奥の本殿へと近づいて見ましょう。
狛犬に睨まれました。
本殿の屋根を見てください、神社の雰囲気が漂って来ます。
古記録に伝えるものはありませんが、社家の伝承によれば奈良時代の創立と伝えています。相当古くから続いているようです。大和朝廷が皇威の発揚を図り四道将軍を派遣したときに、社家は神武天皇御東征に従軍し、日向の宮崎宮を姓となし宮崎と称しました。奈良時代、朝廷の命を受けて倭姫命を奉斎し、入間路の警備と七曲井の管理に当りました。東海道、入間路には宮崎を姓とした社家が多く、たとえば井草八幡宮の社家が宮崎を姓としています。本殿の左側には、明治40年に合祀された神社5社の神明神社・八雲神社・稲荷神社・愛宕神社・蔵王神社が並んで建っています。元旦祭や春、秋の大祭等には、市指定無形民俗文化財である入曽囃子が奉納されています。それでは、お暇して次へ進みます。
今度は、お寺の前に来ました。常泉寺というお寺ですね。
弘法大師像が立っています。
他にも、このような古い石仏もあります。
本堂の近くには、このような佛足石も作られています。
きれいに整備されたお寺ですね。
扁額は、蔵王山となっています。ところで、このお寺は真言宗の蔵王山観音院と号し、創建年代は等は不詳ながら、狭山市WEBによると天正年間(1573-1592)に創建したのではないかといい、元禄2年(1689)に権大僧都法印教海が、入曽観音堂の地にから当地へ移転、中興したといいます。武州八十八所霊場73番です。過去帳によりますと天正年間(1573年~1592年)に創立されたようです。
寛文3年(1663年)4月、法印宥正という住職の入寂の碑が現存しますが、その後の記録は絶え、寺は荒れていたようです。その後、元禄2年(1689年)3月に権大僧都法印教海が荒廃した当寺を再興・拡張し、当寺を観音堂のみ残して現在の地に移しました。さらにその後、権大僧都法印傅海の代の正徳2年(1712年)8月に高麗村新堀聖天院の末寺となり現在にいたります。ちなみに明治18年に火災のため山門・本堂・庫裡(裏)が焼失しましたが、明治20年に再建されました。とのことだそうです。
この稿 おわり