楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

熊野神社は数多くあれど

2023-08-30 20:02:03 | 日記

境内を見て見ましょう。

天沼熊野神社は、杉並区天沼にある熊野神社です。創建年代は不詳ですが、神護景雲二年(768)の創建とも元寇三年(1333)の創建とも伝えられます。その後応永二年(1395)朝倉三河守が当地で帰農し十二所権現と称するようになったといいます。明治維新後熊野神社と改称、明治7年村社に列格しました。この神社は、旧天沼村の鎮守で、伊邪那美命が祭神として祀られています。

また鳥居があります。これは白玉稲荷社という別社ですね。

おやおや、こんな可愛らしい夫婦像もありますよ。

ここは末社ですね。

こちらの末社には、ご覧のような杉の大木の根っこでしょうか?置かれています。社伝によれば、この杉は新田義貞がこの地に陣をしいた際、戦勝を祈願して手植えしたものと伝えられています。惜しいことに、枯死したため昭和十七年伐採され、今では切株で昔をしのぶだけとなっています。そのほか境内には、文化十四年(1817)九月奉納の石造鳥居と、文久二年(1862)九月奉納の石造手水盤があります。

こちらが本殿になります。それでは、次へと進むとします。

                  つづく


少し疲れて来たけどまだまだ

2023-08-29 15:45:11 | 日記

さて、その先に行って見ましょう。

歩いていると、赤いバラが咲いている垣根があり、思わずパチリ

おやおや、こんな公園に来ました。「大谷戸さくら緑地」とあります。ここは

UR都市機構 シャレール荻窪などの大規模住宅に隣接した小さな緑地です。防災倉庫と水飲み場があり、災害時の利用も想定に入れて作られ、平成25年4月に開園したそうです。シンボルはけやきの木、春の新緑と、秋の紅葉時期は美しい葉を広げ、公園設備としてはブランコ、お砂場、滑り台があります。

さらに進むと、

瀟洒な門構えの公園、「大田黒公園」へとやって来ました。思わず入りたくなる門構えです。

ホーゥーラ、この道が素敵でしょ!

奥にはきれいな庭園もありますよ。ところで、杉並区では有名な公園ですが、区立の都市公園音楽評論家大田黒元雄の自邸を整備し、1981年昭和56年)10月1日に開園しました。自邸の30%を公園にして欲しいという大田黒元雄の遺志に基づいて、遺族から杉並区に寄贈された土地に、周囲の敷地を合わせて公園として整備したものです。

可能な限り旧自邸の庭園の原形を残して、回遊式日本庭園として整備されており、正門から延びるイチョウ並木をはじめとして随所に巨木が残るほか、従前からあった池が再現されています。日本式の庭園技法が生かされた和洋折衷公園の成功例であり、美観がよく維持管理され、見る公園として高く評価されています。園内には、休憩室及び茶室や、1933年昭和8年)に建てられたレンガ造洋館のアトリエを改装した記念館が設けられています。 ということで、ここで小休止して出発します。

おやっ、今度は神社らしきところです。

案内版があり、「天沼熊野神社」とあります。読んで見ると、天沼熊野神社の創建年代は不詳ですが、神護景雲二年(768)の創建とも元寇三年(1333)の創建とも伝えられます。

創立については詳ではありませんが、社伝によれば、神護景雲二年(768)、東海道巡察視が武蔵国に来たときに、氏神を勧請し別当を置いたのがはじまりと伝えています。また一説には、元寇三年(1333)、新田義貞が北条高時を討つために鎌倉へ軍を進める途中この地に陣をしき、社殿を創設したとも伝えられています。その後、応永二年(1395)朝倉三河守という武将がこの地に帰農した際、社殿を修理し、十に社権現と称するようになったといわれています。熊野神社と名称を改めたのは明治維新以後のことです。天沼は古来からの名称で、奈良時代末期の武蔵国の「乗瀦駅」から起こったといわれていますが、諸説があって定説はありません。この辺りからは室町時代の板碑が出土していることから、その頃すでに開発が進んでいた地域と考えられます。また、蓮華寺の過去帳によれば、天沼村はおそくとも慶長年間(1596-1615)には成立していたものと考えられます。

 これは、手水舎です。龍の口から水が流れる工夫がされてます。

                        つづく

 

 


