普段あたりまえに繰り返すペースというものが、実は、無意識のうちに自ら作り出しているものであったことを、
水槽からヒョイと出されて初めて実感しました。
時間・空間というのは、不変のものではありません。
様々な存在がすれ違うことなく関わり合えるように、ひとまずコレというものを指標としていますが、本来は十人十色
のものです。
一つの決め事として、みんな同じものを見ていることにしているだけです。
それは相対性理論の話ではなく、現実としての話です。
そしてその時間・空間とは、外から与えられるものではなく、自分自身が創り出すものでした。
しかし実際は、時間や空間が伸び縮みすることを分かってもなお、それは自分が関与するものではなく、自分の外の
環境や条件によって変化するものだと勘違いしてしまいます。
そうすると、どうなってしまうでしょうか。
たとえば、絵を描く時や粘土細工をやる時、必ず、核となるものを作ってそこから肉付けをしていきます。
これは私たちの体が作られる過程もそうですし、星や宇宙が出来上がる過程もそうです。
時間・空間にしても同じことが言えます。
核となる中心がどこにあるかで、当然ながら出来上がるものは大きく変わってきます。
その中心を自分の外に置いてしまうと、知らないうちにオーバーペースになったり、グルグルと振り回されることに
なります。
もう少し分かりやすく言いますと、たとえば家事や仕事というものは私たちの求めとは関係なしに向こうからジャン
ジャンやってきます。
それを決まった時間の中で処理しなくてはいけないとなると、それに応じたペースでこなすことになります。
そうして目の届く範囲、気持ちの届く範囲、心の範囲というものも、それに応じた広さになっていきます。
このため、“時間も空間も自分が決めるのではなく、自分の置かれた環境によって決まってくる”と思ってしまいます。
ましてや、そこに仕事仲間や家族が居ると、足並み揃えたペースや必要な守備範囲も自ずと決まってくるものだと
思ってしまいます。
しかし、そうではないのです。
様々な環境によって判断材料が変わることはあっても、時間や空間を最終的に決めているのは自分です。
仕事仲間や家族のペースに合わせよう、守備範囲を合わせようというのも、それを決めているのは自分です。
どこまで行っても、この時間や空間を創り出しているのは自分自身であるわけです。
病み上がりでユックリしか歩けず、またユックリとした判断しかできない自分であった時、不思議と心地の良いもの
でした。
それは、この時間も空間も自分が創り出したものであることを実感した瞬間であり、自分の意思が消え去った状態、
天地宇宙のリズムと一つになった状態と言ってよいものでした。
その時の感覚とは、作為的に何かを意図して「作る」のではなく、天地宇宙の呼吸のままに自然と「創られる」もの
でした。
まわりがセカセカと動いている映像や息づかいを、これ以上ないほど冷静に見ている自分が居る一方で、自分自身
はまわりの環境には1ミリも影響されない、本当にナチュラルな状態でした。
それは自分がドッシリと動かざる山のように盤石な状態ということではなく、世の中の全てが、そよ風のように自分を
撫でていくような感覚でした。
天地宇宙の呼吸、大自然の流動というのは、同じ一つのものに帰結します。
ただその現れ方は、人やモノによって様々なものとなります。
手足の長さが違うと歩くテンポが変わるのと同じように、天地自然の呼吸にしても人それぞれに現れるペースは独自の
ものになります。
「みんなバラバラのペースでやったら、バランスよく噛み合うのは無理ではないか」「お互いが自分を抑えつつ
相手に合わせないと連携は出来ないものだ」などという疑念は、思い込みや固定観念でしかありません。
一見みんなバラバラのペースだったとしても、その出所が天地の呼吸であるならば、自ずと呼吸は合ってくるもの
です。
好き勝手やった結果バラバラになるというのは、天地の呼吸ではなく、ただ個々が自我に任せてやったからです。
そもそも相手に合わせようとか、相手を自分に合わさせようというのも「我」を出すことですから、ギチギチの
バラバラにしかなりません。
交響演奏にしても、お互いが「合わせよう」と意識しているうちは絶対に調和はしません。
