最後の決闘裁判/リドリー・スコット監督
舞台は14世紀のフランスで、戦友と思っていた男(しかしなんとなく本当には気に食わぬ仲である)から妻を強姦されたものの、相手はそれを認めなかったので、名誉のために命を懸けた決闘による裁判をする、という無茶なことをした当時の記録をもとに作られた映画。三部構成になっており、最初に事の顛末として夫である騎士の視点から。二部目は、強姦した男からの視点。三部では、強姦された女性からのもの。羅生門のようにそれぞれの視点からの真実、というとらえ方もあるのだろうが、あくまでも一部と二部の視点は、それぞれが決闘理由にしてまでも、相手のことを嫌っていたことの伏線である。そもそも二人は、戦闘において、命を助け助けられたというきっかけがあって親友という美談の中にあったのだが、実はお互いそりが合わないし、実生活においては、お互いに許しがたい仲にあったということになる。それは夫である男は単にせこい守銭奴で、妻を自分の後継ぎを作るための道具くらいにしか思っていない。しかし美人なので、他人には自慢をしているだけである。本当は妻の出身の家からの持参金や土地が目当てだったのだが、実は妻の実家は借金で困窮していて、自分が思っているほどのいい土地を譲り受けることができず、悔しがっていた。
一方の強姦男は、美男でそれなりに頭が良くて、貴族社会でうまく立ち回れるキザな人間なのだが、自尊心が高く、女からは当然好かれる存在だと思っていたからこそ、嫌な友人とはたいして夫婦仲も良く無かろうと勝手に考え、自分の性欲をその美しい妻に求めて犯行に及んだものであった。また、当時の女性というのは男性の所有物であり(中世の貴族の話ですけどね)、そのような罪を犯したとしても、場合によっては大して罪にならないことを、おそらく事前に知っていたのだろうと思われる。実際に後半になって、この罪を告白した妻が、大変な窮地に陥ることになるのである。まったく不条理な世界だ。
この映画では、女性である立場が、ただ単に女性であるというだけで、徹底的にいかにむごい仕打ちを社会的にされるのか、という世界が描かれている。中世の史実をもとに描かれた作品だが、何故現代でこのような作品が作られたのかという意味を、否応なく考えさせられる構成になっている。現代ではこういうことはあり得ない訳だが、いや、しかしおそらくだが、現代であってもなお、女性として被害を被った人間に課される拷問が、いかようなものかということを語っているのかもしれない。命がけで戦ってもなお、誰も味方にはなってくれないばかりか、社会の中にある他の女性すら、自分の苦しみや痛みを、単なる娯楽として楽しもうとさえしているのである。
ひどいむごさを描いた作品だが、正義の前に敗れた(単に戦いに負けて殺されたというだけだが)人間のはかなさも描かれている。本人は死んだのだから知らないことだが、正義に敗れた家門というものも、傷ついたに違いないのである。
リドリー・スコットは初期作品でも、決闘を描いた傑作がある。それは相手から一方的に恨まれ、仕方なく命を懸ける物語だったが、それはあくまでも男としての不条理だった。しかしながら本作品においては、圧倒的なスケールと迫力のある娯楽作でありながら、男としての価値というのは、いかにちっぽけで人々を不幸におとしめるのか、ということまで描いている。中世は終わり現代になったが、果たしてその不合理というものは解消されたのだろうか。残念ながら、人間である以上、そのようなものを抱えながら生きていくよりほかに無いことを、事実は示している。人間というのは、なんと恐ろしい生物なのであろうか。