楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

もう少し見て行くと

2022-09-29 12:13:21 | 日記

奥の本殿へと近づいて見ましょう。

狛犬に睨まれました。

本殿の屋根を見てください、神社の雰囲気が漂って来ます。

古記録に伝えるものはありませんが、社家の伝承によれば奈良時代の創立と伝えています。相当古くから続いているようです。大和朝廷が皇威の発揚を図り四道将軍を派遣したときに、社家は神武天皇御東征に従軍し、日向の宮崎宮を姓となし宮崎と称しました。奈良時代、朝廷の命を受けて倭姫命を奉斎し、入間路の警備と七曲井の管理に当りました。東海道、入間路には宮崎を姓とした社家が多く、たとえば井草八幡宮の社家が宮崎を姓としています。本殿の左側には、明治40年に合祀された神社5社の神明神社・八雲神社・稲荷神社・愛宕神社・蔵王神社が並んで建っています。元旦祭や春、秋の大祭等には、市指定無形民俗文化財である入曽囃子が奉納されています。それでは、お暇して次へ進みます。

今度は、お寺の前に来ました。常泉寺というお寺ですね。

弘法大師像が立っています。

他にも、このような古い石仏もあります。

本堂の近くには、このような佛足石も作られています。

きれいに整備されたお寺ですね。

扁額は、蔵王山となっています。ところで、このお寺は真言宗の蔵王山観音院と号し、創建年代は等は不詳ながら、狭山市WEBによると天正年間(1573-1592)に創建したのではないかといい、元禄2年(1689)に権大僧都法印教海が、入曽観音堂の地にから当地へ移転、中興したといいます。武州八十八所霊場73番です。過去帳によりますと天正年間(1573年~1592年)に創立されたようです。
寛文3年(1663年)4月、法印宥正という住職の入寂の碑が現存しますが、その後の記録は絶え、寺は荒れていたようです。その後、元禄2年(1689年)3月に権大僧都法印教海が荒廃した当寺を再興・拡張し、当寺を観音堂のみ残して現在の地に移しました。さらにその後、権大僧都法印傅海の代の正徳2年(1712年)8月に高麗村新堀聖天院の末寺となり現在にいたります。ちなみに明治18年に火災のため山門・本堂・庫裡(裏)が焼失しましたが、明治20年に再建されました。とのことだそうです。

                         この稿 おわり

            


神社を出て、また少し行くと

2022-09-27 19:17:48 | 日記

神社を出て少し行くと、

こんな観音堂が左手に見えて来ました。七曲井の脇にある観音堂です。創建は鎌倉時代の建仁2年(1202年)で、文保2年(1318年)の旱魃の際に村人が観音に祈り古井戸を浚うと水が湧出した、との伝説が残る。現在は常泉寺(狭山市北入曽315)の飛地境内で、堂は平成14年の再建だそうです。

大きな立て看板のような七曲井という文字が目に入りました。

市内入曽地区の北入曽にある「七曲井」が、平成の改修が行われ、見学しやすくなりました。

旧鎌倉街道沿いにある「七曲井」は、不老川左岸に位置し、奈良時代に掘られたという説があります。飲料水を得ることが困難だった武蔵野台地では漏斗状(すり鉢型)に掘り下げて井戸を作りました。上口部の直径が26メートル、井桁までの深さが15メートルあります。そして、この井戸の素晴らしさは、水を汲くむ道跡がしっかりと確認されていることです。道は、稲妻形に下に向かい、底部で井桁を一周しています。これだけ巨大な井戸ですので、さまざまな伝説があります。
 昔、日本武尊が武蔵の国へやってきたとき、兵は疲れ、飲み水にも困ったそうです。村人も水には苦しんでいたことを知り、さっそく尊は 『この地を掘ってみよ』と命じ、大勢の人の手によって井戸が造られたというお話です。また、ある大干ばつに襲われたときのことです。井戸のそばにある観音堂の聖観世音さまの「お堂のうらの古井戸を掘ってみよ」とのお告げにより、掘り返したところ水が湧わき出て、村人は助かったということです。こういう説明がありました。

