あけましておめでとうございます。
元旦からすっきり爽やかな青空に、身も心もリフレッシュです。
正月だけは、世間の騒がしさや仕事の心配も忘れて、今この瞬間この空間に身も心もまかせきりになります。
何の濁りもない、透き通った軽やかなこの感覚こそが、私たちの本当の状態と言えます。
私たちは生まれながらに自由自在です。
時間にも空間にも縛られていませんし、どんなレールにも縛られていません。
天地宇宙には法則というものがありますが、それは単に現象を表現したもので、私たちがそれに縛られるわけではありません。
少しだけ真面目な話をしますが、たとえば因果応報という言葉があります。
良いことをすれば良いことが返ってくる、良くないことをすれば良くないことが返ってくるというものです。
蒔いた種が生る。原因が結果を生む。
「善因善果」「悪因悪果」、そして理屈としては「普通因・普通果」ということになります。
普通の生活であっても、そこには流れやリズムがあるわけです。
ただ、この説明を聞いても芯の部分でしっくり来なかったならば、それはそのまま素直に受け入れるのが正解だと思います。
とりわけ、良いことをすれば良いことが返ってくるという説明に抵抗を感じたならば、なおさらに。
見た目の「因」を追っても、求める「果」は芽吹くものではありません。
芯の部分がどうであるか、本心がどうであるか、それがそのまま現実世界に結果として現れてきます。
因果応報というのは、過去からの流れがレールのように連なっているというよりも、その流れに乗っているうちに「私たちの」心の状態が
太く大きくなっていき、それが芽吹いたものだと言えます。
つまり、何かをしてしまったらそれでレールが敷かれてしまって運命から逃れられないということではなく、それをやるに至った私たちの心の
状態がそのまま根を深くしていった結果、芽が開いたということです。
ですから、エサに釣られて打算的な行動を取ったり逆算に基づく言動を行なったところで、その根っこに邪(よこしま)な心があれば、それが
そのまま反映させた現実が現れるわけです。
中学生の頃を思い出してみましょう。
校則に合ったきっちりした服装。ぴっちり切りそろえた髪。優等生という形。
それを守ったのは何のためだったでしょう。
怒られたくない。褒められたい。たかだかそんなことのためだったのではないでしょうか。
今なお、良いことが返ってくるのを期待して良いことをしようというなら、その期待している良いこととは何なのでしょうか。
それが安全や自己満足など、相変わらずそんなことであったならば、私たちは中学校の頃と何も変わってないことになります。
子供のころに、規則や決まりに反発して脱線しようと思ったのは幼稚な反抗心などではなく、まさしく本能的なものだったと言えます。
私たちは他の誰でもない、私たち自身です。
その心も、その人生も、すべて自由自在です。
自分で縛ることもなければ、他人に縛られることもありません。
この世とは何をしてもいい世界であり、何でも出来るからこそ私たちはこの世に生まれ出てきました。
あの世は自由度が低く、何もできない世界でした。
あっちの誰にでも逢えるわけでもない。どこにでも行けるわけでもない。何でもかんでも出来るわけではない。
魂に応じて厳密に、出来ることにかぎりが生じる世界でした。
しかしこの世ではそうしたことが無限に自由自在です。
そんな世界に私たちは喜び勇んで出て来ました。
私たちは右にも左にも行けます。
真っ直ぐ引いた一本道に縛られるなんて真っ平ごめんです。
良いことをすれば良いことが返ってくるなんて聞いたら、反射的に心を閉ざすのが当たり前です。
こうすれば悪い結果になるからやめる、こうすれば良い結果になるからそうする、そんなのはもったいない話です。
そんなものは、そうなった時に考えればいい。
悪い結果になったらなったで、その時にショックを受けてオロオロしながら涙をすればいい。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html
結果を期待した行動や、逆算の行動には、中身が存在していません。スカスカです。
なぜなら「今ここではない何処か」に自分を置いてしまっているからです。
はるか彼方の何処かに心を置く。その瞬間、今ココは消失して私たちはがんじがらめになってしまいます。
天地宇宙というのは「今ここ」そのものです。
私たちは空間も時間も突き抜けて、天地無限に広がっています。
すべては今ここであるわけです。
「今ではない何処か」とは、近づこうとすればするほど離れていく蜃気楼です。
今ココに足をつけて初めて、天地無限へ今ココが広がり、遥か彼方の時空もすべてが今ココと成ります。
私たちは今ココにしか存在しない。
この天地宇宙も今ココにしか無い。
未来も過去も今ココにしか無い。
