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出張というか、所要があって一泊二日旅行。重要な用件は滞りなく済ませて、ほとんど観光という感じ。骨休めになったというか、かえって疲れました。温泉地だったのでなんども風呂につかって疲れてしまったのかもしれない。
露天風呂の温度設定がものすごく高くて、冷たい水をかぶって十分に体を冷やして少しつかるということを繰り返すのが、どういうわけだか楽しかった。まあ、サウナの要領なのだろうけれど、汗がたくさんでるのが快感なのかもしれない。風呂の熱に耐えるより、冷たい水がなんとも気持ちいいので、あえて設定温度の不備は指摘しなかった。お陰で他の客が寄り付かないし、快適なのであった。
後で聞いたら、旅館の管理者が来ていろいろ操作はしていたらしいが、結局熱いままだったらしい。掛け流し温泉というのは温度調節がむつかしいものなのだろうか。どんどん水道の水を入れてくださいといわれた(もちろんそうしてあった)そうだけれど、温泉成分が薄まるのではないかとせこい考えが浮かんだりする。まあ、そういうものが皮膚から浸透するというイメージの方が、実はたいしたことがないような気もするのだが…。少なくともたくさんの水量がどんどん湧いているという感じが、なにより気分がいい。そのもったいなさが、気分を和らげているのではあるまいか。
風呂から上がって旅館の脇の排水溝を覗くと、ゴウゴウという音とともに大量の湯がどんどん流れていく。回りの温泉からのお湯も合流して、まさに盛大という感じだ。先の方には水田が広がっているのだけれど、稲は温泉でもだいじょうぶなのだろうか。水温が高いのはいただけないという話を聞いたことがあるので、別の水路から水を取り込むのかもわからない。温泉の排水で熱帯魚を飼うなんてこともありかもしれない。そのまま流れて捨てるには、やはりもったいないような気がしないではない。こういうところは水不足というのは心配ないのだろうか。やはり、水(湯)というのは、豊かさの象徴なのかもしれないなあと思った。
しかしながら、それなりに楽しかったのだけれど、こういう気分は家族で体験したいなあと切に思う。家族とはこういうゆっくりした時間を持つことがなかなかできない。仕事の合間とはいえ、仕事関係で遠出すると、時々こういう時間ができたりする。それはそれでいいのだが、微妙な罪悪感というか、本当の開放感というものを感じなくなってしまった。子供をつれてきたらもっと喜んだだろうなあ、と考えてしまうのだ。ちょっとした観光地などを紹介してもらっても、自分が楽しむというより、下見感覚でここなら面白がるかも、とついつい思う。もう自分が楽しいは必要ない(少なくとも一番重要ではない)という気がする。人が楽しいというのがなにより自分の喜びだ。今回回ったところの何分の一かでも子供をつれてこられたら、ずいぶん愉快だろうと思った。