この川は、不老川といい、この水を飲めば永遠に若く過ごせるようですよ。

さて、次へと進みます。鳥居が見えて来ました。

野々宮神社という案内板が立っています。

入って見ると、このような案内板もありました。野々宮神社(北入曽)は、狭山市北入曽にある野々宮神社(北入曽)で、野々宮神社(北入曽)の創建年代等は不詳ながら、日本武尊の東征にしたがった社家が、当地に土着、日本武尊(蔵王神社)並びに大日孁貴命(神明社)を創建したと伝えられ、建仁2年・天正4年・元禄2年・宝永3年の再建棟札が残されているといいます。明治40年神明社・八雲神社・愛宕神社・稲荷神社・蔵王神社を境内に合祀しています。なお、同名の社が日高市野々宮の野々宮神社鴻巣市の野宮神社とあり、社家の先祖は日向国タカサダの地より来住、3家に分かれたといいます。

                        つづく

 


今度は神社だよ。よく見て見ましょう

2022-09-24 14:51:44 | 日記

境内をひと回りして見ます。

狛犬も、なかなか威厳がありますね。

案内版が立っています、入間野神社というそうですよ。建久2年(1191)の鎮座と伝えられ、神像には、天正6年(1578)卯月と記されています。旧号を国井神社と称し、後に御岳大権現と称しました。社領として慶安2年(1649)十石の御朱印を賜り、明治元年社号改正につき、御岳神社と称しましたが、明治40年5月3日、浅間神社、神明社、天神社、稲荷社を合祀しました。明治44年6月、両村社を合祀し、社号を入間野神社と改めました。明治初めの神仏分離により、別当であった金剛院の管掌を離れ、社号を御嶽神社と改め、明治五年には南入曽の村社となりました。同四〇年には八坂神社・天神社・稲荷社・神明社の四社を合祀し、更に、同四四年には水野の村社で木花咲耶姫命を祀る浅間神社を合祀すると同時に社名を入間野神社と改めた。よって、覆屋の中には、流造りの御嶽神社本殿と春日造りの浅間神社本殿とが並んで奉斎されているそうです。

それで、もう一つ鳥居があるんですね。お参りしている人は、本殿とは違うようですが旧御嶽神社の方でしょうか?

こちらは末社ですね。

本殿に到着しました、かなり広い境内でしたよ。

境内には入間招魂社も祭られています。例年10月中旬には県指定無形民俗文化財「入曽の獅子舞」が奉納されます。この獅子舞の歴史は古く、入間野神社所蔵の獅子舞を描いた奉納絵馬には「宝暦八年(一七五八)九月当村中」とあるので、その起源は少なくとも江戸時代中期までさかのぼることができます。また、天狗が持つ軍配には「風雨和順五穀成就」とあり、かつては豊作を願って村内を舞って歩き、日照り続きのときは雨乞いや悪疫退散を祈願して舞ったこともあるといわれています。獅子舞の構成は、獅子役三人、天狗(はいおい)一人、棒使い二人、花笠(ささら)四人で、これに笛役八人、ほら貝一人が加わります。

舞は勇壮で、「前狂い」と「後狂い」があり、前狂いは、いりは(入庭)、ごろしち、まわり狂い、竿がかり、まわり狂い、花吸い、まわり狂い、唄、ひきは(引庭)の順で、後狂いは、みつっぱえ、まわり狂い、唄、けんか、ひきはの順で舞います。

                          つづく


ここはどんな処かな

2022-09-19 12:27:47 | 日記

今日は、こちらの駅から出発です。

駅からの大通りを北へ向かって歩きます。

前方に何やら見えて来ましたよ。近くに来ました。

金剛院というお寺でした。真言宗豊山派の寺で、奈良県長谷寺の末寺、本尊は不動明王です。当寺の創立年代は明らかではありませんが、建久年間(一一九〇~九七)と伝えられます。天文年中(1532~54)に深悦沙門が中興し、その後の慶安二年(1649)には三代将軍徳川家光から御朱印十石を賜っています。天保四年(1833)及び明治三十八年に火災にあい、四脚門と土蔵を残し全焼しましたが、再建し、昭和三十二年に現在の唐招提寺風の屋根に大改装しました。堂内には、享保元年(1716)玄慶作の木造不動明王座像をはじめ、室町時代以前の作と推定される木造地蔵菩薩立像など多数の文化財があります。また、境内にある四脚門は、天明二年(1782)に寛慶により建立されたものです。その他、当寺には、県指定無形民俗文化財となっている「入曽の獅子舞」が伝承されており、毎年十月十四・十五日に奉納されます。金剛院所蔵の文化財:木造地蔵菩薩立像(狭山市指定文化財)があります。それでは、中へ入って見学しましょう。

