カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

女性に生まれると受ける不条理   最後の決闘裁判

2024-01-16 | 映画

最後の決闘裁判/リドリー・スコット監督

 舞台は14世紀のフランスで、戦友と思っていた男(しかしなんとなく本当には気に食わぬ仲である)から妻を強姦されたものの、相手はそれを認めなかったので、名誉のために命を懸けた決闘による裁判をする、という無茶なことをした当時の記録をもとに作られた映画。三部構成になっており、最初に事の顛末として夫である騎士の視点から。二部目は、強姦した男からの視点。三部では、強姦された女性からのもの。羅生門のようにそれぞれの視点からの真実、というとらえ方もあるのだろうが、あくまでも一部と二部の視点は、それぞれが決闘理由にしてまでも、相手のことを嫌っていたことの伏線である。そもそも二人は、戦闘において、命を助け助けられたというきっかけがあって親友という美談の中にあったのだが、実はお互いそりが合わないし、実生活においては、お互いに許しがたい仲にあったということになる。それは夫である男は単にせこい守銭奴で、妻を自分の後継ぎを作るための道具くらいにしか思っていない。しかし美人なので、他人には自慢をしているだけである。本当は妻の出身の家からの持参金や土地が目当てだったのだが、実は妻の実家は借金で困窮していて、自分が思っているほどのいい土地を譲り受けることができず、悔しがっていた。
 一方の強姦男は、美男でそれなりに頭が良くて、貴族社会でうまく立ち回れるキザな人間なのだが、自尊心が高く、女からは当然好かれる存在だと思っていたからこそ、嫌な友人とはたいして夫婦仲も良く無かろうと勝手に考え、自分の性欲をその美しい妻に求めて犯行に及んだものであった。また、当時の女性というのは男性の所有物であり(中世の貴族の話ですけどね)、そのような罪を犯したとしても、場合によっては大して罪にならないことを、おそらく事前に知っていたのだろうと思われる。実際に後半になって、この罪を告白した妻が、大変な窮地に陥ることになるのである。まったく不条理な世界だ。
 この映画では、女性である立場が、ただ単に女性であるというだけで、徹底的にいかにむごい仕打ちを社会的にされるのか、という世界が描かれている。中世の史実をもとに描かれた作品だが、何故現代でこのような作品が作られたのかという意味を、否応なく考えさせられる構成になっている。現代ではこういうことはあり得ない訳だが、いや、しかしおそらくだが、現代であってもなお、女性として被害を被った人間に課される拷問が、いかようなものかということを語っているのかもしれない。命がけで戦ってもなお、誰も味方にはなってくれないばかりか、社会の中にある他の女性すら、自分の苦しみや痛みを、単なる娯楽として楽しもうとさえしているのである。
 ひどいむごさを描いた作品だが、正義の前に敗れた(単に戦いに負けて殺されたというだけだが)人間のはかなさも描かれている。本人は死んだのだから知らないことだが、正義に敗れた家門というものも、傷ついたに違いないのである。
 リドリー・スコットは初期作品でも、決闘を描いた傑作がある。それは相手から一方的に恨まれ、仕方なく命を懸ける物語だったが、それはあくまでも男としての不条理だった。しかしながら本作品においては、圧倒的なスケールと迫力のある娯楽作でありながら、男としての価値というのは、いかにちっぽけで人々を不幸におとしめるのか、ということまで描いている。中世は終わり現代になったが、果たしてその不合理というものは解消されたのだろうか。残念ながら、人間である以上、そのようなものを抱えながら生きていくよりほかに無いことを、事実は示している。人間というのは、なんと恐ろしい生物なのであろうか。
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替え芯を買うのはたいへんだ

2024-01-15 | 感涙記

 年賀状のあて名は、主にボールペンで書いている。万年筆の質感のある文字の書ける、ちょっと高級なのも持っているのだが、これのインクが切れていた。そういえば昨年書いていてインクが切れて、そのままにしていたかもしれない。どうして替え芯を買わなかったかは失念したが、せっかくだからアマゾンでクリックした。しかしながら今あて名を書いているので、これでは間に合わない。このペンほどではないけれど、ちょっとした書き味の質感のあるものでは、ぺんてるのエナージェルというボールペンが何となく気に入っていて、これで今年はいくことにした。
 ということで調子よく書いていたのだが、なんとこれも途中でインクが切れてしまった。三色ボールペンなのだが、黒でないとあかんよな、と思って、これもアマゾンでポチる。しかしながらあて名は書き続けなければならない。ちょっとジェットストリームで書き始めたが、書き味はいいものの(だから普段使いはこれが主である)、この種類は数十本もっていて、今の気分のものは、あまりにも普段使いのものになっていて、ちょっと適当感が無い。
 途中で電話があって内容を電話のそばのメモ帳と、それに付随しているボールペンで書いていると、なんと、これも書いている文字が薄くなってきた。まもなくインク切れである。こんなに偶然のようにインク切れが続くなんて変だな、とは思ったが、なんとたくさんストックしてあった替え芯も、一本だけしか残っていなかった。赤は数本あるし、青ときたら10本くらいは替え芯がある。ではでは黒のみ替え芯のストックを増やせばいいと思って、やはりアマゾンで探してポチッた。
 顛末はそういう事だったのだが、翌日に早速替え芯が届けられた。見て、おやッと思ったが、サイズが違うのだ。エナージェルの三色でないボールペン用の替え芯だった。少しだけサイズが違って、使えない。なんだかもったいないな、と思ったら、また郵便屋が来て、今度はジェットストリームの替え芯も届いた。そうしたらなんとこれもノック式用の、ちょっとだけ型が違う替え芯だったのだ。なんという事だろう。これも使えない。
 しばし考えたが、それならこの替え芯用のボールペンを買えばいいではないか。ということで、もともとほしかった替え芯の規格を子細に見直して買い直したうえに、ノック式の単色のボールペンも二本買い足したという訳である。ちくしょうという気持ちもあったのだが、要するにそういう気分をとにかく無しにするには、買うより仕方ないではないか。
 で、まあちょっと残りのあて名書きの仕事が数枚残っていて、これはサインペンで書いた。サインペンで書いてみると、これはこれで調子がいいというのも分かって、こういう調子で以前は筆ペンよりサインペンで書いていた時代があったな、とも思った。別のメモ帳に漫画を描いてみたりして遊びながらあて名書きをして、これ一本しかサインペンが無いのが惜しいような気分になって、いちおうアマゾンで検索したが、なんとか思いとどまった。これはふつうに文房具屋に行って、書き味を試したうえで、買い足そうと思ったからである。そう考えると替え芯問題とはちょっと別のようにも思われるし、この勢いのままネットで買い物するのは危険かもしれない。それにもう、つまるところ、来年の年末にならないと、本当には役立たないことなのだろうから(※つまり今年の年末のことだけど……。これを書いたのは昨年末のことでした)。
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狂気の人は、自分で転落を選ぶのか   TAR/ター