形を追うことは縛りを生みます。
形を追わずにフリーな感覚へ毛穴を開ききった時、演奏者たちの心は大きな一つに溶け合います。
その時、自然に調和しているのです。
大自然というのは、多種多様な生き物に満ち満ちていて、見事なほどにみんなバラバラです。
しかし、誰が何をするでもなく、何十兆もの存在が完全に調和しています。
完全な調和とは、波立ちの無い、完全な静けさです。
もしも誰かが我のまさった呼吸をしたならば、波立ちが騒がしさとなり、凄まじい不協和音の嵐となることでしょう。
頭がリードして始動するのではなく、ただそこに在る。
在るがままに、在る。
そういうことになります。
会社や組織に属していると、求められるペースや成果というものがあるかもしれません。
それは仕事に限らず、日々に接する人々との関わり合いでも、たとえば友だちや家族との間でも存在するものです。
そうすると、相手に合わせるためや評価・結果を目指すための「時間・空間」を自ら創りだしてしまいます。
それは微調整の範囲で創れる時もあれば、かなりの無理をして創る時もあります。
ただ、どちらであったにせよ、まわりの人からすれば目の前に現れた時間・空間が事実となります。
それが当たり前のものとなるのです。
もちろんそれが定着するには、その存続、繰り返しが必要となります。
私たちは、自ら創造を繰り返すことで同じ時間・空間というものを再現し続けます。
すると、相手は相手でその時間・空間に応じた、自分の時間・空間を創造します。
その時、相手は自身に中心を置いて時空を作るかもしれませんし、中心をこちらの方に置いて作るかもしれません。
それもまた相手の習慣や信念、好みによります。
いずれにしても、相手はこちらの時間・空間に応じた自分の時間・空間を創っていますので、こちらに対してはそれまで
と同じ時間・空間の継続を無意識に求めることになります。
そうした相手の無意識の要求に応えるため、あるいは純粋に自身の信念や好みに従って、こちらもまた目の前の時間・
空間というものが同じであることを求めるようになります。
その結果、まわりの人たちに定着した自分(時間・空間)、そして自分自身に定着した自分(時間・空間)という
ものを崩すまい、無くすまいとして無意識のうちに無理を重ねてしまうことになります。
そんな中で、自分が素に戻って本当に落ち着く時間・空間を創造する、つまり、ゆったりと大きく広く過ごしたり
すると、目の前の進み方は明らかに変わっていきます。
すると、周囲の人たちがそれに違和感を覚えるだけでなく、自分自身もまた「いつもの自分とは違う」「自分らしくない」
「おかしい」とモヤモヤしてしまいます。
疲れていたり体調が悪かったりして、ペースが戻らなかったり、頭や身体が上手く回らなくなると、誰しもこの
ような感覚を経験したことでしょう。
でも、いったいどれが本当の自分のリズム、自分のペースなのでしょうか?
もしかしたら20年、30年と、中学・高校の頃から今までずっと続けてきたペースのほうが、天地自然に反した、
息(生き)苦しい呼吸だったのではないでしょうか。
自分らしさとは何なのでしょう。
コレが自分だと思っているその姿とは、本当に自然のままの素の自分なのでしょうか。
無理の上に無理を重ねると、年をとるほどに素の自分から離れていってしまいます。
もともとは天地自然の呼吸に合わせた固有のペースであるはずなのに、信念や観念によって、まわりとの調整に腐心
して画一的なペースに自らを矯正してしまう。
それは、自分だけに限らず、この世界のほぼ全ての大人たちがそのようにして社会のバランスを保とうとしている
ために、それこそが当たり前の行ないだと思い込んでしまうものです。
しかし、先ほども書きましたように、自らを抑えなければ秩序を乱したりバランスを崩してしまうというのは、我欲に
任せて好き勝手やった場合の話です。
信念や我欲に左右されず、ただ素の自分に素直にクリアに天地宇宙の呼吸を通せば、たとえ独特のペースになったと
しても周囲とのバランスが崩れることは決してありません。
必ず、周囲がそれに見合った形へと変化していきます。
類が友を呼ぶこともあれば、類が環境を呼ぶこともあるのです。
