カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

書いてみると落ち着くこと

2024-01-21 | 雑記

 なんだかちょっと書き過ぎているんじゃないか、という思いはある。でも書いているとなんだか落ち着くのである。忙しい合間にちょっとしたメモをしたためて、これはなんだかまとまりができそうだという予感があると、ちょっと単語を弄んでいく。そんな感じで書きだしたとしても、意外とそのままスルスル書けてみたりする。自分でも妙な感覚なんだが、そうしていると気分がいいかもしれない。いちおう推敲するのだけど、思い切って削ってみても意味は十分通じるな、と思うと、それはもうバッサリ切ってしまって構わない。むしろ付け足していくときりがないように文章は膨らんでいくもので、ときどき切らなくては仕方がない。そうやって切ったハッタをして、だいたい1000字くらいの塊ができる。また後日見返すことにはなるけれど、それでまた削って足してとやってみても、やっぱり千字ちょっとという感じだろうか。それより多くなりそうだと、別のテーマに発展して、そうしてまた別のワードを開いて書いたりする。そういうことを繰り返していると、もう来月の中旬くらいまで書いているものが溜まったりする。それはそれでいいんだけれど、その時に思う僕の気分というものは、今の僕の気分とは違うような気がして、不安になる。もちろんあんまりタイムリーなことを書かなければそれでいいので、特に普遍性を狙っているということは無いが、だからと言って生きているうちのことに過ぎない時代性が書いていることにはあるはずで、先のことなどあまり考えたくないのである。それに実際のところ、先のことなどまるで分りようが無いのである。気にならないということではなくて、考えても仕方ないと思うのだろう。
 それでも書いているというのは、やはり今の自分を知ることなのだと思う。自分の考えていることは、漠然とは自分でもわからない。映画を見たり本を読んだりして感想を持つと、それと同時に自分のことも考えている。僕はあの場面は感心しないとか、こういうことを書いてるけど、ちょっと違うんじゃないかとか、勝手に怒ったりするところは、やはり気になるところでもあるんだろう。同時にこれは面白いな、とか、こういう考え方や組み立て方があるんだな、というのを発見させられたりすると、心の底から嬉しくなってくる。そうしてそういう気分も書き留めておきたい。そういう感情が逃げ出したりしないことは分かっているんだけど、どうにもこうにも、そうしないと落ち着かないのである。
 年末年始というのは、どういう訳かいろいろと面倒なことが重なったりして、もちろん楽しいことも含めてあるのだけれど、まどろっこしくも書けない時間がある。そうすると、やはり何か吐き出してしまわないといけないような気分に襲われてしまう。しかしうっかり書きだしたりしたとしても、もう少しまとまる予感の前に時間切れで、次のことへ手を付けなくてはならなくなることがある。でもまあたとえそうであったとしても、その断片でも書き留めておいて後でみると、なんだかその時のヒントで気持ち的に片付いたことがあるかもしれないな、と思ったりする。全部のまとまりを欠けたとしても、それはそれでいいのである。自分の考えている全貌は、やはり自分では正確にわかり得ない。そういうことをがわかるだけでも、ずいぶん儲けものではないか。実際のところ、何が儲かったのかさえ、よく分からないのだけれど……。
コメント
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