秘境という名の山村から(東祖谷)

にちにちこれこうにち 秘境奥祖谷(東祖谷山)

菜菜子の気ままにエッセイ(親父と昭和とベニア板②)

2011年11月19日 | Weblog
徒然なるままに続く…なんて書いたから…頑張って書いてみる時代遅れのワタシ?
ふと思う…。昭和の時代には 全てのココロのサンプルが、存在していた
生命体を無視したような、時代にさらされながら、今を生きていく中で…そう感じる。


『学校のせんせい』
は 村長さん以上に敬われていた。
村の中に置いて、
『学校のせんせい』
は九割が、
『しものひと』
であって、私生活は微塵も想像できなくて…※あくまでも ワタシの感想だからね。
否定大好きおばちゃんは、眉間にシワを寄せて、読まないようにね。
読んで腹をたてる位なら、最初から読まなきゃいいのにねっ!
悪しからず~

…で、
普段、近寄りがたかった学校の先生達が、一週間に一度は、ワタシの家に来ていた。
もちろん、食堂のお客様。

10人位で、満員御礼になる小さな食堂は、地下に部屋を造った。
それまでの地下は、父のガラクタの鉄屑で、いつも錆臭かった。
湿気と錆と土臭い、地下だったけど、ワタシには、自慢の地下だった。
父は、ロープと板を使って、手作りの
『ブランコ』
を作っていてくれた。
《よく遊べ・よく学べ》
が父のモットーだったから、勉強はトコトン勉強!
遊びも、トコトン遊べ!
こんな感じの、親バカだったから、可愛くて仕方ない娘の為に
ブランコなどと言うアイデアを、考えたのか…?

お陰でワタシは、オバサンに成長した今でも、ブランコがあれば、どこでも遊ぶ!
とりあえず、座る!
漕ぐ!
めちゃくちゃ、必死で漕ぐ!
青空の日だと、テンションは上々~
とにかく、ブランコ大好きなのは、幼い頃の、あの暗い、日の当たらない
地下の物置小屋の、チマチマな贅沢な記憶が、脳みそに焼き付いているからなんだ。

その部屋は、旧間で8畳位あった。

その部屋こそ、地下の改修された、オールベニア板の、座敷部屋。
父は、
『下の間』
※したのま
『下の間があるばいっ!』
と上機嫌で、予約の宴会を、バンバンとっていた。

この下の、客間に下りるには、我が家のこれまたオンボロ居間を、通らなければ、ならない。
6畳一間。壁紙は包装紙、新聞紙の糊貼!元祖リサイクルっ!
細長い傘の、蛍光灯ひとつ。
父なりの、見栄だったのか?父は、オンボロ居間を、見せない為に
階下に続く居間の隅っこを、カーテンで、仕切った。
カーテンレールなんて、在るはずもなく、番線一本。端の留めは、五寸釘!

宴会が入る度に、ワタシ達兄妹は、2畳の子供部屋に、隠れた。

学校の先生が、夜にもすぐ側に、いる現実は、怖かった…
学校と家が、ひとつというシチュエーションは、いつまでたっても、馴染めなかった。

父は、学校の先生達と飲んでいた時は、デカイ鼻を、真っ赤にしながら
昭和版トナカイオッサンになっていた。
父は、デカイ声で、熱く先生達と、
『教育談義』に、興奮していた。

『そげかこと、ワシはおもいよるですけんね~イカンことは、イカンばい~!』

正義感の固まり
曲がった事は大嫌い
青年よ大志を抱け
をこれまたモットーに、なぜか、校区の生徒の生活指導員を頼まれて

『歩く道徳』
が リヤカーを引いていた。

見て見ぬふりは
絶対に出来ない父は、
非行少年に対し、トコトン説教を始める

今でも、覚えている。
その非行少年達は、父への腹いせに、
兄の自転車を、盗み、そのまま崖から、落としていた。

ある日
自転車を探しに行った父は、曲がったままの哀れな、姿になった兄の自転車を、担いで、帰ってきた。

あの日…父は顔は、怒りの顔ではなかった。

ワタシには、悲しそうに見えた。

父は、非行少年達を、認めて、信じて、説教した筈なんだ。

だから、きっと
哀しかったんだ。

兄は、兄なりに、多分彼等に仕返しを受けたのかも しれない…

『学校の先生』
は いつから、昔のように、敬われなくなってしまったのか?

『学校の先生』
の言うことは、
『絶対的』
だった時代。


読者の皆様も、一緒に考えて見てね。

『学校の先生』
の一部の方々の、資質が、いつから、はちゃめちゃになったのか?父兄…
地域…
教員試験…
教育委員会…
エトセトラ…?

徒然なるままに
いつかに続く
























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