2024-01-14 | 映画

TAR/ター/トッド・フィールド監督

 ターというのは人名で、女性指揮者としてベルリン・フィルに君臨する人物を描いたもの。女性であるが、いわゆるタチの方の人らしい。パートナーの女性の妻がいて、子供も育てている。そもそもたいへんに才能のある人のようだが、指揮者としての能力と共に、権力欲も強く自己顕示欲も強い。そうして浮気もする。そういう中にあって、自分の思うように人を使い、そうしてある人物を追い込んでいって、そのことで頂点にある立場から、ずいぶんと不味い状況に追い込まれていくのだった。
 単調だし面白い映画では無いし長いのだが、なにかいろいろと仕掛けが隠されていて、示唆的である。ちょっとした笑いもあるはずで、しかし笑えない。妙なことが起こっていることは分かるし、一定の格調もあり、狂気が潜んでいるのは間違いない。そういうところは演技として非常にリアルで、ざらざらした質感と共に、妙に心に引っかかるものがある。それは主演を演じ切っている女優の力量によるところが大きいが、その為の演出に傾倒している映画作りが、そもそもの主眼にあるのだろう。ある意味で圧巻であり、打ちのめされる。ただし、そんなに面白くは無いが。
 実在の人物ではないし、背景もまるで違うのだが、やはりこの映画を観る限り、カラヤンのような指揮者を思い出してしまう。何もかも支配的で傲慢で、さまざまなトラブルを巻き起こしてしまう。しかし本人の才能は間違いなく素晴らしい。けれど人間的には、果たしてどうなのだろうか。
 何もかも支配するからこそ出来上がる芸術もあるのかもしれないし、あるいはそれ以外の人間社会にも、当てはまるようなこともあるのかもしれない。だからこそ、必ずしもいい人間とはいえないまでも、そういう人物に惹かれるものを感じる人も多いのかもしれない。僕はそうでは無いが、まあ、このような破滅の人生は、まっぴらごめんである。映画の中の人物ではあるにせよ、そのように生きざるを得ない立場というのは、いったいどういうものなのだろう。有り余る才能は、努力にも支えられているには違いないが、なにかその努力を支えるために、自分自身を崩壊させる何かが潜んでいるのかもしれない。それはよくは分からないが、人間が持っているサガのようなものなのだろうか。

※ この映画は批評家をはじめ、多くの映画ファンにとっては、非常に、それこそ圧倒的と言える支持をもって高い評価をされている映画である。それは観たうえで分かってはいるのだが、しかしはっきり言うと、まあ、それほどではない。映画を観続けている人のそれなりの多くは、逆説的に勘違いしやすい傾向というものがある。そういう人たちに向けて作られていることは確かそうではあるのだけれど、だからこそと言えるかもしれないが、こういう映画が高く評価がされてしまうことを残念に思うのかもしれない。せめて、限られたお好きな人向け、という正直なところを、基準的な評価にしたいところである。
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飛行機での共に移動は難しい

