楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

今日は、こちらから出発です

2024-04-13 20:12:14 | 日記

こちらの駅へ降りました。

大きく見えますね、西武線の要でもある所沢駅です。さぁ、出発です。

西武バス銀座二丁目バス停とあります、あれっ、銀座へ来ちゃったのかな?

おっと、バスでやって来たのはここ法華寺というお寺でした。このお寺は、調べたところ日蓮宗系のお寺で、明治26年に鬼子母神の教会場として発足、昭和27年に法華寺として一寺と成ったといいます。明治初年に所沢の有志たちによってつくられた法華経信仰の講社の教会場として発足して、当初からお曼荼羅を本尊とし、鬼子母神様が守り本尊として勧請されておりました。当時は「南原(みなみっぱら)の鬼子母神様(きしもじんさま)」として親しまれておりました。その後、明治29年には千葉県中山の法華経寺(日蓮宗大本山)から法華経寺の守り本尊としての子母尊神の御分身をいただき、共に安置されて現在に至っております。当時の記録では、明治29年の世話人は12名、信徒は120名となっております。
 第2次世界大戦前までは、信者は所沢町を中心として、川越、三芳、東久留米、東村山、立川、秋川、八王子、入間川、飯能の各方面におり、その数は当時の下足札の数2,000余枚から推測しても大変なものでありました。講社は戦後消滅してしまいましたが、昭和27年には長谷川存佑師が住職となり(現住職は長谷川康榮)、昭和29年には現在の(単立)宗教法人法華寺が発足しました。法華寺は、法華経を所依の教典とし日蓮聖人尊定の大曼荼羅を本尊として、信者を教化育成し、立正安国の聖業に精進することを目的として諸宗教活動を行っております。とのことでした。さて、次へと向かいましょう。

ここは、所沢第一文化幼稚園という場所だそうです。何やら趣のある石像が立ってますね。

少し行くと、これは何でしょう?

立札がありました。「弘法の三ツ井戸」とあります。井戸だったんですね、立札の内容は、「武蔵野台地の中央部に位置する所沢は、地下水位が深いため、昭和12年に上水道がひかれるまでは、大変水利の悪いところでした。近隣の村では「所沢の火事は土で消す」という言葉もあったそうです。そんな水に苦労した所沢にあって、次のような伝説が残されています。 夏のある日、1人の僧が民家に立ち寄り一杯の水を所望しました。そこで機を織っていた娘は、水を汲みに行きましたが、なかなか戻ってきません。不思議に思った僧は、帰ってきた娘にその訳を尋ねました。すると娘は、このあたりが昔から水に不便なこと、井戸まで遠くて苦労していることを語りました。それを聞いた僧は、立ち去る前に娘に三つの場所を杖で指し示し、そこに井戸を掘るようにと言い残していきました。半信半疑ながらも村人達がそこの場所を掘ると、深く掘ることもなく清らかな水がこんこんと湧き出しました。夏でも涸れることのないその井戸を、村人たちは「三ツ井戸」と呼び、誰言うともなくあの僧は弘法大師だという話が広まりました。」という歴史ある井戸だったようです。先ほど見たのは、その碑でした。

                       つづく

 

 


その先には何があるかな

2024-02-23 19:48:50 | 日記

方向を変えて、久我山小学校の方へと向かって見ましょう。

梅の花が満開です。余程日当たりがいいんでしょうね。

もう、そろそろかな? 都営住宅らしい建物を過ぎて行きます。

学校のグランドの塀のようですね。

正門の前に来ましたよ。周りを見ると、

こんな立札が建ってました。どうして遺跡なの?

この東原遺跡というのは、区立久我山小学校から都営富士見住宅一帯にかけて広がる後期旧石器時代(約30,000年前)、縄文時代草創期・早期・前期・中期・後期(約12,000年~3,000年前)、江戸時代の複合遺跡です。そこで、杉並区のホームページを基に調べて見ると、「遺跡は、神田川によって形成された北岸の台地上に沿うように営まれており、昭和51年には小学校部分が、平成4年には都営住宅部分が発掘調査されました。小学校部分の調査では、縄文時代中期終末の加曽利E4期から後期初頭の称名寺期の文化を中心とする土壙(墓)や土坑(貯蔵穴)が多数検出されています。特に、中期終末文化では石棒を伴っていることから、祭祀的な性格をもっていたかもしれません。都営住宅部分の調査では、台地南側の先端部付近において関東ローム層第5・第4層内からナイフ形石器・スクレーパー(皮剥)を伴うユニットと複数の礫群(バーベキューの跡)が検出されています。一方、台地北側部分では、今のところ区内で唯一の草創期の住居跡が検出されています。この住居跡は、一辺が約3メートル、深さは約10センチ程掘り込まれたもので、不整方形をしたものでした。住居の内部から当該期の土器は出土していませんが、床上からこの時期特有の石器である「有舌尖頭器(弓か槍の先)」が出土しています。近年、神田川上流に沿った久我山から下流の高井戸一帯にかけて縄文時代草創期の遺跡が集中していることが解ってきました。その中で、全国的にも数少ないこの時期の住居跡が東原遺跡で発見されたことは、区内最古の縄文人が神田川流域に定着したことを意味する貴重な遺跡と言えます。」とありました。

              つづく

 