逆算や打算を考えた瞬間、天地の中心たる私たち自身が失われ、天地はスカスカの張りぼてと化します。
因果応報というのは、現象をあらわしたものに過ぎません。
原因があって結果が生じるのではなく、そこに結果があってそれを遡ってみればたまたまその原因となる状況があっただけです。
そもそも、天地宇宙とは真っ平らなものではありません。
変化と抑揚に満ちています。
それを三次元的に見れば、山あれば谷あり、谷あれば山あり、となるだけの話です。
それが自然のリズムであり、天地の呼吸です。
そしてそれはこの世だけにとどまらず、あの世まで連なる循環となっています。
波の無いフラットな状態というのは停滞であり、呼吸が止まった状態です。
波の高きを目指そうとしても、上がれば下がる、下がれば上がるというのが、あの世にまで連なる天地宇宙の法則です。
それを小さく切り取れば、天地宇宙の「他力の風」となりますし、大きく切り取れば「私たち自身の呼吸」となります。
この世に生まれてあの世へ帰る、というのも同じく天地の呼吸です。
ですからこの世で行なったことの波は、あの世へと連なり、来世へと連なっていきます。
波には大きな波もあれば小さな波もあります。
波とはそういうものだと知れば、その波は今世のうちにも数多く味わうことができます。
来世に持ち越さなくても、今世(こんせ)の中でアップもダウンも味わえます。
しかしそれを因縁の消化と言ったり、因果応報と言ったり、正負の法則などと言ってしまうと、たちまち変な色合いがついてしまいます。
本来それ自体には何の意味も定義もなく、純粋に、私たち自身の呼吸そのものに過ぎません。
ただ、水面(みなも)が下がったあとに今こうやって上がっている、水面が上がったあとに今こうやって下がっている、と前後を認識したまま
噛み締めたならば今世は二倍にも三倍にも味わい深くなります。
しかしそれが今世と来世とに分断されてしまうと、その連なりを分からぬままに点でしか捉えられず、その経験は見かけの不平不満だけに
終わってしまいます。
誰かを責めたり叱咤したならば、今度は自分がその経験を味わう。
暇な会社生活を味わったならば、今度はブラックな会社生活を味わう。
お金に窮して苦しんだならば、今度は余裕のある暮らしというものを味わう。
たとえ大きな変化でなくとも、ささやかな変化は誰の身にも起きています。
裏表がほんのわずかばかり入れ替わる。
来世に持ち越さず、今世の中に来世が現れます。
同じ人生の中で生まれ変わったかのような様々な経験を味わえるのは幸せなことです。
実際、私たちは日々の一瞬一瞬を、一から作り直しています。
同じものが続いているように見えても、新しいものが連なっているのが事実です。
常に、今この時も、私たちは生まれ変わり続けているわけです。
そして、そのことを一番に実感できるのが年末年始だと言えます。
大晦日を挟んで何が変わったわけではないはずなのに、まるで生まれ変わったかのように新鮮な気持ちになる。
それは、私たちが「去年」「今年」と切り分けて、昨日までの自分をしっかりと切り離した結果です。
私たちは常に生まれ変わっています。
ただ無意識のうちに昨日の自分を引きずっているためにそれが実感できなくなっているだけです。
新年を迎えて何だかとても清々しい気持ちになるのは、単に気分的なものではなく、真実であるわけです。
そしてそれは何も年末年始にかぎらず、日々の中でも、昨日の自分や、今さっきの自分を断ち切って今ココに100%あれば、私たちはいつでも
新年正月の新鮮な心地になれるということです。
お正月、私たちは当たり前のように、明けましておめでとうございますと言います。
何が明けたかというと、年が明けた。
それでは年が明けると何でおめでたいのかとなると、なかなかそこまで考えることはありません。
でも感覚的に、確かにおめでたい。だから考えようとも思わない。
その答えは、読んで字のごとしです。
一年が終わって、新しい一年がやってきた。
夜が明けて、今日が始まった。
その「明けた」です。
闇が明けた。濁りが晴れた。罪穢れが祓われた。
だから、おめでたいわけです。
私たちは日々生まれ変わっています。
そして今この瞬間にもまた生まれ変わりました。
明けない闇が続くのも、気持ちが濁ってしまうのも、罪穢れるのも、すべて私たちがそれを抱え込んでしまっているからです。
大晦日のように不安やモヤモヤをすべて過去に預けて切り離してしまえば、いつだって元日のような清々しい真っさらな状態になります。
今ココに集中するというのは、一瞬前をそこでリセットさせて完全にリフレッシュすることです。
まさにお正月の、今この瞬間この空間へと身も心も開け放した感覚こそが、本当の私たちに還っている状態であるわけです。
明けましておめでとうございます。
正月三が日なんかでなく、365日、この感覚を大切にしていきたいと思います。
