論語入門/井波律子著(岩波新書)
論語の解説本はこれまでにも何度か手に取ったことはあって、おそらくだがこの本でも、それらのものとの重複は多数あったのだろうとは思うのだが、改めてこのような解説本を読んでみて、ずいぶん忘れているものだな、というか、新たな感銘があるのである。そもそも古典というのは、そういう風に繰り返し読まなければならないものではあると思うが、いつも集中して読むわけではない人間なので、そのような周期でもって、孔子様のお言葉に浴せなければならない。
孔子さんは紀元前に生きた人だが、それでも古典を愛し勉強し続けていた。今の時代と違うところが多いので一概には言えないが、別段農業などをして働いて食っていた訳ではなさそうで、いわゆる当時の諸国の王様などに仕えてみたり、行事等で儀式をしてみたりすることの謝金のようなものだとか、よく分からないが弟子などが何処からか稼いできたお金を原資に、集団で暮らしていたのかもしれないと思われる。孔子に出資するような人々がいるような感じもあって、孔子さんが凄い人だと認める人が多いからこそ、毎日祭礼のようなことをして修行をし、勉強を続けていたものだろう。論語というのは、自ら記した書物では無くて、孔子さんの死後、弟子たちが孔子さんの言葉などを中心にして書き残したものであるらしい。ひょっとすると、何度も書き直されて今に至るのではなかろうか。
この入門書から浮かび上がる孔子さんとその弟子たちとのやり取りから、孔子さんという人物の、実に魅力的な姿が分かるようになっている。ほんの短い文章の中から、これだけ豊かな解釈ができるということに、本当に驚かされることになる。古典的な中国語の表現から、当時の様々なことが分かるのである。もちろん、古くから、多くの人から、何度も読み解かれた内容なのであるから、実際には細かい部分で意見の分かれる解釈があるらしいのだが、そうであるからこそ、著者はどう読んでいる、ということが書いてある訳で、なるほど、孔子様の言葉を聞くということは、聞く側の姿勢にも、実に大切な構えのようなものが必要なのだということが分かる。そういう事が古典を読むということの醍醐味なのだろう。そうしてそれは、物事を学ぶということの基本でもある訳だ。論語を読むというのは、論語だけを読んでいるという事では無くて、そのような物事の背景を含めて読むことになる。おそらくそれは、孔子さんが勉強していた姿勢とも通じる教えなのかもしれない。