楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

またまた、大変なお寺へ来たよ

2021-11-28 16:58:33 | 日記

少し引き返すような道を西方向へ歩いていたら、

随分と屋根の反り返った建物が出て来ました。

建物の前には、こんな立て札が立ってます。この建物は、正福寺千体地蔵堂といい、都内唯一の国宝建造物です。地蔵堂本尊及び小地蔵尊像は、市指定文化財となっています。千体地蔵堂は、鎌倉円覚寺舎利殿とともに唐様建築を代表する建物です。波形欄間、花頭窓、屋根の反りなどに特徴があります。昭和8年-9年に屋根の茅葺きをこけら葺きに改修した際に発見された墨書銘により、室町時代の応永14年(1407)の建立とわかりました。寺の縁起では鎌倉幕府の執権北条時宗が鷹狩りの際病気になり、夢の中で地蔵菩薩からもらった丸薬で病が治ったことから地蔵堂を建立したといわれています。地蔵堂本尊は、昭和48年の修理のとき文化8年(1811)、江戸神田須田町万屋市兵衛弟子善兵衛と書かれた墨書銘が発見されました。また小地蔵尊像については、江戸時代の地蔵信仰が盛んなとき、多くの小さな地蔵尊の木像が奉納され、堂内の天井に近い長押に置かれ、千体地蔵堂の名もここに由来します。祈願する人は、小地蔵尊像を一体借りて、家に持ち帰り、願いが成就すれば別に一体添えて奉納するというもので、像の裏側には祈願者の名前や年号が入っており、大ささは10cmから30cmほどのもので正徳4年(1714)から享保14年(1729)のものが多く、奉納者は、地元は勿論、前沢・国分寺・小金井などに及んでいます。

正福寺千体地蔵堂と呼ばれるとおり、堂内は、多くの小地蔵尊が奉納されています。一木造り、丸彫りの立像で、高さが10-30cm位のものが大部分です。何か祈願する人は、この像を一体借りて家に持ち帰り、願いが成就すればもう一体添えて奉納したといわれます。背面に文字のあるものは、約300体で、その年号は、正徳4年(1714)から享保14年(1729)のものが多く、奉納者は東村山を中心に、所沢、国分寺、小金井にまで及んでいます。

奥へ入ると、また数多くの石像が並んでいます。

違いが分かりますか?

                             つづく

 


またまた、こんなお寺に

2021-11-27 15:28:25 | 日記

お寺の近くに、こんな建物が立っていました。何なんだろうと調べると、建物に元弘の碑とあります。それについて、元弘3年(1333)5月8日、新田義貞は上州(群馬県)生品明神において倒幕の兵を挙げ、22日鎌倉を攻略した。鎌倉街道に沿って進み、5月12日久米川に布陣し、15日府中分倍河原、18日相州(神奈川県)村岡の合戦など、多くの戦いが繰り広げられた。この元弘の碑の銘文により小島法師が著したといわれる「太平記」の15日-18日の戦いが裏付けされ、戦史を実証している。銘文によってわかるように新田軍の将士、飽間斎藤氏三人の討死が刻まれている。中世、戦場には陣僧が加わり、戦死者の回向、時には軍使の役目もした。陣僧は、時衆(時宗の僧)が多かったようで、戦死者の菩提を弔うため、仏事供養を託された。この碑は、時宗の僧「玖阿弥陀仏」が勧進をし、「遍阿弥陀仏」が銘文を書いている。「玖阿弥陀仏」は鎌倉街道に面した久米(所沢市)の長久寺を開山したといわれる「玖阿」と同名である。この碑は、もと狭山丘陵東端の八国山中腹の永春庵にあったが江戸末期には永春庵とともに徳蔵寺に移された。材質は、緑泥片岩。高さ147cm。幅44cm。種子は不明、梵字で光明真言が刻まれている。この碑がある福寿山徳蔵寺は、江戸時代の元和2年(1616)に壁英禅師が開山した。臨済宗大徳寺派・江戸赤坂種徳寺の末寺で本尊は白衣観立。寺伝によると鎌倉期飽間斎藤氏が白衣観音を安置して寺が興ったといわれている。朝木義栴和尚(1892-1952)が考古資料、板碑など収集した。これが堂字に雑然と並んでいたことから「ちらかし寺」の異名があった。これらの収集品は、現在徳蔵寺板碑保存館に展示されている。また、徳蔵寺は、狭山観音霊場の第11番で、境内にある永春庵(本尊正観音)は12番となっている。