2024-01-13 | 感涙記

 羽田空港の滑走路での事故では、海上保安庁の乗組員5名もの命が失われるという大惨事となった。機体が炎上したもののJALの乗客は全員助かったというのは幸いだという事でも話題になったが、しかしながら貨物とともに運ばれていたペットの2匹も犠牲となった。(そのうち少なくとも一匹の犠牲は猫だったようだが)その犠牲を悼む声が多く寄せられ、議論にもなったという。
 この事故の場合、致し方ないという意見もある一方、ペットも機内に持ち込めるようにすべきではないか、という声も少なくなかった。ゲージに入れるなど、諸条件はあるものの、ペットも乗客と共に受け入れる航空会社は海外には存在するらしい。日本でもこれからというところはあるようで、ただし緊急時脱出の際には、ペットを連れて逃げることは、禁止であるそうだ(それなら今回に照らすと意味が無いけれど、おそらくだが、手荷物に預けるという感覚からは逃れられるサービスということだろう。さらに一緒に機内で過ごせる安心感もある)。禁止されても、置いて逃げる人がいるのかは、かなり疑問だけれど……。そんなことをしてペットを失ったとしたら、その人の心の傷は、一生癒えることは無いだろうから。
 人命第一という考え方とすると、ペットがいるために誰かが犠牲になる可能性や議論から、いったんは逃げるための論理とは考えられる。ペットが助かったために誰かが死んだという証明も難しそうだが、そのような処置を許したために、自分の家族が失われたと考えるような遺族が将来出るのかどうか、ということかもしれない。そもそも乗客の中には、ペットの持ち込み自体に不快感を抱く人もいるだろうことを考えると、ペットの命以前の問題ということの方が、前提条件としては強そうだ。ペット持ち込み可能な便と人間のみの便と区別すべき、という意見も成り立ちそうだ。しかし経済的でないので、不合理だが。
 元々ペットを飼っている人の感覚からすると、ペットを貨物として扱われることの不快感が根っこにあるのだと思う。ペットと共に旅行をするというのは、今や普通の感覚だろうと思うが、しかし泊まれるホテルの問題など、事前にいろいろと考えておくべき課題は多い。飛行機の移動になると、そのことを考えて、ペットをペット用ホテルに預けるなど(親しい友人に預けるというのもありそうだけど、今やそういうサービスがあるので、却ってそうしづらいところもある)、というのが一般的だろう。やむなき事情が無い限り、自分とともに暮らしているペットを貨物で送る感覚の方が、なにか釈然としないものがある。そこにこのような痛ましい事故が起こり、あの場合だと救助なんて不可能だとわかりながらも、貨物扱いにされた上に命を失ってしまった悲しさが、倍増したのではないだろうか。
 実を言うと以上のような経過を書く前に、ペットが助からなかったというニュースを読んで、訳の分からないまま死んでしまったペットがいたことに、本当に心が痛んだ。その後にやはり同じように感じただろう人々の経過を知ったのである。不謹慎を承知で書いてしまうと、自分の飼っているペットのこともあるせいだと思うが、人の死よりもペットの犠牲の方が、我々にとっては重たいニュースなのである。おそらくだけれど、このニュースを知った後に、やはり飛行機でペットを共に移動することを、今後は断念する人が増えるのではないだろうか。海外に移住するというのならともかく、それくらいこの事件の衝撃は、人々の考えを変えてしまったと思われるのであった。
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顔は違って心は一緒   絶対の愛

2024-01-12 | 映画

絶対の愛/キム・ギドク監督

 付き合って数年になるカップルがある。男は時折きれいな女性に目移りするようなことがあり、女の方はそれで不安になる。セックスもマンネリになるというか、元気にならない時がある。それで他の女のことを考えていいと提案してセックスすると、他の女のことを考えてやったことに怒りを覚える。自分の顔に飽きられたのかもしれないと考えた女は、整形のため姿を消す(術後落ち着くまで時間がかかるようだ)。男は消えた女を探すが、住んでいた場所も既に引っ越していて行方も分からない。男は写真家のようで、以前女と遊びに来たことがある彫刻の公園のようなところに行く。そうして少し気になっていた女性と新たに付き合うようになる。その女というのが、実は整形した元の女だったのだ。だが、男は元の女のことが忘れられず、新しい女とは別れてしまうのだった……。
 いったい何という話なのだろう、というギドク作品ならではの味わいである。女優や男優が違うので、実際は別人なのだが、いちおう整形して別人になったということになっていて、観ていても戸惑う。本当にその人の変わり果てた姿なのか。演技かもしれなくて、観ていて自信が揺らぐ。映画の中の人物たちもそうであって、もう何もかも信用できなくなる。彼らはいったい何を自分の中に描いて、そうして相手に訴えたがっているのだろう。
 実際のことを考えると、声の感じでもわかるだろうし、映画でもやっていたが、手を握っただけでもだいたいの感じは分かるはずである(似たような人はいるかもしれないが)。匂いもあるし、それに映画のようにセックスまでやってしまうと、それは分からない方が変ではないか。疑心暗鬼になって嫉妬して混乱するというのは分からないでは無いが、だからと言って見ず知らずの嫉妬の対象を罵ってみたり、さらに彼氏に黙って失踪し、整形して別人になって愛してもらうというのは、行き過ぎもいいところである。まあそれが映画であり思考実験でもあるのだから、面白くなるわけだが。
 映画では整形して別人になるのだが、確かに最初の女の印象が、整形によって揺らいでいくような感覚があった。そもそもそれほど変な顔の女優さんでは無かったし、整形の医者からも、特に整形の必要が無いと言われながら整形する訳で、要するによりきれいになるために整形しているわけではないのである。そういうあたりがおそらく実際の整形手術が行われる実態とは違う訳で、別人になるのが目的であるのならば、自分への愛が揺らいでも当たり前なのである。要するに、実験する前にわかり得た命題であるようにも思える。しかしやってしまうと取り返しがつかないので、表面的には変化した人間同士付き合うよりない。それはそれでいいとも思うが、さてどうなんでしょうね。
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今年も食べました

