家の建て替えのために寓居へ27日に引っ越したものの、細々としたものが最後まで残り、どうにかすべてを持ち運んだ。
これまで住んでいた家は空っぽになった。最後にすべての部屋に掃除機をかけた。きれいさっぱりした空間だ。その慣れ親しんだ空間に立ってみて、つい2、3日前まで「ここで生活していた」という実感がうすれていることに気づかされた。愛着をさほど感じないのである。「そんなもんかな」と考えされられたが、多くの「もの」に囲まれてはじめて生活の実感があるのだとわかった。「もの」がまったくなくなった空間はまさにうつろでしかない。
家の建て替えでさびしかったのがブドウ棚ともサヨナラしなければならないことだった。ブドウの栽培はいまが忙しいときだが、このブドウ棚も取り壊され、ブドウの木も切られる。ちょうど今、花を咲かせ、結実の時期を迎えている。小さな実を結んでブドウらしい形になったころに切られる運命だ。いまのブドウは2代目。なんとも忍びない。
(きょうのブドウ棚)
(いまちょうど花が咲いて実をつけはじめたところだ)
ブドウ栽培は手間がかかる。ブドウに比べたらきのう書いたソラマメなんかその比ではない。成長に応じてやる作業が数多くある。これをきちんとやらないとブドウは育たない。時期を逸すると手遅れだ。それだけに立派な房になったブドウを見ると喜びもひとしおである。しかし苦労が多いだけに春になるといつも「ことしはブドウをどうしようか」と考えることが多くなった。今回の建て替えを機にブドウがなくなる。25年もブドウ栽培をしてきただけに、さびしい気持ちと、ほっとしたという気持ちが交錯している。
(手をきちんとかけるとこんなブドウが収穫できる。これは昨年8月のもの)