こんな灯篭がありましたよ。

弘法大師像ですね。

 ところで、寺宝の地蔵菩薩とは、釋迦が亡くなってから五十六億七千万年後に弥勒菩薩が現れるまでの間、この世で衆生(生命のあるものすべて)を救う仏とされています。そのため尊顔は慈悲深い穏やかな顔立ちをしており、右手には錫杖を、左手には宝珠を持っています。錫杖は僧侶が持つ環のついた杖で、もともとはインドの僧が山野を遊行するときに振り鳴らし、毒蛇や害虫を追い払ったものといわれています。宝珠は如意宝珠ともいい、意のままに宝などを出すという珠のことで、病苦も取り除くことができるとされています。この地蔵菩薩立像は、像高七九・五cm、寄木造り、玉眼、漆箔及び金泥彩からなり、かつて同院所属の南入曽にあった地蔵堂の本尊でした。金剛院所蔵の古文書によると、春日の作(神作といって、仏像の由来を尊厳にするために付けられることが多い)と伝える古仏が失われたため、元亀四年(1573)に地元の有志と金剛院の甚悦沙門らが、仏師玉運に依頼して再興したことや、承応二年(1563)に、修理が行われたことが記録されています。仏師の玉運は、元亀・天正年間に当像以外にも武蔵・相模(現在の埼玉県・東京都・神奈川県)地方で数件の仏像製作や修理を行っていることが判明しています。

                        つづく


東福寺とは、もっと見て見よう

2022-09-17 12:33:47 | 日記

本堂は、かなり高台にあるようです。行って見ましょう。

六地蔵も整然と並んでいました。この時節柄でしょうか、マスクをしてお出迎えのようです。

梵鐘堂ですね。

徳川将軍御膳所跡の碑だそうです。それでは、改めてこのお寺の説明をすると金峯山世尊院と號し、本尊不動明王です。立像長一尺二寸。舊は字御嶽山にあつたのを、某年現在の地に移し、開山は未詳、開基は村民次郎右衛門の先祖某で、天正年中の起立と傳へるけれども未だ詳でない。境内と墓地を合せて一五五〇坪。本堂の西に鐘樓があり、寶永七年在銘の鐘が掛けられてゐる。また本堂の左に大師堂があり、府内八十八箇所の第二番に當る。もと大久保の二尊院に在つたのを明治の初年當寺に遷したのである。尚、當寺は、氷川神社(現在村社、江古田三丁目一一五九鎮座)の別當であり、又江戸時代には将軍放鷹の際の御膳所であつた。ということです。

また、鷹狩り は、飼いならした鷹を放って獲物を捕える狩猟法で、おもて向きは、将軍の遊びでしたが、幕府による江戸近郊の農業・治安の維持の役割をはたしていました。吉宗は、五代将軍綱吉のとき廃止されたこの制度を復活し、中野など江戸近郊六か所の鷹場を指定しました。指定された村々の農民たちは、鷹場役人に監督され、日常、野鳥の見張りや鷹場の維持に使役されるほか、農作業や家の修理にいたるまであらゆる制約を受けていました。将軍来遊のときの古い記録によれば、食事の準備から道路や橋の整備など、地元の人たちが大きな負担を強いられていたことがうかがえます。当寺は、享保十三年(一七二八)春、八代将軍吉宗が鷹狩りのおり、御膳所となり休息と食事をしたところです。以前は、旧本堂の西側奥に、寺社奉行の命で改修した「御成りの間」がありましたが、建物が古くなったため、昭和四十二年改築のときとりこわされ、その跡に記念碑が立てられました。


                       この稿おわり