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和をもって貴しとなす

2015-07-19 13:02:39 | 国を常しえに立てます
伝統を守るのは、理屈を抜きにして、とても大事なことです。
生命の歴史を見ても、先祖代々脈々と続くものを継承していくのが、天地自然の姿です。

しかし、尊重することと固執することは全く違うものです。
そこに我執があるか無いかで、その意味が大きく変わってしまいます。

自分が謙虚な心にあれば、続いてきたものに対して自然に敬意をはらいます。
敬意とは、それをそのままで受け入れるということです。
変えまいと固執するのとは違います。
つまり自然に変化していくものは、変化するままに任せていくわけです。
決して恣意的に捻じ曲げるようなことはありませんし、凝り固めてしまうこともありません。
敬意を払うとは、それを自分の土俵におろして我執を混ぜこぜにしたりはしないということです。
抱え込みもせず、突き放しもせず、大切に見守ります。

変化というのは、まわりとの関係によって自然と起こるものです。
まわりが変化していけば、その中にあるものも変化していきます。
まわりとは、環境の場合もあれば、他者の場合もあります。
そしてそれに対する自身の変化というのは、順応という言葉にも置き換えられます。

長い歴史の中で、地球の変化に順応した生物だけが生き残りました。
あるいは、天敵から逃れるために進化したものだけが生き残りました。

何から何まで全く同じであり続けるものではないのです。
むしろ、微妙な揺らぎこそが、生命の脈動であるわけです。
人為的にガチッと固めてしまうのは、そのエネルギーを止めることでしかありません。

生き物の歴史がそうであるように、この世の森羅万象は緩やかな変化を普遍の共通項としています。
生活環境もそうですし、人間関係もそうです。
あるいは思考や心、信念や価値観もそうですし、様々な決めごともそうです。
長いスパンで見て、一つの形にこだわり続けたものは、いずれは消え去っています。

さて、政治の世界では、信条や旗色を鮮明にするために保守とか革新というような色分けをします。
一般的に、前者は右派、後者は左派と呼ばれます。

当然ながら、保守とか革新というのは、勝手な色付けでしかありません。
色々なものごとがある中で、変化していくものもあれば、変化しないものもあります。
守りか攻めかという指向性の違いはあるにせよ、右や左に関係なく、その時その時に応じて対処する
というのが天地の自然な姿といえます。

しかし今は、内容以前にまず右左のカラーありきで、それに従って結論を最初から決めつけてしまって
います。
思考のパターン化と言ってもいいかもしれません。

定義という枠組みを作ってしまい、そのレールに乗って進んでいき、対立をエネルギーとして論理を
展開させていく。
これは、完全に西洋のやり方です。
もともと私たち日本人は、そういう世界には居なかったはずです。

たとえば佐幕も倒幕も、あとから色付けされたものです。
右翼や左翼にしても、やはりあとから色付けされたものです。
昔の政治家は、己の中心に柱を立て、自身の灯明に依って生きていました。
外の枠組みに沿って生きていたわけではありません。
それは自分の世界に固執するということではなく、天地の中心としての自分ということです。
天地を土俵にした自分です。

小我という狭い土俵ではなく、世界の中の日本国、天地の中の人間という視野を持っていればこそ、
例えば坂本龍馬は仇敵である上士とも語り合えたし、幕府側とも当たり前に語り合えたわけです。
西郷隆盛しかり、山岡鉄舟、勝海舟しかり。
右翼の巨魁であった頭山満が、左翼の大物の中江兆民と無二の親友であったこともそうであるわけです。

今の私たちからすれば驚くべきものですが、実際そんな色づけなどは後から付けたものでしかないの
ですから、当時の人たちからすれば、ごく自然なことだったということです。
そして大我に身を置いてぶつかり合ったからこそ、世界が弱肉強食だった時代に、この国を生きて
永らえさせられたのです。

私たちも、西洋かぶれはもうやめましょう。
西洋的なやり方に触れて、まだ150年やそこらしか無いのです。
ましてや、保守だ革新だ、右派だ左派だなんてのは100年も経っていないわけです。
そんなポッと出の、青臭いものに熱を上げるのはやめましょう。

私たちには、もともと何千年も続いてきた、素晴らしい叡智と伝統があります。

すなわち「和合」です。

それこそが、私たちの国が世界に誇るべき最高のものです。
その姿は古事記や日本書紀にも描かれていますし、最古の憲法にも書かれています。
遥か太古から、私たちの国では天地宇宙の道理が当たり前に説かれています。