たとえば、赤ちゃんは外部の全てを信じきり、任せきっています。
彼らにとっては内も外もなく、天地宇宙のすべてが自分自身であるからです。
それは私たちが、自分自身であるこの身体を、この手を、この足を、警戒したり気兼ねしたりすることが無いのと全く
同じ感覚です。
それこそが信じきっている状態、任せてきっている感覚です。
そして、そうした赤子の姿を目の当たりにすると、私たちは無条件に手を差し伸べてしまいます。
信じきる、任せきるという心が私たちに降り注ぐと、私たちの造っている壁が溶かされ、赤児と同じ一つの心となる
からです。
つまりその時、私たちにとって相手(赤ちゃん)もまた自分の一部となるということです。
そのため、何かせずには居られなくなるわけです。
信じきる、任せきるというのは「誰々を」信じる、任せるというのではなく、自分の外の全て、「人もモノも環境も
全てを」完全に信じきるということです。
「信じきる」「任せきる」ということは、途轍もない光となって周囲に響き渡ります。
これと同じことは、大人であっても起きます。
たとえば、天真爛漫な人、無邪気な人、自由奔放な人たちがそうです。
テレビ番組で、無計画のヒッチハイク旅行を楽しむ外人さんが出てきたりしますが、言葉が全く通じないのに何故か
まわりが放っとけなくなり、手を差しのばしてしまいます。
決して食いっぱぐれることがない、そして、どうにかなる。
これもまた先ほどの話と同じであるわけです。
そうした人たちには恐れや不安が一切なく、純粋な楽しさや喜びしかありません。
それはまさに、自分の周囲というものを信じきっている状態、天地宇宙というものに任せきっている状態です。
ですから、本人には「申し訳ない」とか「助けてもらった」というような卑下た感情は微塵もなく、ただ「嬉しい」
という感覚があるだけです。
手を差し伸べた人たちにしても「助けてあげた」「手伝ってあげた」というような損得勘定や上から目線はカケラも
無く、ただ清々しさと喜びがあるだけです。
そこには、お互い一切の貸し借りは発生しません。
それこそは、この世に満ちる天地宇宙の無条件の愛と同じものです。
昔の日本はどこへ行ってもそのような感覚が見られました。
今でも下町のおっちゃんやおばちゃん、関西の人たち、田舎のジィちゃんバァちゃんなど、心がオープンな人たちは
そうです。
そして、そうした人たちは相手に気をつかわず、裏表なく自由に生きています。
お互いが自らを抑えて相手とのバランスを調整しようとすると、そこに気遣いが生まれて、申し訳なさや貸し借りの
感覚が生じてしまいます。
私たちは、パリッとした出来る人間を持続する必要もありませんし、誰ともぶつからない気づかいの人を続ける必要
もありません。
信念や我欲の雑音をかき鳴らしたり、あるいはそれを消そう消そうと自分を抑えつけてたりして、天地宇宙の呼吸を
滞らせてしまうのは、ただただ生き苦しいだけです。
全てを信じ切り、任せきった状態で、自分の素のままに現せば、そこに自分固有の時間と空間が創り出されます。
それこそが、真のマイペースというものです。
囚われも我執もない、天地宇宙の呼吸に任せたならば、周囲の人たちは自然と壁を無くしてそこへ溶け合っていくこと
でしょう。
足並みを乱してしまう、迷惑をかけてしまうなどと心配する必要はありません。
逆にそれが囚われや我執そのものになっていきます。
何もかも信じきり任せきった状態というのは、天地宇宙と一つになった状態です。
そして、天地宇宙とは愛そのものです。
愛というのは与えたり与えられたりするものではなく「状態」です。
天地宇宙に満ち満ちている、「状態」です。
何も心配せず、ただ自分の素のままをさらけ出せば、それが周囲の壁をノックすることになります。
囚われやしがらみを断ち切って自由になるというのは、ツラい仕事や人間関係を断ち切るということではありません。
今のこの環境の中で、本当の自分に素直になって、時間・空間そして自分というものを創造するということです。
それが、無条件の愛を呼び覚ますことになるのです。
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