元旦からすっきり爽やかな青空に、身も心もリフレッシュです。
正月だけは、世間の騒がしさや仕事の心配も忘れて、今この瞬間この空間に身も心もまかせきりになります。
何の濁りもない、透き通った軽やかなこの感覚こそが、私たちの本当の状態と言えます。
私たちは生まれながらに自由自在です。
時間にも空間にも縛られていませんし、どんなレールにも縛られていません。
天地宇宙には法則というものがありますが、それは単に現象を表現したもので、私たちがそれに縛られるわけではありません。
少しだけ真面目な話をしますが、たとえば因果応報という言葉があります。
良いことをすれば良いことが返ってくる、良くないことをすれば良くないことが返ってくるというものです。
蒔いた種が生る。原因が結果を生む。
「善因善果」「悪因悪果」、そして理屈としては「普通因・普通果」ということになります。
普通の生活であっても、そこには流れやリズムがあるわけです。
ただ、この説明を聞いても芯の部分でしっくり来なかったならば、それはそのまま素直に受け入れるのが正解だと思います。
とりわけ、良いことをすれば良いことが返ってくるという説明に抵抗を感じたならば、なおさらに。
見た目の「因」を追っても、求める「果」は芽吹くものではありません。
芯の部分がどうであるか、本心がどうであるか、それがそのまま現実世界に結果として現れてきます。
因果応報というのは、過去からの流れがレールのように連なっているというよりも、その流れに乗っているうちに「私たちの」心の状態が
太く大きくなっていき、それが芽吹いたものだと言えます。
つまり、何かをしてしまったらそれでレールが敷かれてしまって運命から逃れられないということではなく、それをやるに至った私たちの心の
状態がそのまま根を深くしていった結果、芽が開いたということです。
ですから、エサに釣られて打算的な行動を取ったり逆算に基づく言動を行なったところで、その根っこに邪(よこしま)な心があれば、それが
そのまま反映させた現実が現れるわけです。
中学生の頃を思い出してみましょう。
校則に合ったきっちりした服装。ぴっちり切りそろえた髪。優等生という形。
それを守ったのは何のためだったでしょう。
怒られたくない。褒められたい。たかだかそんなことのためだったのではないでしょうか。
今なお、良いことが返ってくるのを期待して良いことをしようというなら、その期待している良いこととは何なのでしょうか。
それが安全や自己満足など、相変わらずそんなことであったならば、私たちは中学校の頃と何も変わってないことになります。
子供のころに、規則や決まりに反発して脱線しようと思ったのは幼稚な反抗心などではなく、まさしく本能的なものだったと言えます。
私たちは他の誰でもない、私たち自身です。
その心も、その人生も、すべて自由自在です。
自分で縛ることもなければ、他人に縛られることもありません。
この世とは何をしてもいい世界であり、何でも出来るからこそ私たちはこの世に生まれ出てきました。
あの世は自由度が低く、何もできない世界でした。
あっちの誰にでも逢えるわけでもない。どこにでも行けるわけでもない。何でもかんでも出来るわけではない。
魂に応じて厳密に、出来ることにかぎりが生じる世界でした。
しかしこの世ではそうしたことが無限に自由自在です。
そんな世界に私たちは喜び勇んで出て来ました。
私たちは右にも左にも行けます。
真っ直ぐ引いた一本道に縛られるなんて真っ平ごめんです。
良いことをすれば良いことが返ってくるなんて聞いたら、反射的に心を閉ざすのが当たり前です。
こうすれば悪い結果になるからやめる、こうすれば良い結果になるからそうする、そんなのはもったいない話です。
そんなものは、そうなった時に考えればいい。
悪い結果になったらなったで、その時にショックを受けてオロオロしながら涙をすればいい。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/45630_23908.html
結果を期待した行動や、逆算の行動には、中身が存在していません。スカスカです。
なぜなら「今ここではない何処か」に自分を置いてしまっているからです。
はるか彼方の何処かに心を置く。その瞬間、今ココは消失して私たちはがんじがらめになってしまいます。
天地宇宙というのは「今ここ」そのものです。
私たちは空間も時間も突き抜けて、天地無限に広がっています。
すべては今ここであるわけです。
「今ではない何処か」とは、近づこうとすればするほど離れていく蜃気楼です。
今ココに足をつけて初めて、天地無限へ今ココが広がり、遥か彼方の時空もすべてが今ココと成ります。
私たちは今ココにしか存在しない。
この天地宇宙も今ココにしか無い。
未来も過去も今ココにしか無い。