2024-01-11 | 

 正月は、やはり暴飲暴食をしていた。うちの場合は少しだが人が集まるので、つれあいは準備で大変である。彼女は正月や盆をほとんど憎んでいる。そんなものが無ければ、大変な思いをしなくて済むはずなのに……。だったらおめえがなんとかしろよって問題は、残念ながらそう簡単ではない。いったんは別で論じるべき問題ということで、すいません。
 では一体何を食べているのか、ということにもなるが、なんだったっけ? そうだ、今年もカニをたくさん食べた。実際には正月の集まりが終わって、せっかくだから残ったものを、たらふく食べた。ほとんどこれは夢中であって、これが正月の体重のだめを押すものだったはずである。カニはそれでも食べることが可能な食材で、買った場所での違いがあるのか、多少パサつくものとしっかり身のうまみがあるものとがあって、しかし結局そういう事にはかまわず食べた。ハサミを使ったり、身をこそげ落とす道具も使って、ちょっと休んではまた食べ出して、もう酒でさえ飲んでも酔いが回らないくらい食べた。他に鰻なんかがあって、食べなければ捨てるだけだからもったいない、という意識がありながら、それはもうどうでもよくなってしまった。
 他に何を食べたかというと、皿うどんを食べた。これは家庭で作られたもので、今回は都合で固麺であった。しかしこれはじきに柔らかくなって、最初のパリパリはもちろん前日の昼までのことであり、その後はひたすら柔らかくなったものを食べた。エビやウズラの卵がたくさん入っていて、これはもうそういうものを食べなければならない。ちょっとだけソースをかけて食べたが、僕の場合あまり皿うどんにはソースを掛けない。焼きそばでも掛けないし、目玉焼きにも掛けない。それとは別だよ、って言われるかもしれないけれど、皿うどんにもやっぱりあんまり掛けない。そういう感じの味が好きなのかもしれないし、たくさん食べるには、そうした方がいいような気がするのかもしれない。
 数の子は好きでこれはビールを飲み始めて、ワインを飲んで、焼酎を飲んでいるときにも、中間でポリポリいただく。時折ほんとに旨いなあ、と思ったりするが、ほとんどは無意識かもしれない。これと色が似ているだけのことだが、からしレンコンもつまむ。これは酒と合うせいだが、ということは、たぶんごはんにも合うはずだ。でもまあ酒を飲むときに食べることがほとんどなので、ご飯と合うのかはよく分からない。
 寿司や刺身は当たり前だから端折るのだけど、今年はあんまり寿司は食べなかった気がする。天ぷらもあんまり食べなかった。他のことに熱中でもしていたのだろうか。
 あんまり意識はしていなかったが、かまぼこを昆布で巻いたのも結構食べた。五島かどこかのものだと思うのだが、定かではない。少し昆布のとろみが口の中に残って、そういうのも楽しいかもしれない。
 母が熱中して黒豆を食べていて、これは頂いたものだという。普段は僕は基本的に黒豆は好まないのだが、これを少しつまんでみて、あまり甘くなく、そうしたらいくつも頬張っていた。なるほど、黒豆もおいしいものがあるのか、と思った。色合いがきれいなので並べてあるものとばかり思っていた。認識を改めなければならない。
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古き良き時代を振り返る   七人樂隊

2024-01-10 | 映画

七人樂隊/サモ・ハン、アン・ホイ、パトリック・タム、ユエン・ウーピン、ジョニー・トー、リンゴ・ラム、ツイ・ハーク監督

 七つの物語のオムニバス映画。約15分ちょいの物語が七つなので、解説しようにもそれぞれ違う。何か共通テーマがあるとしたら、古き香港の記憶かもしれない。古くないのもあるのだが……。
 香港というのは、中国とはちょっと趣が違って、僕らの印象としては、日本よりずいぶん自由だという気がしていた。していたのだが、この映画を観る限りだと、やっぱりアジアンというか、日本的家父長制度の名残が見える。不条理な感じの話もあるものの、やはり少し前の時代、それもほぼ僕の若かった時代のこともあって、妙な感慨も受ける。僕が香港に遊びに行った時代も含まれていて、しかしそうだったかな、というような表面的なものしか知らなかったことを改めて知った。やはり一つくらいは例をとってみるとして、香港の女の子のちょっとつんつんした感じというのはあって、コミカルだが、そういう動きをする人は実際に多い印象がある。そういう気の強さと可愛らしさが、香港の女性にあるべき美点のようなものなのかもしれない。今はどうなのか知らないが……。
 考えてみると、香港は植民地だった関係もあって、諸外国とつながっている都市国家でもある。狭い土地に高層ビルが立ち並び、広大な土地を持つ中国と陸続きでありながら、事実上分断されている。しかしながら中国よりもずいぶん先に国際都市としての地位があり、そうして国際的に著名な映画監督がたくさんいる。僕らは中国よりも先に香港から、香港独自の文化を映像で知っていたのである。複雑だが、同じ中国人でありながら、まったく別のアイデンティティを持つ香港人の生活を……。
 しかし、そのような香港独自と言われるものは、やはり政治的にはだんだんと薄まっていくものかもしれない。すでに中国に返還されて日がたつし、混乱のさなかとはいえ、中国化が進んでいるようにも見受けられる。相変わらずの都市国家だが、もう香港だけで生きていける時代では無いのかもしれない。そういう悲しさを含めての、古き良き時代の香港映画の再現だったのかもしれない。もう二度と取り戻すことはできないのである。
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自分はこうなるのはホラーである   いなくなった私へ

2024-01-09 | 読書

いなくなった私へ/辻堂ゆめ著(宝島社文庫)

