楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

いよいよ高坂ともお別れです

2019-06-23 19:50:56 | 日記

今度は、またお寺へ到着です。

きれいに並んだ六地蔵がお出迎えです。

どうやら本堂でしょうか?

香林寺というお寺です。宮花山と号し曹洞宗のお寺です。香林寺は、一峯暾和尚(承応6年1657年寂)が開山したといいます。本堂前にコンクリートの台上に一列に並んで五基の板碑が固定されています。比留間博「陽刻像板碑巡礼」によると、足下の九十九川(つくもかわ)の改修工事などで発見されたといわれ、この中に二基の図像板碑が見られます。

近くには、こんなに実った赤い実をつけた木がありました。

これが板碑です。

こんな銅像もあります。二宮金次郎の像かな? さて、それでは駅の方向へと進むことにします。

 駅へ向かう道路沿いには、このような様々な彫刻が並んでいました。芸術の町でもあるんですね。

 

                                              おわり

 

 


今度は神社に来ました

2019-06-18 19:44:17 | 日記

この辺りには、清水が湧いている場所がたくさんあるようです。ここは宮鼻の清水という場所です。

この周辺の人たちは、自然の恵みとして生活用水として利用しています。

近くに神社がありました。高坂台地の南端の宮鼻地区にあるこの神社は、江戸時代からこのあたりの鎮守として祀られてきた神仏混淆の社です。当時から残されている神宝である阿弥陀如来の懸仏が「八幡様の身正体」として崇拝されているそうです。八幡神社境内から越辺川流域に広がった肥沃な田んぼが見渡せ、境内の左手に手水場、また、日枝神社と天満天神社の社が合祀されています。

この幹の根元を見てください。根回り8mの大ケヤキで、 市指定天然記念物だそうです。江戸時代に宮鼻地区を知行した旗本横田氏は武の神様として崇敬されている八幡神社に自らの兜の八幡座(兜の鉢の頂上)を納めたと伝えられています。幹周り約7.8メートル、樹高約8メートルで市指定の文化財となっているこのケヤキは樹齢約700年と推定されています。八幡神社の御神木とされてきたこのケヤキは、古くから地域の人の心の拠り所であり、農作業の合間の涼をとる憩いの場所として親しまれてきました。

離れて見ると、このように太い幹がよくわかります。

                             

                                    つづく

 


今度はお寺に来ました

2019-06-10 17:21:48 | 日記

石段を上がる足元に、素朴な庚申塔の祠があります。

周辺にはお墓がたくさん建っています。

ここが本堂になります。青蓮寺というお寺だそうですが、天台宗寺院の青蓮寺は常楽山仙住院と号します。青蓮寺の創建年代等は不詳ながら、春慶(宝永21705年寂)が中興開山したといいます。埼玉県文化財に指定されている当寺の板石塔婆は、当地の小代氏一族関係者が弘安4年(1281)力を合わせてこの板碑を建立したもので、もとは高坂大地の北端大日山(現折本緑地)辺りにあったと伝えられています。

ここが、その小代氏石塔婆のある供養塔が保管されている場所です。

青蓮寺所蔵の文化財 弘安四年銘板石塔婆(埼玉県指定文化財)この銘文には、小代氏四代目重俊(右金吾禅門とは右衛門尉の唐名で重俊のこと)の仁徳を慕って、また祖先の供養のため、縁ある小代氏一族関係者が力を合わせてこの板碑を建立したことが記されています。この板石塔婆が建てられた弘安四年(一二八一)は、蒙古襲来(弘安の役)の年で、一族の武運長久と団結を願う意味もこめられていると考えられています。小代氏は、武蔵七党(横山、猪俣、野与、村山、西、児玉、丹党)の児玉党の入西資行の次男遠弘が、小代郷に住して小代を名乗ったことに始まります。子息重康の「宝治合戦」での活躍により、重俊は宝治元年(一二四七)鎌倉幕府から肥後国野原荘(現熊本県荒尾市)の地頭職に任ぜられています。当時はその地に赴かず、地頭代に所領の管理を任せていましたが、文永八年(一二七一)幕府から蒙古襲来に備えるため、また、領内の争いを治めるため重俊の子息等は野原荘へ行くことを命ぜられ、小代氏一族は野原荘へと移り住んでいきます。その後、三百数十年にわたりその地で勢力を誇ったそうです。
小代氏の菩提寺となっている荒尾市の浄業寺には、一族の供養塔群が残されています。

                                   つづく