これが永春庵なのですね。

本堂になります。

ところで、臨済宗大徳寺派の徳蔵寺は、福寿山と号します。創建年代は不詳ですが、鎌倉時代の草創とも室町時代の草創ともいい、新編武蔵風土記稿では、壁英禅師(寛永12年1635年)を創建と記しています。江戸時代中期に永春庵を八国山より境内へ移し、明治時代に入り正位寺を合併しています。永春庵で所蔵していた板碑は、元弘の板碑と言われ国重要重要文化財に指定され、板碑保存館に保管されている他、数多くの板碑をかつて本堂に所蔵していたことから、ちらかし寺とも呼ばれました。武蔵野三十三観音霊場7番、狭山三十三観音霊場の11番、12番(永春庵)です。徳蔵寺所蔵の文化財:元弘三年斉藤盛貞等戦死供養碑(国指定重要文化財)比翼碑(東村山市指定有形民俗文化財)獣脚付蔵骨器(東村山市指定有形民俗文化財)白衣観音像 不動明王および二童子像 達磨大師坐像 地蔵菩薩立像 薬師如来坐像(旧正位寺本尊)十六羅漢図 釈迦十六善神図 十三仏図 伏鉦 獅子鈕鼎形香炉などかなりの品々がありますね。また、比翼碑は双式板碑、または連碑などとよばれ、対になっている板碑で二基一対や、一石で二基、三基彩ったものもある。この比翼碑は二基一組で延文4年(1359)に造られた。主尊は蓮座に乗った阿弥陀三尊で、「光明遍照一口以ゐ、ロひ満ん、逆修、十万世界、念仏衆生、摂取不拾」の偈があり男女二人(おそらく夫婦)の逆修(生前に供養しておくこと)供養碑で、ともに高さ97cm、幅28cm。この碑は久米川町四丁目白山神社付近の墓地にあったものである。というものでした。

                                   つづく


こりゃあ、大きなお寺だ

2021-11-26 11:09:54 | 日記

熊野神社を出て、またしばらく行くと、今度は大きなお寺へ来ました。

こんな大きな木もあります。これはこのお寺の文化財にもなっているもので、梅岩寺のケヤキ(東京都天然記念物)目通り幹囲7.1m、高さ約32.5m、幹は地上約3mのあたりから数本の大枝に分かれる。新編武蔵風土記稿巻121、久米川村梅岩寺の条に「門、芳林山ノ三字ヲ扁ス、周囲二丈許ノ古槻、或ハ一丈二尺許ノ椵樹、門ニ入テ左右ニアリ」と記している。地勢なお旺盛で、都内にあるケヤキのうち有数の巨樹であり、とくに樹高が秀でている。ケヤキはニレ科に属し、巨樹となる落葉樹、春には新葉と同時に淡黄色の細かい花を開くと、ありました。

こんなたくさんの石仏もありました。この石仏は、新四国石仏(東村山市指定有形民俗文化財)江戸期-特に中ごろから霊場巡り、巡礼が庶民の間に盛行し、近くは坂東・秩父に、遠くは四国八十八ヶ所詣でなど、いわゆるお遍路が行われました。四国への霊場巡りは現代とちがって数ヶ月もかかり、経済的にも身体的にもそれはたいへんなことで、だれでもが実行できるものではありませんでした。そこで地元に八十八ヶ所の石仏を造立し、四国まで行かなくとも、同じ功徳が多くの人に得られるようにしました。これを新四国石仏といいますが、この石仏は文政7年(1824)に久米川村の榎本権兵衛らが建立し奉納したものであり、現今、完全に八十八体として残されているものはこの近郷になく、信仰史のうえからも価値があります。

