子供が地理の勉強をしている。ヨーロッパの国の国土と人口を比較しているようだ。日本と比較したらどうなるか質問してみる。日本より国土が広くて人口の多い国はどこだろう。
「ポルトガルは大きそうだな」といって調べる。「あれ、小さいぞ」
「ドイツは大きいだろう」といって調べる。しかし、ドイツもたいしたことなかったようだ。
「先生は、日本は小さな島国といっていたよ」という。僕もそんな話は聞いたことがあるな。しかし、事実はそうじゃない。
本当のことを言っても、そう簡単には偏見は変わらない。そういうことも知っている。自分だけが理解していればいいことだとおもう。
物事の正しさとはなんだろうと思うことがある。ひとつ絶対的にいえることは、絶対的に正しいということはないだろうということだ。まあ、そういう議論はどうでもいいか。
文系の人は過去の文献を引っ張ってきて議論することが多いような気がする。まあ、そういう作業も物事の確認には必要なのだろう。間違った手法ではないとは理解している。
しかし時々、こういう学者が言ったことで、というようなことを言い出す人がある。これはいけないと思う。権威を借りて正しいかどうかを判断するのは、正しいという尺度とは外れることだ。
理系の人には、それが少ない。僕にはそういう判断に、安心感を覚える。信用という点で、信頼しすぎず、慎重になる。容易に正しいと思っていないし、今後も正しいと確定し続けるわけでもない。確率的にいくらか負荷があるな、という程度。それが分かればいいのではないか。
しかし、数字はやはり強いなあ、とは思う。日本は小さな国という文学的事実は、ちゃんと比較することによって文学性を失う。感情は文学でいいが、事実は文学では困ると思う。もちろん嬉しい悲しいも事実なんだか、混同して普遍化すると厄介だ。
やはり、自分だけとりあえず理解するといいだろう。そういうことができる大人になって欲しいと思っている。いや、もともと子供だからできることを、変な成長で失わないで欲しい。
しかし人間の社会性というものは、もともと持っているものを失いすぎて、獲得されるものなのかもしれない。これは分かりにくいことだろうけれど、特に日本で生きにくいことを思うと、それはそれで確かにあることだと思う。
日本が小さな国と思っているほうが、子供のしあわせなのかもしれない。僕は余分なことをしているだけなのであろう。
「ポルトガルは大きそうだな」といって調べる。「あれ、小さいぞ」
「ドイツは大きいだろう」といって調べる。しかし、ドイツもたいしたことなかったようだ。
「先生は、日本は小さな島国といっていたよ」という。僕もそんな話は聞いたことがあるな。しかし、事実はそうじゃない。
本当のことを言っても、そう簡単には偏見は変わらない。そういうことも知っている。自分だけが理解していればいいことだとおもう。
物事の正しさとはなんだろうと思うことがある。ひとつ絶対的にいえることは、絶対的に正しいということはないだろうということだ。まあ、そういう議論はどうでもいいか。
文系の人は過去の文献を引っ張ってきて議論することが多いような気がする。まあ、そういう作業も物事の確認には必要なのだろう。間違った手法ではないとは理解している。
しかし時々、こういう学者が言ったことで、というようなことを言い出す人がある。これはいけないと思う。権威を借りて正しいかどうかを判断するのは、正しいという尺度とは外れることだ。
理系の人には、それが少ない。僕にはそういう判断に、安心感を覚える。信用という点で、信頼しすぎず、慎重になる。容易に正しいと思っていないし、今後も正しいと確定し続けるわけでもない。確率的にいくらか負荷があるな、という程度。それが分かればいいのではないか。
しかし、数字はやはり強いなあ、とは思う。日本は小さな国という文学的事実は、ちゃんと比較することによって文学性を失う。感情は文学でいいが、事実は文学では困ると思う。もちろん嬉しい悲しいも事実なんだか、混同して普遍化すると厄介だ。
やはり、自分だけとりあえず理解するといいだろう。そういうことができる大人になって欲しいと思っている。いや、もともと子供だからできることを、変な成長で失わないで欲しい。
しかし人間の社会性というものは、もともと持っているものを失いすぎて、獲得されるものなのかもしれない。これは分かりにくいことだろうけれど、特に日本で生きにくいことを思うと、それはそれで確かにあることだと思う。
日本が小さな国と思っているほうが、子供のしあわせなのかもしれない。僕は余分なことをしているだけなのであろう。