何が今一番大事なことなのか。
目先の狭い視野では、映るものは千差万別です。
それこそ、人の数だけ違ってきます。
信条や思い込みで見えるものなど、点でしかないのですから、そもそも和合など無理です。
世界が今どういう状況であるのか、他国の顔色ではなく私たち日本が生き残るためには何が必要なのか、
自分たちの子や孫の世代が護られるためには何が大事なのか、幅広く末永い視野で映し見ないと、会話は
成立しません。

ここで陥りやすいのが、子や孫のためといって自分だけの思いに囚われてしまうことです。
「子や孫の世代」というのは、30年、50年先の日本ということです。
その時代の全世界の中の日本という、広い視野こそが必要になります。
いくら未来に思いを馳せても、その先の視野が狭ければ何の意味もありません。
いま現在を広く眺め、行く末の世界も幅広く眺めることで、初めて主義や信条を超えた会話が成立
します。
そこでの対話をするのが、本当の政治です。
揚げ足取りなどというのは、それこそが視野の狭さの現われです。
子供の喧嘩と何一つ変わりません。
新聞やテレビを意識して悪口書いたプラカードを掲げるなんていうのは、いったい本当にこの国のことを
真剣に考える姿と言えるのでしょうか。

右も左もありません。
本当にこの国のことを思う心があるかどうかだけです。
そこでお互い真剣に思いを語り合いましょう。
国のことを語っているように装いながら、その実、自分のことしか見えていないような視野の狭い
我執など見たくありません。
これは、政治家だけでなく、私たち一人一人に当てはまることです。
自分のことなど、今は必要ないのです。
自分でもなければ相手でもありません。
この国のことです。
今の世界と、この国のことです。
個人などという瑣末な視野は本当に要りません。
そうした上での、和合です。
決して迎合ではありません。
個々のごたわりや我執ではなく、天地に身を置き、真っさらになって国のこと考えれば、必ずそれは
成ります。

私たち大和民族は、大いなる和合の民なのです。

西欧諸国のように、力にモノを言わせて相手を屈服させてきた時代は終わりました。
私たち日本人が太古から間違いなく引き継いできているものが、今や最も新しい光となります。
それは押し入れの奥に押し込められて、まだ100年やそこらの話です。
数千年、数万年のうちの、たった100年です。
そんな程度で錆びるものではありません。
たまたま今の私たちが生きてきた時代だけが特殊だったわけで、心配しなくても私たちの体には何千年も
続いてきた血が流れてます。

まずは私たちの目の前にある、今この場面で、そこに立ち返ってみましょう。

変化するものは、変化するままに受け入れる。
その流れを我執で止めない。
そして天地自然の視点に立って、大局を語り合う。
自分と相手という対立構造へ盲進せず、大我の中で真の融合を目指す。

和というのは、こだわりや我執の世界から降りて、天地の土俵に立つところから始まります。
自分が折れるとか、相手が折れるとか、そのような次元のものではありません。
小我に身を置いた対立は、本当に国を滅ぼします。
国の死とは、そのまま私たちの死に直結します。
観念論ではなく、物理的な現実のことを言っています。
私たちの集まりが、国です。
日常から離れた遠い世界のことではありません。
ボンヤリとうたた寝しながら反対を叫んでいる時ではありません。

「和をもって貴しとなす」というのは大変に深い真理です。
今の憲法がどうのこうの、そんなことにヒステリックになる前に、まずはこの国に最も古くから在った
天地普遍の憲法に立ち返りましょう。


和合とは、柔軟さであり順応性でもあります。
我を出し合っているうちは、たとえ今日明日を勝てても、いつか必ず負けます。
己の土俵にしがみつくのは、この天地宇宙の中にありながら必死に孤立していることになります。

前近代的な対立構造という仕組みに行き詰まりを見せている今の世界に、その姿は新鮮な輝きをもって
迎えられるでしょう。

そして間違えてはならないのは、相手(相手国)があくまで我執の土俵にしがみついているうちは、
それを無理やり引き剥がしてこちらの土俵にあげようとするのでもなければ、自分がその土俵に降りて
いくのでもありません。

こちらはあくまで天地の土俵に身を置いたまま、相手の変化と己の順応に耳を澄まして、我執を挟まず
その流れを尊重するだけです。

何がどうなろうとも、全てはこの天地の中での出来事です。
どこに身を置くかによって、大きくも見えますし、小さくも見えます。
そして、その天地宇宙そのものも脈動しながら移り変わっています。

船の舳先(へさき)だけを見ていれば大揺れに揺れているように映るかもしれませんが、遠くの水平線
を見れば行く先がハッキリ見えます。
目先の揺れにいちいち大騒ぎする時ではありません。
神経質にあちこちキョロキョロしなければ、極めてシンプルなものなのです。

天地にビシッと心柱を立て、大海を臨み見ながら、素直さと謙虚さで日々を柔軟に乗り切りましょう。


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