韓国から帰ってすぐですが、今日から31日まで九州です。佐賀と熊本に行きます。
今日と31日は移動日ですので、実質、佐賀が丸2日、熊本は半日移動で1日半、という時間があります。
今回、佐賀では佐賀女子短期大学の長澤先生の研究室をお訪ねし、お持ちの資料を見せていただくことが目玉です。とにかく幅広い資料をお持ちで、なんというか、研究から離れた趣味の世界で関心があるものもたくさんお持ちなのですよ。植民地 . . . 本文を読む
Yahooのモバイルポイントに申し込みをしまして、今、実験をかねてマクドナルドに来ています。
IDを忘れてしまっていて、ちょっとあせりました。
でも、まあ、こうして無事にブログへ書き込むことができているので、よしとします。
マクドナルド以外のアクセスポイントが少ないのが玉に瑕です。
大学のメールの転送がどうもうまく機能しないというか、途中でダウンするので、今回の九州行きも転送設定はしません。
お . . . 本文を読む
さて、布団の枕元に何か紙がありました。
見ると、娘からの手紙でした。
・・・えーと、なになに・・・
おとうさん、てがみをかきました。どうぞよんでください。
かわいいなあ。。
おとうさんのことは、ぜったいぜったい わすれません。
・・・・
涙なしには読めません。なんかもう会えないような気がしてきた。今日はこれを枕の下に敷いて寝ます。 . . . 本文を読む
午前7時半にプサン駅前のホテルを出発、金海国際空港へ。
チェックインを済ませ、プサンを断ったのは発ったのは午前11時、関空に1時前に到着。
高速バスは2時10分発ですから、空港で昼食をとりました。
徳島に戻ったのは、午後5時過ぎでした。
明日一日、洗濯や資料の整理をして、明後日から九州へ出かけます。
九州では、資料をお持ちの先生に、その貴重な資料を見せていただくこと、終戦時にピョンヤン近郊から引 . . . 本文を読む
6日目。
巨文島での調査は最終日、と入っても、午前9時40分発の船ですから、そんなに時間はありません。今日は、これから麗水を経由してプサンまで帰ります。
朝の漁港の様子を見に行こうと思い、6時に宿を出ました。日本が植民地支配していた時期、この島はいわしやさば漁で栄えていたそうです。でも、今は取れる魚の種類が変わって、太刀魚が主だということ。朝の港には、次々と漁船がやってきては、満載された太刀 . . . 本文を読む
5日目。今日は、当時の小学校を見に行くつもりです。
巨文島にあった小学校は、日本人が主に通う学校でした。
お隣のソド(西島)にあった小学校は、朝鮮人が主に通う小学校でした。
見に行く途中で、韓国のおじいさんに出会い、当時の話を少しお聞きすることができました。冒頭の方です。
終戦時、国民学校3年生、とのことでした。この方は、朝鮮人ということで、隣の国民学校まで毎日船で通っていたということ . . . 本文を読む
4日目。麗水から最終目的地の巨文島へ。
何時間かかるのか、人によって情報が違いました。これが困ったのです。
高速船があって1時間半だという情報、高速船はすでに廃止されたので6時間かかるという情報、この二つを両端において、間にいろいろな時間の説が出てきました。
船の待合室
終戦まで巨文島で暮らしていた堀さん(右)
正解は、フェリー利用で2時間40分。上の説は両方正しく、今回のフェリーは、島 . . . 本文を読む
3日目。
40人乗りのバスに乗り込み、麗水へ向かいます。どういうわけかガイドの方がついています。
午前7時半の出発です。
荷物を二つホテルに預けて、身軽になって出発しました。
高速道路に乗って、まずは巨済島に向かいます。
ここは、植民地時代に入佐村という日本人の開いた漁村があったところにあたります。鯖漁が盛んで、数千人規模の町だったということですが、漁法や漁船の発達で漁場が沿岸から遠洋に移るよう . . . 本文を読む
冒頭の地図。赤い線が今回の調査で移動する経路です。最終的には、巨文島へ渡ります。明日は、プサンから巨済島を経て、麗水へいくことになっています。
ホテルでのトラブルから。
部屋のエアコンがきかなくなり、フロントに電話をかけました。
フロントの人が言うには、節電時間中で、客室の冷房を止めているとのこと。理解できたので、そのまま待っていました。でも、4時になっても5時になっても冷房がつきません。せっか . . . 本文を読む
朝食時に、崔吉城先生一行に偶然食堂で会いました。崔先生は、今回のこの科研の代表者です。
今回の調査の話などをいろいろお聞きした後で、別れて、プサンの近代歴史博物館へ向かいました。
ところがですね、乗ったタクシーの運転手さんが場所を知らず、地図を渡していってもらったら、ぜんぜん違うところにおろされたのですよ。
おろされたのは「白山記念館」で、ちょうど独立運動にかかわる展示をしていました。怪我の功名と . . . 本文を読む