 街中のごみ捨て場で目覚めてみると、何故そこで寝ていたのかという記憶がなく、さらに人気絶頂のシンガーであるにもかかわらず、誰も自分のことを認識してくれない。そうしてその人気シンガーである自分が自殺したというニュースで、世の中はもちきりになっていたのだった。困惑を深めどうしていいかわからなくなるが、財布も携帯も持っていない。そんな中一人だけ自分を認識してくれる青年が現れ、とりあえず助けられて、青年の姉とともに暮らしながら、なんとか自分が自殺前に所属していた事務所にアルバイトで雇ってもらえることになるのだったが……。
 一応ミステリ作品だというので読みだしたのだが、このカラクリをひっくり返す方法に興味がある以外は、なんとなく女性向けの恋愛劇というか、よく分からないが、相手のことを考えるがゆえに八方美人化していく主人公に、困惑した。嫌なことはある程度嫌だと言わない限り、相手を傷つけるだけだと思うのだが……。それも相手のことを手に取るように理解しながらそれをやるので、かなり悪意があるようにも感じられるのだった。女の人というのは、天性でこういう事がやれるということなのだろうか。まあ、特殊だと思いたいけど。
 自分は死んでしまったものの、変わらない自分がまた何故だかこの世に生み出されて、存在はあれど誰も認識しないので、戸籍やその他証明するものが何もないまま、仮名で生きていこうとするのが、どうにもよく分からないところだった。犯罪者ではないかもしれないが、かなり不可能ではあるまいか。特に舞台が日本においては……。
 小説は自由なのだから、これはこれでいいとは思ったが、こういうのもミステリに入れていいんだな、というのは知らなかった。ちょっと若者向きなのかもしれない。後半の動きのあるサスペンスも、スリルという点ではいいのかもしれない。誰も信じられなくは、なるけれど……。
 著者は大学生時代にこれを書き、事実上デビューを果たし、その後就職して二足の草鞋を履いていたが、執筆の方が忙しくなり作家専業となる。現在は二児の母でもあり、年に3冊のペースで本を書き上げている人気作家のようだ。専業で食べて行ける作家は限られていると思うが、その中の一人にこういう人がいるんだな、という感じである。ある意味わかりやすい感情の流れが細かく書かれている内容で、ちょっとその思考の方向が僕には分からないだけのことであるようだ。僕が知らないだけで、こういう世界があるんだな(こういう作家やこういう小説を読む人々、という意味)、とは思いました。
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サバイバルする能力はどう使うのか   コップカー

2024-01-08 | 映画

コップカー/ジョン・ワッツ監督

 保安官の車、パトカーのことをコップカーと言っている。何故か二人の少年(日本だと小学5年生くらいかな)が荒野と言っていいところをさ迷い歩いている。おそらく放牧地のようなところなのかもしれない。そこのちょっとした木々のある場所に、パトカーが乗り捨てられていた。興味本位で近づいてみるとドアにカギがかかってないばかりか、サンバイザーに鍵まで見つかる。あたりに誰もいないので、ふざけて少年たちはそのパトカーを乗り回す。遊びが高じて荒野を飛び出し、道路に出てスピードを出す肝試しのようなことまでやりだすのだった。しかしながらこの車の持ち主の保安官は、実は様々な問題のある凶悪な人間だった。子供がパトカーを持ち逃げしたということを知り、無線を使って巧妙に子供たちを捕まえるために追ってくるのだったが……。
 二重三重に悪い方向に物語が進んでいくのだが、この不良とまじめの二人組の少年たちが、実に頭が悪いのである。アメリカ人というのは、宗教的な背景があるせいなのか、悪ガキであってもどこか純朴さを残す子供像を、持ち描いているのかもしれない。いくら何でも命の危険があって、状況判断をすればかなりやばい状況にあることは間違いない。悪ふざけしているので、それが見つかるのもヤバいのはヤバいが、殺されるよりはましである。ではどこで見つかるのかというのが問題なのであって、しかしながらずいぶん荒野は続いている様子で、ほとんど人は通らない。だから成り立つ話ではあるものの、そんなに特殊な設定の場所がアメリカにはたくさんあるということなのだろうか。最初は徒歩だったので、何も持たない少年たちは、いずれ餓死してしまったのではなかろうか。
 そんなこともあれこれ考えさせられるものの、ホラーサスペンスとしては、それなりに及第点ではあるだろう。警官も怖いが、すれ違う正義感あるおばさんも怖いし、かかわりのできるギャングめいた男もヌケているが怖い。親が何故少年たちを探さないのかは分からないのだが、そういう細部はあえて語らないことで、この追跡劇を成立させているのだろう。いずれにしてもみな破滅の道を歩んでいることに間違いなく、誰がサバイバルできるのか、ということに尽きるのであろう。
 実は観る前に、これが面白いという噂は聞いていたのだが、聞いている話の印象とはまるで違った印象を受けたのである。ちょっとした悪ふざけのお仕置きを受けるこどもたちの恐怖を描いた作品だと聞いていたのだが、そもそも悪さをしていた狂暴な警官が、いかにサバイバルするのか、という内容に僕には思えた。なかなか頭がいいのか悪いのか分からない男で、それでも何とか少年たちに行きつくので面白いのである。いかにもアメリカンって感じではあるのだけれど……。
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田中角栄は望まれる政治家か

