楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

今日は、飯能まで足を伸ばしで

2018-05-23 19:14:04 | 日記

降り立った駅は、西武池袋線の飯能駅です。丁度、飯能まつりに近い時期でした。垂れ幕も架かってますね。

向かった先は、ご覧のように飯能織物協同組合の事務所です。飯能市仲町(元原町分)31にあります。大正/1922に出来た木造2階建、瓦葺、建築面積221㎡の建物です。飯能の経済を支えた織物業の組合事務所で、和洋折衷の意匠でまとめる木造二階建で、屋根は寄棟造桟瓦葺、外壁下見板張。小屋はトラス。一階廊下の漆喰内壁の鏝絵、二階大広間天井は小幅の折上天井で中央部に起りを持たせるなど、細部意匠にも特色があります。登録有形文化財にもなっています。外観は洋館的デザイン、屋根には日本の伝統的建築物に見られたしゃちほこの棟飾りが乗った独特な姿を今にとどめています。

 さらに先へと進むと、ご覧のような胸像などと何ともいえない風情のある町並みが現れました。いかにも古い町だったのですね。

次は、どんなものが現れるのか?益々楽しみになって来ました。

                                                           つづく

 

 

 


柳瀬川の源流近くでしょうか?

2018-05-14 17:33:26 | 日記

 この細い川の流れに沿って歩いています。

どうやら周辺は、お墓だらけのようです。

この案内版を見ると、峰薬師というお堂のようです。

お堂の前にも、峯薬師堂と書かれた石柱がありました。

中を覗くと、石仏が2体と倒れてしまった石柱や装飾柱がありました。さらに進むと、

また、小さな祠の中に地蔵が鎮座していました。

近くの人たちが、赤い布で地蔵をくるみ、丁寧に信仰している様子がうかがえます。さらに行くと、

 閉ざされた門の前に案内版が立っています。それによると、このお寺は板碑が寺宝になっているようです。

大光山無量寿院と号し曹洞宗のお寺です。来迎寺は、藤原秀衡の守護仏だった阿弥陀三尊を源頼朝の命で鎌倉に搬送中、東京都府中市車返で動かなくなってしまい、引き返しても当地で動かなくなってしまったことから草堂を建立したといいます。榮芝願富(天正10年1582年寂)が開山、慶安年間(1648-1651)には寺領10石の御朱印状を拝領したといいます。詳しい歴史はわかりませんが、鎌倉時代の初期に創立されたと考えられ、本尊は阿弥陀三尊であり、「車返しの弥陀」という伝説があります。昔、奥州平泉、藤原秀衡の守護仏であった阿弥陀三尊を源頼朝の所望により鎌倉に運ぶ途中、東京都府中市車返まで来たところ、車が急に動かなくなり、やむなく引き返してこの地まで来たが、再び車が停ったので草堂を建てて三尊を安置したと伝えられています。また、寺宝である板碑は高さ一五五センチ・幅五〇センチ・厚さ八センチあり、建長八年(一二五六)二月二十三日に武蔵七党丹党の加治左衛門尉丹治泰家が建てたものであるとあり、碑には梵字「キリク」(弥陀)のほか観無量寿経の一節、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」の文字が刻まれています。

                        つづく


二つの神社を訪問しました

2018-05-08 17:16:08 | 日記

 さて、先へと進んで見ましょう。

途中に、個人の家の前ですが、馬頭観音石柱が立っていました。かなり古いもので、字もよく読み取れません。

 古い藤の木の切り株です。

小さな赤い鳥居の先に祠もあります。ここは、所沢市北野南にある稲荷神社で、創建年代は定かではありませんが、この周辺の村の始まりと同時に祀られた神社だそうです。由緒によると、当地の小暮孫兵衛が伏見稲荷神社に願って文政7年(1824)に分霊を祀ったといいます。当社はかつて長者峰と呼ばれ、北野の中で一番高い所にあり、碑に「当社はいつのころか五人者がここに入った時に土地の神を祀ったもので、村の始まりと神社を祀り始めたのは一緒であり、この五戸を西内手組と呼んだ」とあります。「稲荷様として正式に祀ったのは、文政七年二月に当地の小暮孫兵衛という人が伏見の稲荷神社に願って分霊を祀った時からである」とありました。また、藤森稲荷の社名は境内に大きな藤が二本あることによる。この藤にかかわる口碑に「昔境内の藤を切る相談を氏子がしていたら突然二〇メートルもの火柱が藤の上に立ったため、以来、この藤は切らない」ということに。社記によると、文政七年分霊の際の伏見稲荷松本築後守による分霊証書があり、内陣には往時のものと思われる「稲荷大明神」と墨書のある金襴地包みの神璽(高さ二五センチメートル)を祀る。社地は明治九年の実測で二一坪であったが、同年隣接する穐本彦十郎が九坪を寄附し、更に昭和五〇年穐本亀太郎が隣接地三六坪を寄進したため、現在六六坪である。本殿は昭和四年に御大典を記念して再建されたものであり、社殿改築記念碑がある。昭和五〇年には境内整備事業を行い、藤棚を新設している。祀職は古くから北野天神社社家の栗原家が務めています。

さらに、少し先を行くと

 

所沢市山口にある神社で、美園上八雲神社といいます。山口高忠が山口城の規模を拡大して当地を城内庭園に設け(美園上)、山口城の鬼門除けとして天王社を奉祀したといいます。山口城の落城に伴い衰廃したものの、名主小峰善右衛門という人物が再建したといいます。鳥居といい狛犬といい、最近造り直したのでしょうか、新しいもので扁額は墨で書かれた質素なものでした。由緒によると、当社は鎌倉時代に山口城主十二代城主山口平内左衛門尉高治の嫡子高忠が山口城の規模を拡大し、六ツ家川の流れを外堀として堀之内に庭園を設けたので里人は此の辺りを美園上と稱する様になった。茲に城主が素盞嗚尊を奉祀し八雲神社(通称天王様)と尊稱して城の鬼門守護の社とした。其の後天正年間山口城は小田原北條氏の攻むる所となり落城した。当代城主の一子山口平内は北條氏の臣下に入り其の領地も今迄の入間郡多摩郡二郡に跨がる広大な地域を失い僅かに山口北野三ヶ島藤沢を領するに至った。時経るに従い八雲神社を守護する者なく荒廃の一途を辿ったが其の後武蔵野拾数箇村の総代名主小峰善右衛門が当社を再興した。茲に里人の念殊に篤く以来四百余年の間祭祀を催し地域民の幸福と和楽を祈念するに至ったとありました。

 

                                                                          つづく