30坪+20坪の菜園

BIG FARMの農事日誌です。

酒をなめるように飲むようになったのは

2012-04-01 | 



三遊亭円生の「一人酒盛」をCDで聞いたところで、酒の話である。きょうは、酒の飲み方だ。いつの間にやら酒をなめるように飲むようになった。いつからこうなったのかふと気になったという話である。

最近読んだ小説でこんな場面があった。舞台は終戦直後の北海道の開拓村。反抗期の少女が、母親が茶碗酒の縁をなめるようにして飲む姿を嫌悪する。たしかに母親がそんな飲み方をすればだれだって見苦しいと思うだろうなとうなずく。

子どもはたいがい大人が酒を飲み泥酔する姿には目をそむけるはずだ。私が大人の酒飲みに接したのは冠婚葬祭の席が多かった。酒に酔い、てららてらした赤ら顔で上機嫌、いつまでも帰らずに長っ尻のおじさんが必ずといっていいほど、ちびりちびりやっていた。お勝手ではいいかげんに腰をあげてくれないかと手伝いのおばさんたちが首を長くしていた。婚礼ならまだしも通夜などでは飲んべえは歓迎されないが、やはり長っ尻の飲んべえのおじさんが一人や二人はいた。場所がらをわきまえているはずなのだが、だらしなくなめるようにいつまでも飲んでいた。

そんな思いで飲んべえたちを眺めていた少年がいつのまにか長い年月を経て、よもやと思いたいが、いまは酒を毎晩なめるようにして飲んでいる。それも意地汚く飲んでいるのである。若いころの飲み方は、すいすい飲む。口の中に放り込むといった飲み方だ。酔って酒にあきてくると、ちびりちびりと飲む。若いころは酒をなめるよう飲んだという記憶はない。いや、そんな飲み方はやるまいと思っていたのかもしれない。

私がもっぱら清酒をやるようになったのはちょうど地酒ブームで一気に酒がうまくなった頃である。30代になっていた。そのときも「うまいなあ」と舌づつみを打つことはあったにしても、なめるような飲み方はしなかったはずだ。それがいまは酒をなめている。いつごろからそうなったのかと思う。

年を取ってからだ。50代に入ってからだろうか。本当にうまい酒に出会ったときは感激する。口にふくんだとたんに気が遠くなるように感動し、ここはじっくり味わって飲みたいと思い、一滴一滴をなめるるようにして飲んでいる。いまはたしかにそうして飲んでいる。

もうひとつなめる場面がある。いいかげん燗酒を飲み過ぎて盃をおき、少し間がおいてから燗冷ましの酒を飲む時である。昔は燗冷ましの酒といえばまずいに決まっていたが、いまはしっかした造りの純米酒だと燗冷ましの意外なうまさにびっくりする。まさに冒頭の小説ではないが盃のふちをなめまわすように、ときにずるずるとすするように飲んでいるのである。

こう思い返してみると、なめるように飲むようになったのは、酒の味よりも、年のせいかなと思う。

盆と正月にやってくる息子が酒を飲む姿を見て驚いた。酒を楽むようになった。飲み方までも親に似なくていいのだが、似つつある。その姿をはじめて見たときはおぞましいものを見たかのようであった。あまり見たくない光景であった。

上の写真は近くの2軒の酒屋で買い求めた3月の酒だ。たいした酒ではないが、定番ばかりでは面白くないからこうしてあれこれ飲んでみる。飲んでみなければ、なめるような酒に出会えない。なめるような酒に出会えると小躍りしたいくらいうれしい。そのためにもうまい酒をうまいと感じられる体調を維持するのがいちばんだ。とろがここにきてγ―gtpが高くなったと指摘された。注意してきたつもりなのだが。ああ。


         


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