2024-01-07 | ドキュメンタリ

 なんだか田中角栄が取り上げられることが多いと感じていたら、死後30年という一種の節目であることと、どういう訳か角栄のやっていたバラマキ政策の考え方を、野党がまねをするという不思議な現象が起きてもいるらしい。高度成長期と現在の状況が違うのだから、おんなじことをやっても仕方なかろうに、とは思うが、角栄の時代が面白かったのは、これまた間違いはない。
 角栄は戦後すぐの選挙に27歳で出馬し、落選からのスタートを切っている。その時のスローガンが「若き血の叫び」である。自分で起こした土建屋は成功し、既に財を成していたものらしい。若い頃はまだ体の線が細く、貫禄づけの為かちょび髭を生やしている。その頃から地方への格差解消のためのバラマキ政策の考え方の基本は持っていたと言われ、新潟と群馬の境にある三国峠を崩せば新潟に雪が降らなくなり、その土を日本海に埋めて佐渡を陸続きにしたらいいと言っていたらしい。
 その後国会議員になり、さまざまな議員立法を手掛けた。特に道路三法が有名で、国道を作り、高速有料道を作り、財源としてのガソリン税(道路に特化するもの)を創設した。これにより、陳情を受けたところに道路をつくって発展させるというスタイルを築く。道路開通が決まった土地は高騰し、それを売った人々は大いに潤った。要するに地方の復興とともに、経済的に潤うことが、国民の幸福であるというストレートな信念が、そのままの政治のスタイルだったのである。
 角栄はテレビの影響もよく知っており、全国に民放局を開設させる。そうして大蔵大臣の時には、自ら出演して大蔵大臣アワーという番組を流したりした。角栄の自宅は目白御殿といわれ、毎日陳情の客が絶えなかった。多い日には200人にも及んだと言われ、田中は朝7時から陳情の客の相手をした。ほとんどは三分で即決して、陳情を取りまとめたと言われる。
 その後当時は最年少の54歳で首相に上り詰め、日中国交正常化などを数多くの業績がある。その時に中国からパンダを譲り受け、自らの鯉を中国に贈った。内閣の支持率は62%にも及んだ。ところが首相としては短命で、2年5か月だった。ちょうどオイルショックに見舞われ、狂乱物価、インフレ内閣批判に抗えなかった。その頃に電力需要を安定させるために、23基だった原発を60基まで増やすなどした。
 退陣後はロッキード事件が暴かれ、転落の人生に転じた。それでも政治権力は保持していたと言われ、多くの内閣は角栄の傀儡とされた。マスコミからは叩かれ続ける晩年ではあったが、世論は選挙であると豪語し、脳梗塞で倒れてもトップ当選を果たした(のちに自ら引退するが)。
 とにかく逸話に事欠くことの無い人で、強烈な個性の持ち主であった。その上俗っぽく、当時の日本人そのものだったともいえるかもしれない。豊かになることと格差是正を同時に成し遂げるために、着実にバラマキ政策を実行していったのである。
 今後の世の中において、角栄のようにふるまえる政治家が現れるとは考えにくいが、人々は内心では、角栄のような人をまた望んでもいるのではあるまいか。さて、それにこたえられるような人物が育つ世の中が、また生まれ得るものなのだろうか。
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まあ、普通というか……   ノマドランド

2024-01-06 | 映画

ノマドランド/クロエ・ジャオ監督

 キャンピングカーや改造車で寝泊まりしながら、大規模な工場などの期間採用の労働者として働く人々の物語のようである。アマゾンなど巨大物流の施設では、おそらくクリスマスなどのいっときの間、物流を大量に扱うための人手が足りなくなる。またそのような巨大な施設は郊外でないと建てられないので、キャンピングカーごと駐車場で寝泊まりするような労働者を集めて、その時期をやり過ごすのであろう。様々な理由をかかえて一般の会社などの仕事をリタイアした人々が、そうやって放浪しながら生活しているわけだ。
 主人公の女性は、元教師だったようだが、リーマンショックで巨大企業が倒れ、企業城下町だった町自体が消失し失業したようだ。家も失い、仕方なくワゴン車を改造して放浪を始めた。頑なで気難しい面もあるが、なんとか期間契約の仕事をこなし、同じような境遇の仲間たちとも仲良くなっていくのだったが……。
 実際にそういう人々がアメリカにはたくさんいて、事実上車上生活をつづけながら働いている。いわばドキュメントとして、このような社会問題を取り上げているのかもしれない。このような生活をしていくうえでのスター的な存在もいて、このような生活をこそ望んでいる人々もいる。そうではあるが、実際にはほとんどの人は、仕方なくこうなってしまったということだろう(それを認めると悲しすぎるので、ポジティブになるためにそれらのスターがいるとも考えられる)。車の中で工夫しながらそれなりの快適さはあるようだが、しかし大自然の中で暮らすことの厳しさももちろんある。外は零度以下の日もあるし、暑い日もあるだろう。車のアクシデント次第では、広大な原野の広がる米国の大地では、死活問題なのである。
 映画としては淡々としたそれらの人間模様を描いているわけだが、なんとなく盛り上がりに欠ける。名画めいた雰囲気はあるし、実際に批評家からの評価も高い。そうであるが正直に言ってしまうと、単なる愚作に過ぎない。騙されて観る人がいることが、忍びないほどである。僕は正直なので言ってしまうのであって、暇つぶししたいならともかく、観るのはやめた方が賢明だろう。ただし、名画めいたところはあるので、そういうのが困るのである。こうした社会問題に対して意識が高いことを誇りたい頭の悪い批評家は、だから高い評価をしてしまう。困った図式の成り立つ映画、ということになるだろう。
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地元に来て欲しいチェーン店など

