楽しいお散歩

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

こちらへ寄って見ましょう

2022-12-30 10:58:50 | 日記

土支田方面へ回って見ました。

おごそかな感じが漂う神社に来ました。

土支田八幡宮という神社でした。練馬区土支田にある八幡宮です。土支田八幡宮の草創については不詳ながら、建久3年(1192)の創建と伝えられるといいます。土支田村(字俵久保)内にあった八幡社・神明社・稲荷社を明治7年合祀、北野神社と称していたといい、「俵久保の天神さま」と呼ばれていたといいます。昭和22年主祭神を誉田別尊に改め、土支田八幡宮と改称しています。

詳しい創建年代は不明ですが、鎌倉時代末と伝えられています。
「土支田村下組明細書上帳」など、江戸時代の古文書には、八幡社他三社の記載があり、明治時代になって合祀し、「北野神社」と称しました。土地の人々からは字名で「俵久保の天神様」と呼ばれ親しまれていたそうです。
主神は誉田別命、相殿神に菅原道真命、天照皇大神を祀っています。戦後、現在の社名に改称する以前は主神に菅原道真命を祀っていました。境内社には稲荷社、八雲神社、御嶽神社、祓戸社があります。


本社には江戸時代の書家、三井親和筆の社号扁額のほか、文化元年(一八〇四)銘、粉川市正作の半鐘(区登録文化財)などが保存されています。また境内には大六天などの貴重な石造物があり、拝殿右手には、建武の親政の時偉功のあった新田義貞の家臣、篠塚伊賀守時成が戦勝祈願して植えたと伝えられる「伊賀の松」の切り株が往時の名残を留めています。土支田八幡宮所蔵の文化財としては、土支田八幡宮の半鐘(練馬区登録文化財)土支田八幡宮の社叢(練馬区登録文化財)これは社殿の周囲に植栽されたスギ、ヒノキを主な樹種とする森です。区内神社の社叢としては比較的広く、高木が多いことが特徴です。ということでした。

本殿も、なかなか立派ですね。さて、この土支田地区にはまだまだありそうですよ。

                            つづく


次なる神社は

2022-12-29 15:17:32 | 日記

精進揚稲荷神社を後にして、さらに進んで行くと

今度は、また似たような神社に着きました。よく見ると

土支田北野神社とあります。土支田北野神社は、練馬区谷原にある北野神社です。土支田北野神社は、関口勘右衛門が関口家の守護神として慶長年間(1596-1615)に創祀したといい、後に土支田村字三丁目の守護神として崇敬されたたといいます。境内石造物で古いのは、明治八年(一八七五)の水盤である。社殿は昭和五八年(一九八三)までに修理している。なお、鳥居落成参拝記念碑(大正九年)、宗教法人設立記念碑(昭和五八年)、御嶽山太々神楽講碑(明治四三年)などがあります。内樹木はほとんどなく、社殿近くに大きな老松の切株が残されています。

こちらの神社も、地元の人たちに何とか守られているという様子でした。

ここから、そろそろ帰り支度に入り駅の方面へと向かう途中にあったのがこの建物です。練馬区の清掃工場だそうです。

                      つづく


今度は、神社に来ました

2022-12-26 09:45:12 | 日記

面白い名前の神社です、どんないわれがあるのでしょうか?

精進場稲荷神社というそうですが、練馬区大泉町にある稲荷神社です。精進場稲荷神社の創建年代等は不詳ながら、土支田村下屋敷精進場の鎮守社として祭祀されていたといいます。明治40年大泉氷川神社に合祀されたものの、昭和9年環座したそうです。創立年代は不詳で、古来、豊島郡土支田村下屋敷精進場の鎮守社として祭祀されていたが、明治四〇年(一九〇七)、現在の氷川神社(大泉町)に合祀され、その後、地域集落一帯に悪疫が流行し、その災疫を除くため昭和九年(一九三四)九月二八日、再び元の鎮座地である現在地に遷座されました。当社は、もとは広い境内を有していましたが、昭和四四年(一九六九)、関越自動車道用地として境内地のほぼ中央部分が買収されてしまいました。そこで買収による財産処分と氏子の奉納により、昭和五三年(一九七八)九月二八日、残された社地に社殿等を新築したそうです。正面の鳥居と精進場稲荷社の石碑は平成一五年(二〇〇三)の造立です。

