カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

かなり居心地が悪い対話   対峙

2024-01-30 | 映画

対峙/フラン・クランツ監督

 確かに映画なのだが、そのほとんどは、テーブルを囲んで座った二組(要するに四人)の夫婦の会話で成りたっている。設定としては、6年前に起きた学校での爆弾と銃を使った虐殺事件の、被害者の親と加害者の親が向き合って話をするというものである。事件の被害者は10人で、そうして犯人の少年も自殺している。
 当然被害者の親は大きな衝撃を受け、心の傷も深い。何故快活で何の罪もない息子が、殺されなくてはならなかったのか。ずっとカウンセリングを受け、6年の月日を経て、加害者の親と向き合うという段取りまでになったということだ。
 一方の加害者の親も、実際のところ息子がこれほどの事件を起こすとは考えていなかった。そうしてそれを止めることができなかったことにも、自責の念を抱いている。ただし、事件を起こしたとはいえ、その事件のさなかに自殺しており、親として子供を失った喪失感を抱えていることも事実だ。しかし世間からは激しく叩かれた上に、教会からミサを上げてもらう事すら叶わなかった。生活は崩壊し、そこに住むこともできなくなってしまったようだ。今は何とか生活は立て直している様子だが、事件において深く悲しみ傷つけられたことには変わりないようだ。
 会話は、当初から穏やかに進められていくが、お互いの言い分や、当時の背景となる物事も、だんだんと明らかにされていく。しかし不穏な空気が流れだすのは、実のところ事件を起こした少年の異常性を、もっと率直に聞きたいという被害者の思いに出てくる。そうでなければ、どうしてこんな事件を起こせたというのだろう。そうして、無残にも殺された息子が、ただ消えて無くなったということに過ぎなくなってしまうのではないのか。
 しかし加害者の親としては、ゲームに熱中する子供であったとしても、学校の成績は悪く無く、また、ゲームを通じての子供同士の友人もできて、多少の問題はあったとしても、まさか大きな事件を起こすほどのこととは、認識していなかったのである。言い訳をしたいということではない。しかしいじめられていたり、社交性のある子供ではなかったのは確かでも、子供に深い愛を感じていて、生まれてこなかった方が良かったとは、やはり考えられないということなのかもしれない。
 あまりに重たい状況だし、現実にこのような対面が成り立つものなのかどうかも分からない。少なくとも日本だと、一方的な謝罪の上に、加害者の親が何かを語ることすら許されるものではないかもしれない。そういう意味では、ある意味で寛大さと実直さの見える話なのかもしれない。そうして、大きなドラマが、会話の中から生まれてくるのである。
 演劇的な要素が強いのだけれど、しかし力のある物語である。観終わってみると、そういう事にしかなりえないのかもしれないとさえ思う。それはそれで、大変な葛藤なのだが……。
 骨太すぎて、かなり疲労する感じもした。是非とも体力の状態のいいときに、対峙して欲しい作品と言えるかもしれない。原題はMassで、宗教的なミサの儀式の意味が含まれているようだ。ちょっと意味は分かりかねるが、教会が舞台であり、宗教的な意味が無視できない題材であるのは、間違いないと思われる。あちらの人の感じられると思われる深い感動は、そういう素地の上であるのも、理解しておくべきかもしれない。
コメント
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