逆算や打算を考えた瞬間、天地の中心たる私たち自身が失われ、天地はスカスカの張りぼてと化します。
因果応報というのは、現象をあらわしたものに過ぎません。
原因があって結果が生じるのではなく、そこに結果があってそれを遡ってみればたまたまその原因となる状況があっただけです。
そもそも、天地宇宙とは真っ平らなものではありません。
変化と抑揚に満ちています。
それを三次元的に見れば、山あれば谷あり、谷あれば山あり、となるだけの話です。
それが自然のリズムであり、天地の呼吸です。
そしてそれはこの世だけにとどまらず、あの世まで連なる循環となっています。
波の無いフラットな状態というのは停滞であり、呼吸が止まった状態です。
波の高きを目指そうとしても、上がれば下がる、下がれば上がるというのが、あの世にまで連なる天地宇宙の法則です。
それを小さく切り取れば、天地宇宙の「他力の風」となりますし、大きく切り取れば「私たち自身の呼吸」となります。
この世に生まれてあの世へ帰る、というのも同じく天地の呼吸です。
ですからこの世で行なったことの波は、あの世へと連なり、来世へと連なっていきます。
波には大きな波もあれば小さな波もあります。
波とはそういうものだと知れば、その波は今世のうちにも数多く味わうことができます。
来世に持ち越さなくても、今世(こんせ)の中でアップもダウンも味わえます。
しかしそれを因縁の消化と言ったり、因果応報と言ったり、正負の法則などと言ってしまうと、たちまち変な色合いがついてしまいます。
本来それ自体には何の意味も定義もなく、純粋に、私たち自身の呼吸そのものに過ぎません。
ただ、水面(みなも)が下がったあとに今こうやって上がっている、水面が上がったあとに今こうやって下がっている、と前後を認識したまま
噛み締めたならば今世は二倍にも三倍にも味わい深くなります。
しかしそれが今世と来世とに分断されてしまうと、その連なりを分からぬままに点でしか捉えられず、その経験は見かけの不平不満だけに
終わってしまいます。
誰かを責めたり叱咤したならば、今度は自分がその経験を味わう。
暇な会社生活を味わったならば、今度はブラックな会社生活を味わう。
お金に窮して苦しんだならば、今度は余裕のある暮らしというものを味わう。
たとえ大きな変化でなくとも、ささやかな変化は誰の身にも起きています。
裏表がほんのわずかばかり入れ替わる。
来世に持ち越さず、今世の中に来世が現れます。
同じ人生の中で生まれ変わったかのような様々な経験を味わえるのは幸せなことです。
実際、私たちは日々の一瞬一瞬を、一から作り直しています。
同じものが続いているように見えても、新しいものが連なっているのが事実です。
常に、今この時も、私たちは生まれ変わり続けているわけです。
そして、そのことを一番に実感できるのが年末年始だと言えます。
大晦日を挟んで何が変わったわけではないはずなのに、まるで生まれ変わったかのように新鮮な気持ちになる。
それは、私たちが「去年」「今年」と切り分けて、昨日までの自分をしっかりと切り離した結果です。
私たちは常に生まれ変わっています。
ただ無意識のうちに昨日の自分を引きずっているためにそれが実感できなくなっているだけです。
新年を迎えて何だかとても清々しい気持ちになるのは、単に気分的なものではなく、真実であるわけです。
そしてそれは何も年末年始にかぎらず、日々の中でも、昨日の自分や、今さっきの自分を断ち切って今ココに100%あれば、私たちはいつでも
新年正月の新鮮な心地になれるということです。
お正月、私たちは当たり前のように、明けましておめでとうございますと言います。
何が明けたかというと、年が明けた。
それでは年が明けると何でおめでたいのかとなると、なかなかそこまで考えることはありません。
でも感覚的に、確かにおめでたい。だから考えようとも思わない。
その答えは、読んで字のごとしです。
一年が終わって、新しい一年がやってきた。
夜が明けて、今日が始まった。
その「明けた」です。
闇が明けた。濁りが晴れた。罪穢れが祓われた。
だから、おめでたいわけです。
私たちは日々生まれ変わっています。
そして今この瞬間にもまた生まれ変わりました。
明けない闇が続くのも、気持ちが濁ってしまうのも、罪穢れるのも、すべて私たちがそれを抱え込んでしまっているからです。
大晦日のように不安やモヤモヤをすべて過去に預けて切り離してしまえば、いつだって元日のような清々しい真っさらな状態になります。
今ココに集中するというのは、一瞬前をそこでリセットさせて完全にリフレッシュすることです。
まさにお正月の、今この瞬間この空間へと身も心も開け放した感覚こそが、本当の私たちに還っている状態であるわけです。
明けましておめでとうございます。
正月三が日なんかでなく、365日、この感覚を大切にしていきたいと思います。