どうも末社らしいです。

ここが本殿ですが、やはり狭い境内の中にも立派に建っていました。

                           つづく


またまた、お寺がありました

2022-12-21 15:32:55 | 日記

今度は、通りに面してこんな大きなビルのようなお寺に来ました。

浄土真宗のお寺ということですが、関東大震災後の築地区画整理により、敬覚寺真龍寺とともに当地へ移転しています。宝林寺といい、創建年代は不詳ですが、僧林西(明暦年間没)が日本橋浜町に創建、明暦の大火(1657)に築地本願寺寺内へ移転したといいます。日本橋浜町で明暦3年(1657)正月18日の振袖火事により焼失し、八丁堀築地に移転した後、元禄8年(1695)12月26日火災により焼失、また天明4年(1784)12月26日焼失、明治5年2月26日焼失、大正12年9月1日関東大震災により焼失した。と何回も火災に遭遇して昭和3年現在地に移転し、昭和12年(1937)本堂完成、昭和44年に庫裡の増改築、境内整備、また昭和57年には、仏具修復を行い遷座50年法要を執行しています。平成12年には、現代的な建物に建て替えられ、翌年5月には落慶法要も執り行われました。本堂には、本尊阿弥陀如来を中心に、右側に親鸞上人、聖徳太子、左側に良如上人、七高僧の絵像が安置されています。また11月10日の報恩講には「大谷本願寺親鸞上人之縁起」が掲げられます。第9世住職羽田雲堂は能筆家、また第10世子雲は南画家として知られ「子雲画集」の著があり、父子一族合葬墓となっています。本堂の格天井には子雲の門弟の手になる花鳥図34点が描かれていて、この格天井は平成12年の建て替えの際、外陣から内陣に移されています。墓地には、明治、大正以降の墓石が多く、基礎に大和屋、近江屋、越後屋、鷲善等屋号を刻んであるのが目につきます。

ここから、ほんの少し行くともう一つのお寺である真龍寺へ来ました。こちらも浄土真宗のお寺で、白雲山と称します。文明年間(1467-87)、武州金杉に僧願浄が創建したと伝えられます。明暦3年(1657)全焼して築地本願寺寺中に移転、関東大震災後の築地区画整理により、宝林寺敬覚寺とともに当地へ移転しています。谷原6丁目のバス通りに三軒寺というバス停がありますが、30メートルほど北へはいったところに、真龍寺、宝林寺敬覚寺が隣り合わせてあり通称三軒寺といい、築地本願寺の地中(寺内)にあったものが、関東大震災後区画整理のため、三寺揃って谷原のここに土地を定め、昭和3年に新築移転してきました。

本堂は、大変新しいものですが、脇には歴史を感じる石柱が立っています。

屋根下には、こんな彫刻も施されています。ところで、この浄土真宗本願寺派寺院の真龍寺は、開基は願浄で織田氏の一族といわれています。文明年間(1467-87)、武州金杉に一寺を建立、明暦3年(1657)全焼して築地に移りました。築地本願寺の塔頭寺院は58を数え、真龍寺も宝林寺敬覚寺とともにその名を連ねています。関東大震災の折、本尊や過去帳その他を築地の川に浮かべ、杭に繋いでおいたところ紐が焼けて流されたが、本尊は人に拾われて事なきを得ました。過去帳は水にぬれて用をなさなくなり、新に墓地の番号順に整理されています。ここには江戸時代の著名な儒学者、三縄桂林の墓石があります。「桂林文庫」「桂林遺稿」等の著書があり、文化5年(1808)歿年65でした。よく整備された墓地の中には、火を浴びて角が崩れたり、ひびがはいったりした墓石もあって震災の跡を残しています。平成12年、墓地の大改修を行いました。とのことでした。

                          つづく

 

 


今日は、江古田から歩きます。

2022-12-14 17:06:34 | 日記

江古田駅から少し歩いていたところ、こんな馬頭観音に出会いました。

そばには、三原台の馬頭観音という説明版も立っています。それによると、寛政10年(1798)11月に建立された馬頭観音塔です。とあります。見かけに寄らず随分と古いものなんですね。正面の上部には、像高約32cmの馬頭観音座像が浮彫りされ、下部には「奉勧請観世音菩薩 天下泰平国土安穏」の文字が刻まれています。裏側の下部には、「小日向水道町 石工勘助」と刻まれ、石工勘助は、江戸時代後期に江戸小日向水道町(現文京区)で数代にわたり石屋を営んでいたことが知られています。区内に残る江戸時代の路傍の石造物において、石工の名が刻まれる数少ないものです。二つの講により江戸の石工に依頼して建立されたことがわかるとともに、総高は209cm、塔身の高さは165cmで区内最大の馬頭観音塔だそうです。

また少し行くと、門前に置かれた岩に書かれた敬覚寺という浄土真宗のお寺の前に来ました。

中へ入ったところ、手水鉢の場所に何と水琴窟がありました。

こちらは、弘法大師ならぬ親鸞聖人の像が立っています。

ここ敬覚寺は寛永18年(1641)7月、江戸青山に開かれたそうで、専照寺と号し、開基は吉川内蔵之助玄武という武士です。本願寺十三世門主良如上人の弟子となり、法名を了玄と称し、明暦の大火の直後の万冶2年(1659)築地本願寺の地中(寺内)に移転、敬覚寺と改称していよいよ栄えたが、度々の大火や関東大震災で全焼し、昭和3年(1928)谷原の当地に移転再建したそうです。その後、本堂を鉄筋コンクリート造りに改築し、昭和44年(1969)4月20日、落慶法要と宗祖親鸞聖人七百回大遠忌を合わせとり行いました。寺宝には、本尊をはじめ親鸞聖人絵像、七高祖絵像(ともに寛永18年[1641]作)聖徳太子絵像(元禄14年[1702]作)等があります。境内には50年余りを経た桜が数本、東屋もしつらえていて、花の季節には美しい眺めが楽しめ、喜ばれています。とのことでした。

                      つづく