あっ、さっきの木はこれだったんだ。

これは、六地蔵でしょうか。

梵鐘堂も大きいですね。

本堂も立派です。周りを見て見ましょう。

梅岩寺の庚申塔(東村山市指定有形民俗文化財)江戸時代のころより庶民の間に庚申信仰がさかんになり、村々では庚申講がつくられ、その講によって庚申塔が建立された。寛文(1661-1673)のころ多く建てられたが、この塔は市内で最も古いもので、延宝5年(1677)梅岩寺三世一宣高策和尚(天和2年没)が建立したもので、笠付、上部に日輪・月輪、下に三猿、台石に講中の人名が刻まれている。庚申信仰とは六一日目に廻ってくる庚申の夜に人体の中の三〇の虫が抜け出して、その人の悪事を天帝に告げられるのを防ぐという中国道教思想に始まる信仰である。

不動明王像でしょうか。

これは、また別の大きな木です。カヤの木ですね。このお寺の紹介です、曹洞宗寺院の梅岩寺は、芳林山と号します。創建年代は不詳ですが、真言宗白華山観音寺として応永5年(1397)創建と伝えられ、戦国時代の兵乱で焼失、その後曹洞宗に改め、芳林山梅岩寺と改号、浄牧院11世阿山呑硯(承応元年1652年没)が中興したといいます。明治時代前後に、大宙山瀧谷寺を合併しています。当寺にあった正観音像(火災で焼失)は慈覚大師の作で足利尊氏開運の霊佛であったと伝えられるほか、徳川家より寺領10石を受領していることから、寺紋には足利家の丸に二引紋、徳川家の葵紋を用いています。狭山三十三観音霊場の9番、10番(瀧谷寺)です。そして、このカヤの木の説明です。梅岩寺のカヤ(東村山市指定天然記念物)梅岩寺のカヤは都内でも有数のカヤの大木で目通り幹囲5m、高さ約30m。樹令はおおむね600年です。。新編武蔵風土記稿久米川村梅岩寺の条に「周囲二丈許の古槻、或は一丈二尺許の椵樹、門に入て左右にある」とありますが、槻はケヤキ(東京都指定天然記念物)であり、椵はこのカヤを指すと思われます。カヤは一位科に属し、常緑樹で枝も多く、うっそうとしています。

                                   つづく


その先には、こんな神社がありました

2021-11-23 17:46:32 | 日記

もう少し、歩いて見ましょう。

オヤッ、今度はこんな案内板がありましたよ。

やや広い公園のような場所ですが、周囲にはやたらと仏像や石柱が立っています。

立て札にあつたように、熊野神社という神社の境内なんですね。

小さな末社が立ち並んでいます。

熊野神社の創建年代は不詳ですが、元弘年間(1331~1334)久米川の合戦の時に新田義貞が後詰を置いた所といい、久米川村の鎮守として崇敬を集めました。明治4年村社に列格、本殿新築の際に栖川熾仁親王より直蹟二軸を拝領したといいます。とありました。それにしても、広い境内の神社ですね。

                              つづく

 

 


今度はこんなところに

2021-11-12 19:25:20 | 日記

次にやって来たのは、ここでした大善院というお寺です。

何やら、こんな山がたくさんあります。

さて、大善院というお寺ですが、天台宗寺院の大善院は、恵日山と号します。大善院の創建年代等は不詳ながら、高月円通寺の塔頭として、天正元年(1573)には寺格を有していたとといいます。東村山周辺の檀信徒の希望により明治32年に移転願を提出、当地へ移転したといいます。東村山周辺の檀信徒の希望により明治32年に移転願を提出、当地へ移転したといい、現在「野口のお不動さま」「水子地蔵堂」として知られているといいます。大善院所蔵の文化財:阿弥陀如来坐像(本尊)不動明王および二童子像 不動明王立像 不動明王および二童子像 不動明王図 牛頭天王図 築山および三十六童子などがあります。あの溶岩のような山に、たくさんの仏像がありましたね。

                                つづく