楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

次に訪れたのは観音堂です

2018-12-31 12:55:13 | 日記

さぁ、出発です未知の町へ

ほどなく小じんまりした堂宇がありました。近づいて見ると

十五番札所 清水観音堂とあり、説明版もありました。ちょっと周囲を見て見ます。

これは清水本村橋の石橋供養塔というそうです。この供養塔は方柱か太刀石碑で、天保四年(一八三三年)前川に石橋をかけた際、建立されたものです。建立以来、永く清水本村橋の南のたもとにありましたが、平成十六年一月、人道橋の設置工事にともない隣接の現在地へ移設されました。供養塔は、橋の構築と長期の保存を願い、さらには、迷いの世界から悟りの世界へ人々を「渡す」という仏の教えにちなんで建てられたものです。当時の民間信仰の一端を示すものとして貴重です。

清水観音堂は、東大和市清水にある観音堂です。清水観音堂の創建年代等は不詳ながら、新編武蔵風土記稿では貞治7年(1368)銘の古碑があったといい、古くより祀られていたのではないかと推定できます。多摩八十八カ所霊場15番です。清水観音堂所蔵の文化財:十五番札所 清水観音堂(東大和市旧跡)清水本村橋の石橋供養塔(東大和市郷土資料)

この清水観音堂は、清水三十三観音霊場の十五番目の札所で、霊場は、狭山丘陵付近に点在しますが、一説には天明八年(一七八八)に創設されたと言われています。観音巡りは、一人の人間としての安らぎを求めるためのもので、明治の中期ごろまで盛んでした。本尊は、正観世音菩薩で、作者は行基といわれ、長さ一尺五寸(約四五センチメートル)の立像が安置されています。(清水観音堂詠歌)月影も 清くうつれる水の面 ふかきちかひを くみてしるらむ(東大和市教育委員会掲示より)

                          つづく


武蔵大和駅から宝珠禅寺へ

2018-12-27 15:37:38 | 日記

今日は、、西武線のはずれの駅、武蔵大和駅から

左側を西武線が走っています。駅はやや高台にあります。

北へ向かってしばらく歩くと、小さな稲荷神社の祠がありました。

福聚山と号し、臨済宗建長寺派寺院の寶珠寺というお寺がありました。

大事な石仏なのでしょうね。延命地蔵の立像です。説明版がありました。

六地蔵も古く、でも大事にされて並んでいます。

これは、石橋供養塔ですが、これもかなり古いもののようです。

 

寶珠寺の創建年代は不詳ですが、他所で廃寺となった寺号を当地へ移し、正福寺末寺として中興したといいます。

狭山三十三観音霊場の第14番です。

                                        つづく

 


素晴らしい紅葉の中を歩く

2018-12-24 12:16:52 | 日記

また、小さな鳥居と祠がありました。

池の周囲の傍に面している水神社という神社でした。

それを表した石碑です。

きれいですね。素晴らしい紅葉です。

何やら、木の根元に小さな祠があるようです。

姫塚の由来という立て札もあります。

こちらには石柱があります。

こちらは、殿塚の由来という立て札です。いったいどういうことなのでしょう?調べて見ました、すると、この場所には昔、お城があったのですね。その城は石神井城といったそうです。石神井城は、秩父平氏の一族で、石神井川流域を中心とする現在の東京都区部北側の地域に平安時代末期から室町時代中期頃まで勢力を持っていた、豊島氏の居城でした。石神井川と三宝寺池に挟まれた標高約四九メートルの舌状台地上に所在し、東西約三五〇メートル、南北三五〇メートルの規模の主廓と外廓からなる、比較的単純な構造の中世城郭です。昭和三一年(一九五六)以降の数次の発掘調査によって、主廓や土塁築土から一二世紀から一六世紀前半までに属する陶磁器が出土しています。文明八年(一四七六)の長尾景春の乱の際、当時の城主豊島泰経は景春に与したので、扇谷上杉氏の家宰太田道灌に攻められることとなり、翌年、石神井城は落城しました。落城後、泰経が白馬に乗って三宝寺池に深く沈み、長女照姫も後を追って入水したなど、落城にまつわる伝説が伝えられています。とありました。

                               つづく

 


鳥、鳥、冬鳥の楽園だった

2018-12-19 19:35:02 | 日記

悠々と何かをついばんでいる鳥は?

向こう岸にも、木の上の方にもいますよ。

さっきの鳥は、クンクロハジロという鳥でしょうか?これもそうです。

木の上からサッと飛んで来ました。

どうやらサギですね。

                                 つづく


また、神社があったよ~

2018-12-15 09:30:37 | 日記

また、少し池の周囲を歩くことにしました。

こんなに沢山の木の実が、小鳥たちには十分過ぎる餌の量ですね。

何やら鳥居らしきものがありました。中へ入って見ましょう。

関心のある人たちも居ました。周囲を観察しています。

小さな本殿らしき建物には、厳島神社という額が架かっていました。

周囲は、池に面してかなり大きい建物でした。ところで、厳島神社は、練馬区石神井台にある神社です。厳島神社の創建年代は不詳ですが、江戸時代には、弁天社、水天宮として既に史料に残されています。明治41年、大正4年に近隣の稲荷神社、愛宕神社、御嶽神社を合祀、昭和58年に現在の社殿が竣工しました。「新編武蔵風土記稿」上石神井村の項には、「弁天社 三宝寺池ノ中島ニアリ。神楽堂」「水天宮 池ノ側ニアリ。」とあります。弁天社は神仏分離後に厳島神社となる。水天宮は水神社である(当社から東へ50mほどの池畔にある小祠)。厳島神社は昭和56年から境内の護岸工事、57年には社殿の改築工事を始めて58年に鉄筋コンクリート造として竣工しました。南の丘の下に洞穴の祠があって穴弁天ともいいます。「北豊島郡誌」石神井村の項に「無格社厳島神社。大字上石神井字大門に在り、即ち三宝寺池畔の弁財天なり、石神井案内に曰く、池畔の洞窟、奥深き所には池霊の弁財天像を安置し里人相伝へて尊敬している。冒険の士は一把の松明を携へて暗黒裡陰風凄愴なる辺りに、池霊と相語るも亦快きことではないか」と記されています。雨乞いに際し、本殿に祀り祈願すると必ず雨が降ったといいます。相殿の祭神は明治41年、大正4年に近隣の稲荷神社、愛宕神社、御嶽神社を合祀したものです。

                                  つづく