公園には見所が沢山あったね

2023-08-25 12:55:38 | 日記

ぐるりと回って見ると、

写真入りで、こんな説明版があります。以前に寛と晶子が住んでいた当時の家屋敷の説明です。

かなり大きな屋敷だったのですね。

これは、寛が与謝野鉄幹として詠んだ和歌を表したものです。

こちらは、誰しもがよく知る晶子の「みだれ髪」からの一節、明治34年に出された第一歌集「みだれ髪」に収録されている作品です。「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」
(解釈:自分のことに夢中になって、すぐ傍で恋焦がれている私のやわ肌に触れようともしないあなたは、それで寂しくないのですか?)このような、女性の恋愛感情をストレートに表現した歌は当時、大変な話題となりました。大変、情熱的な晶子の気持ちが表れています。

さて、与謝野公園を出て東へと向かっています。ここは善福寺川に架かる春日橋という橋です。

ちょっとした小さな公園、荻窪公園がありました。

これから行く荻外荘という場所に向かう通りです。

何だか寂しい空き地のような場所へと来ましたが、ここが荻外荘といい近衛文麿の旧宅跡だそうです。近衛文麿は、戦前の昭和期に三度首相を務めた政治家で、この別邸で数々の重要な会議が行われたそうです。平成28年に国の史跡に指定されました。中には入れませんが、庭園の一部を開放しています。

荻外荘を後にして、荻窪駅方向へと歩いていたら、こんな建物がありました。「角川庭園・幻戯山房~すぎなみ詩歌館」というのですが、入れないので失礼します。

                  つづく

 

 

 

 

戯」

 

 


こんな公園があったんだ

2023-08-24 09:32:17 | 日記

さらに中を見て行くと、

 

扁額も立派ですね。

お社全体も、このように落ち着いた静かな雰囲気の中に鎮座していました、これが本殿です。それではお暇して、次へと進みます。

歩いていると、どこかの家の玄関口から駆け出して来た子どもがいましたよ。

今度は、大きな公園の入り口へ到着しました。ちょっと寄って見ましょう。

案内版が立ってます。「与謝野寛・昌子旧居跡」とあります。ここは与謝野公園といい、与謝野鉄幹晶子夫妻が関東大震災を機に翌1924年に移り住み、晩年を過ごした旧居があった場所に整備された公園で、1982年に南荻窪中央公園として開園したという場所なんですね。地元の要望を踏まえ、2010年度に隣地を取得したことを機に与謝野夫妻ゆかりの公園として再整備され、2012年に名称を与謝野公園に改めて再開園した、と言うことです。

公園は、与謝野夫妻の旧居の庭をイメージして整備されており、入口には門柱が立てられ、玄関があった場所に続く通路が設けられています。また、歌人の松平盟子らが選定した夫妻の短歌が記された14基の歌碑が設置され、庭には2人が好んだ樹木が植えられています。

それでは、もっと中を見て見ることにします。

                 つづく

 

 


善福寺川を渡った先には

2023-08-23 10:20:10 | 日記

光明院を出て、ふたたび街の中を歩いて善福寺川方向へと向かいます。

川へやって来ましたよ、この橋「本村橋」と言うそうですが、渡りましょう。

川の周辺は、このようになっています。

何だか変わった建物の前へ来ました。アパートかな、それにしてはちょっと変わっているなぁ、とよく見たところお寺でした。都会の街中のお寺も、周辺の開発で姿が消えて行くようです。寂しいのですが、これも時代の流れなのでしょうね。お寺の名前は、願泉寺と言うそうです。

さらに進むと、今度は立派な神社へ来ました。

案内版があり、見ると「神明天祖神社」とありました。この神明天祖神社は、杉並区南荻窪にある神社で、創建年代は不詳ですが、伊賀人、小林大弁・浅沼但馬守等が天正12年(1584)検地した際に、「草叢の中にすでに小社ありたり」ということから、戦国時代末期には既に祀られていたといいます。元和年間(1615-1623)に香取郡水刀谷の城主水刀谷蔵人影賢が当地に土着し、当社を再建したものの、零落に至り慈雲山光明院が管理していたといいます。百姓当麻六左衛門・梅田紋次郎等が文政元年(1827)に周囲を拓き、荻窪八幡神社の境外摂社としたといいます。 最初は、光明院の下にあり後には荻窪八幡神社の傘下になったんですね。

狛犬が、こちらに向かって吠えているようですよ。

これは手水舎です、ちょっと変わった龍でしょうか?水道のように水を出しています。

ここは神楽殿です、時にはここで神楽の舞を見ることが出来るのでしょうかね。

                    つづく