2024-01-05 | つぶやき

 地元には若い人が遊ぶところが無いので、例えば「ラウンドワン」とかライブハウスを誘致して欲しいという要望が、けっこうあった。ライブハウスは箱としての問題かもしれないが、これは一旦置いておく。まあ、そういうものかな、とは思うものの、地元にボウリング場が無い訳でもないし(それだけの施設では無いのだろうけど)、企業の考えもある訳で、という話は少し書いたかもしれない。でも率直に僕が思うのは、そういうのはあっても無くてもどうだっていいのである。それが地元の魅力だとは、とても思えないし考えられないからだ。繰り返すが、それは企業が思うその地域の魅力であろう。
 とはいえである。こういう話になると、そう思っている人が案外いることを改めて知ることになる。そういう話になってみると、せっかくだからIKEAに来て欲しいとか、コストコがいいとか盛り上がったりしている。ああいうのは遠くにあっていいという感じもするが、それだけ郊外の敷地問題もあることだし、そういう適当なところという感覚があるのだろうか。
 少なくとも映画館が欲しいという話はあるが、映画館にはたまにしか行かないが、いい映画に限ってガラガラなんで、なんとも言い難い。もう映画はすべて配信でいいと、極端には思う。たまに行ってもいい映画はあるんだろうけど、そんなの観る前には本当にはわかり得ない訳で……。名画座は欲しいと思うが、何処の地区のものも、それなりに苦戦してると聞くし……。そういう篤志家がいないことには、成り立たない産業は、もちこたえる努力もいるので、ちょっと新たになくてもいいかもしれない。
 でもまあ複合施設は欲しいよね、というのは聞く。ジャスコがあるじゃん、と思うが、もっと大きいヤツのことらしい。たとえば隣町にそういうのができるんだっていう事なんだが、隣なら近くだから車で行けばいいのに。佐賀ならあるんで、これも車で行けばいい。広いところにできるのなら、広いところに行けばいいのだ。
 まあそれでは話にならん、ということになろうが、飲食店のチェーンも来て欲しいってのがあるようだ。吉野家もすき家もあるじゃん、と思うけど、そうじゃないらしい。それだったらなか卯も松屋もということかもしれないが、更にそうではなくて、資さんうどん(これはちょい遠くにできたが)とか、牧のうどんとか。もっとローカルでも地元には無いヤツなんだとか。うーん、ちょっとこれは訳が分からない。ウエストもあることだしな。
 出張の時に日高屋とか杵屋なんかには入ることがあるが、あれは夜にも飲んでる人がいたりして、僕のような中年男性には優しい感じはする。でもまあ、今ある別の店でも、それは別段かまわない。飲食店というのは、やろうと思う人が開業しやすい場所で、開業しやすい支援をすればいいのではないか。その上で続くかどうか、の方が勝負だろうし。
 僕がチェーン店の飲食店で、唯一来て欲しいと思うのが、そういえば、あった。サイゼリヤである。どこに行ってもたいていあるのに、どういう訳か地元には無い。振り返れば二十年以上前に、友達と待ち合わせしてて、一人だけ何故かかなり遅れてくるというので、もう一人の奴と、待つ間サイゼリヤでちょっと飲もうということになった。何もかも安いうえに、どんどんワインを飲んでしまってしこたま酔っぱらって、もう一人の奴が来る頃にはもう僕らはべろんべろんだった。その後どうなったかは忘れたが、それで気に入って埼玉でも横浜でも行ったように思う。まあ数回だけど……。佐賀にはあるようだが、わざわざ出向いていくような店ではなくて、目の前にあれば入って楽しい(美味しいし、安い)ということなのである(でも客層は悪いとも聞く。安いからかな)。地元に似たような店も無いので、これはウケると思うんだけどな。どうでしょう。
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こんなことをしてはいけません   わたしが・棄てた・女

2024-01-04 | 読書

わたしが・棄てた・女/遠藤周作著(講談社文庫)

 なんでこの本を僕が持っていたのかというのは、ちょっと不明だ。というか失念したのであるが、本棚にあったので手に取ってそのまま読んだ訳だ。解説にもあるのだが、遠藤作品にしては通俗的な文章の運びのような感じで、しかし物語は非常に重たい展開をしていく。
 貧乏学生の吉岡は、雑誌の友人募集の欄で適当に選んだ女性に手紙を書いて逢引きし、そこにやって来た純朴な女性を奇妙なデートの末に関係を持ち、単に動機は童貞を捨てるためだった為にそのまま付き合いもやめてしまう。しかし性行為は嫌々だったが、自分とは身分の違うように見えた学生吉岡を好きになってしまった森田ミツは、その後も吉岡を想い続けるのである。ミツはそもそも不幸な境遇で、帰る家も無く孤独なまま東京で一人働いていて、しかし純朴すぎる上に献身的な心情の持ち主で、損ばかりの上に我慢ばかりで運も悪い。そうして貧乏の上につらい生活を強いられていて、さらに不幸を上乗せされるような運命に翻弄されていく。一方の吉岡の方は、いちおうは大卒で小さな会社に勤めるが、そこで社長の姪と仲良くなって、トントンと幸福な人生を手に入れていくことになるのだった。
 簡単に女心を弄んで棄てたひどい男が幸福な階段を上っていくのとは裏腹に、それと対峙するように純朴で女神のような心情を持ちながら、田舎臭くあか抜けないいわゆる芋姉ちゃんが、どんどんと不幸の階段を転がり落ちていくことになる。あまりと言えばあんまりな展開の残酷な物語なのである。読み進みながら、いったいこれは何を読まされているのだ僕は? という感じで、かなりつらい。しかしその我慢を通り越してさらに読み進むと、なんと言えばいいのだろう、このミツの物語に何故か涙が止まらなくなるのである。こういうのは困るのである。
 いわゆるキリスト教の「ヨブ記」が題材になっていると思われるのだが(著者の遠藤のテーマでもあるし)、あまりと言えばあまりにひどいとは思う。キリスト教なら神の救いがあるのだが、ミツは最後まで信者でもない訳だし、関係のある場所にいたとはいえ、彼女の神は、いわば彼女を無残に棄てた吉岡である。吉岡は確かに自責の念は持っている様子もあるが、ひどい男のまませっかく流れのまま掴んだ自分の仕合せを、利己的な感情から放そうとはなから考えてもいない。何しろ最初からげんなりするように好きにもなれなかった女だったが、田舎娘だしお人よしだからこそ体を奪うのである(しかしよく実行できたものだと呆れるが)。しかし、当時の貧乏学生としての苦労は最低限してはいて、奇妙な経験もした上に、それなりの苦しみも持っている。そういったものは、おそらく当時の普通の若い男としての演出なのだろうと思う。だからこそ、純粋なミツを遊んで棄てた男性の一般化なのである。これを読んだ読者が男ならば、なにか連帯責任として、この罪を背負うようなことになるのかもしれない。でも、実際にはこれほども罪の意識もなく、ミツの不幸は仕方なかったのだ。だからこそこの残酷さが、さらに身に染みることになるのだろう。
 しかしまあ、実際のところ、ミツは架空の聖女である。描写には説得力はあるものの、そういうところがやや通俗的なのかもしれない。恐ろしい話で印象に残るが、そうやって泣かされてしまって、ショックも受けるだろう。これを受難と言わずなんと言えばいいのだろうか。
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読んだ本。お勧めから②