春も間近いですね

2024-02-22 10:43:41 | 日記

今日は、こちらを訪問します。

京王線の富士見ヶ丘駅からの出発です。

大通りを歩いていたら、こんな出入口に出くわしました。近くに案内場も

吉祥院と言うお寺でした。中へ入って見ましょう。

立派な山門もあります。さらに進むと

たくさんの地蔵が並んだ小高い山もあります。

反対側の塀に沿って、六地蔵でしょうか?こんなお地蔵さまも立っています。

御嶽社もありました。

本堂へとやって来ました。現在の本堂は文化三年(一八〇六)の建築で、開創の年に移築したものです。また、境内の諸石像を配置した築山は、成田山を模して造られたものといわれています。なお、当院は信徒から寄進された多くの記念石碑のほか、江戸時代につくられた大日如来像、阿弥陀如来像、地蔵菩薩像などの仏像も所蔵しています。ところで、このお寺、吉祥院とはどんなお寺なのでしょう。

天台宗寺院の吉祥院は、象頭山と号します。成田山不動尊を深く信仰した上高井戸の住人並木卓善が、明治8年成田山新省講を結成、さらに寺院を創立しようとしたものの、寺院新築禁止中であり、二世晃恭が谷中の天台宗象頭山遍照寺吉祥院住職となり、明治16年当地に移転させたといいます。当院は象頭山遍照寺と号する天台宗の寺院で、本尊は不動明王坐像です。中興開山は上高井戸村の並木卓善で、明治十六年(一八八三)に開創されました。並木卓善は成田山不動尊を信仰し、明治八年に成田山新省講を結成、さらに講中の寺院を創設しようと図りました。しかし、当時は寺院の新設は禁止されていたため、谷中(現台東区)の吉祥院(江戸初期に霊岸島に開創され、のち谷中に移転、寛政年間に松平定信の崇信を受け大寺席となったと伝えられます)の住職に二世晃恭が就任し、当地に移転するという形で、明治十六年に開かれたのが当院のはじまりです。との説明でした。高井戸の賑やかな場所にこんなお寺があるんですね。

                       つづく

 


もうすぐハ~ルですね

2024-02-01 09:33:39 | 日記

さて、城北中央公園を後にして、先へと向かいましょう。

こんな散歩に来て下さいと、言わんばかりの素敵な道です。

桜川緑道という表示もありました。上を見上げると

ホラ、ちらりほらりと咲き始めたようですよ。あの歌が聞こえて来ました「もうすぐ春ですよ・・・」とね。

今度は、何とも奇妙なお寺らしき建物があります。近くにこんな立札が建っています。

福泉寺というお寺でした。このお寺はどんなお寺なんでしょう? 曹洞宗寺院の寺院で、自保山と号します。福泉寺は、入間郡関間新田の開拓に際して永見寺を退隠した即萬慧忍大和尚(寛保2年1742年寂)を招いて寛保年間(1741-1744)坂戸に創建、昭和17年当地へ移転したといいます。宗派は曹洞宗で、自保山福泉寺と号し、御本尊は釈迦牟尼仏です。即萬慧忍大和尚が寛保年間(1741-1744)に創建したとされますが、詳細な沿革は明らかではありません。昭和17年11月に埼玉県坂戸町関間新田より当地に移転してきました。

この門前の地蔵堂には、延享3年(1746)に造立された延命子育地蔵が安置されています。このお地蔵さまは昭和20年代に一時期商店街に移動され、これをきっかけに縁日が始まるなど、中板橋の復興にも大きな役割を果たしました。当寺が移転して来る前、この辺りには石神井川の水を利用したプール(遊泉園)があり、その利用者のために夏季には臨時の駅が開設されました。その後昭和8年に常設となり、中板橋駅が誕生しました。とのことで、この街を創って来た歴史もあるんですね。

                       つづく


随分広い公園のようですよ

2024-01-25 11:20:28 | 日記

案内図を見ると、随分広い公園のようです。一回りして見ましょう。

おや、神社もあるようです。御嶽神社と書かれた石柱が立っていますね。

 

これは、狛犬かな?いや御嶽神社なら狼じゃないのかな?それにしては随分やさしい顔をしてますね。見上げると、一段と上の方に本殿らしきものが見えます。

昇って見ることにします。さらに、上には末社もあります。

ここは、稲荷社のようですね、近くには、やはりお狐さんがこちらを睨んでいました。

本殿へと到着です。ところで、この神社は桜川御嶽神社と言うのですが、板橋区桜川にある御嶽神社です。桜川御嶽神社の創建年代は不詳ながら、上板橋村字栗原には、宝田家の祀る稲荷社しかなかったため、上板橋村字栗原・上板橋村字七軒屋の人々が武州御嶽神社(或は信州御嶽神社)を勧請したといいます。創建年代は不詳。旧上板橋村栗原(現・桜川の一部)・七軒屋(現上板橋)の氏神として、倭建命(やまとたけるのみこと)・金山毘古命(かなやまひこのみこと)・金山毘賣命(かなやまひめのみこと)を祭神とする。栗原の地は、康正二(一四五六)年、太田道灌が千代田村(現・皇居)に江戸城を築く際、同村宝田の住民を移動させたところとされ、この時村内に祀ってあった稲荷(現・宝田稲荷)もこの地に遷座させたという伝承もあって、往古より開けた土地柄であった。当神社もその頃、信州の御嶽山(一説に甲州)を勧請したものと伝えられる。境内にある嘉永七(一八五四)年銘の狼型狛犬は、山岳信仰を伝えるもので、同型のものとしては都内でも有数の古さを誇っている。毎年三月八日に行われる毘謝祭には、強飯式の面影を残す大盛飯の膳、大根で作った鶴亀(蓬莱山)を神前に供える風習が残されている。という説明でした。

おやおや、帰ろうとしたところ見えますか?屋根の上に、気持ちよさそうに寝そべっていた猫ちゃんがいましたよ。

                     つづく