2024-01-03 | なんでもランキング

 小説偏。

犯罪/フェルディナント・フォン・シーラッハ著(創元推理文庫)
 乾いた犯罪の記録。小説だけど実話じゃないの? って感じ。

去年の冬、きみと別れ/中村文則著(幻冬舎)
 芥川龍之介の「地獄変」を中村正則が書いたらこうなった。うーむ。

手鎖心中/井上ひさし著(文春文庫)
 バカバカしい話なんだが、凄まじい時代考証もあってのことだというのもよく分かる。要するに情報量が凄いのです。

タルト・タタンの夢/近藤史恵著(創元推理文庫)
 テレビドラマを観て原作も。なるほど、これはドラマ化したくなるよなあ。

 小説じゃないんだけど、きわめて小説的なエッセイ。
編めば編むほどわたしはわたしになっていった/三國万里子著(新潮社)
 自分語りって、こんな風に書くべきなのかもしれない。実にうまいな。




 さて、新書から一つ。
サブリミナル・マインド/下條信輔著(中公新書)
 自分の意志っていったい何だろう? 自分って主体性がどんどん揺らいでゆく。
 
 さて、ホラーを一つ。
近畿地方のある場所について/背筋著(KADOKAWA)
 モキュメンタリ―を僕はバカにしてたかもしれない。怖いけど、面白い。
 
 さて、蒐集家の狂気の世界を一つ。
ビニール・ジャンキーズ/フレット・ミラノ著(河出書房新社)
 分かっちゃいるはずなんだけど、ひとはビニールを集める習性があるようで……。
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妊娠とはホラーだった   あのこと

2024-01-02 | 映画

あのこと/オードレイ・ディヴァン監督

 ノーベル賞作家アニー・エルノーの、若き日のことを描いた短編を映画化しているという。1960年代のフランスでは、まだ堕胎が法律で認められていなかった。大学でも成績優秀だったアンヌだが、進級の試験前に生理が来ないことに不安を覚える。中絶をすると本人も幇助した医者も重罪に処され、刑務所行きという時代なのだ。自分なりに様々な本を読み漁り、やはり産婦人科で検査してもらうが、あえなく妊娠という診断を受ける。女子寮に身を置き、大学生という身分で子供を持つことは、すなわち学業の断念と、子育ての道へ進まざるを得ない地獄の選択に他ならなかった。実際には産む以外に選択肢が残されていない状況なので、地獄なのだ。そう簡単に誰かに相談することもできないし、勉強などとても手につかない。人間関係はガサツになり、摩擦が起こる。お腹だけは非常に減るようで、ひとのものまで盗んで食べたりしている。裏の方法を知ってそうな人間を探すことにするが、限られた人間関係にあって、誰を信用してよいかもわからなくなっていくのだった。
 スリラー映画と言ってよく、ものすごく恐ろしかった。こんなに怖くて残酷な映画と知ってたら、観てなかったかもしれない。そこまで直接的ではないものの、ホラー場面もちゃんとあって、観ていて苦しかった。妊娠がこれほど恐ろしい出来事になり得るとは、夢にも考えたことが無かった。確かに若い頃の結婚前の妊娠話というのは、結構やべえなあ、というホラーの要素はあった訳だが、日本は堕胎が法律違反であるわけではなかったし、どのみち表に出たらそうせざるを得ないという選択の方が自然である。それでも生んで育てようというのは、ちょっとした複雑な不幸な道のりを感じさせられて、それはそれであんまりハッピーではない選択だった。それなのに堕胎も許されず、社会的にも断罪されて子育てを強要されるフランス社会という重圧の中で生きざるを得ない一人の女というのは、何処までいっても恐ろしい立場なのである。だから将来法律は変わるのだろうけれど……。
 これを観ていると、望まない妊娠をしないという先ず第一の条件が無ければ、女が自由に生きていける社会は生まれない、という警告のある物語である。男女同権の前に、女が子供を産まないことを暗に条件に入れない限り、それは成り立ちにくいことなのだ。そこに社会的な警鐘と、人間の尊厳がある。それがまた強力に恐ろしさを含んでいるわけで、皆こころして観よ、ということになる。うまく言えないが、人間関係も面白いし、怖いけれどいい映画である。苦しかったけど勉強になりました。
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