おや、今度は神社に来ましたよ。
この神社、諏訪神社(入間川)は、狭山市入間川にある諏訪神社(入間川)です。諏訪神社(入間川)は、正徳年中(1711-1716)に藤原正如が勧請したものと伝えられ、入間川村のうち入間川の鎮守だったといいます。明治5年村社となり、明治44年中入間川の春日神社、その境内社を合祀しています。狭山市指定無形民俗文化財に指定されていて、「お諏訪さまのなすとっかえ」という行事が有名です。また、長野県の諏訪大社を分祀したもので、祭神は「建御名方神」です。「なすとっかえ」は、自分の畑で採れたナスを神社に納める代わりに、神前に供えてあるナスを戴いて帰るもので、毎年八月の第四土曜・日曜に行われる神事です。その由来には次の伝説が残されています。昔、諏訪神社の裏に底なし沼があったころ、ある日村人達がそこを通りかかると、沼から水しぶきがたち、龍神が暴れ始めました。驚いた村人達は、持っていた鎌や鍬と一緒に、採ったばかりのナスが入った籠を投げ出して逃げ帰りました。これを聞いた村の若者達が駆けつけてみたところ、空っぽになった籠が浮かんでいるだけで、沼はすでに元の静けさをとり戻していました。しばらく後、村人の夢枕に龍神が現われこう言いました。「私はあの沼に住む龍神だが、騒がせて悪かった。実は夏病に苦しめられていたのだが、投げられたナスを食べたところ病がすっかり治った。これからは諏訪の大神に仕え、村のために尽くすつもりだ。」こうして夏病にナスが効くことを知った村人は、神前にナスを供え、代わりに龍神からナスをいただき、夏病を避けたといわれています。
今度は、清水八幡宮という神社に来ました。
この清水八幡宮は、木曽義仲の嫡子源義高(清水冠者義高)が寿永3年に当地で頼朝の追手に討たれたのを悲しんだ、北条政子とその娘(源義高の妻女)が源義高の霊を祀るために、当地に祠を建てたといいます。清水八幡には源義高(清水冠者義高)がまつられています。義高は源(木曽)義仲の嫡子ですが、源頼朝に人質として鎌倉へ送られ、頼朝とその妻北条政子との間に生まれた娘、大姫の婿になっていました。義仲が頼朝に討ち果たされたのを知った義仲は、自分にふりかかる難をのがれるため従者六人ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)や義仲を助けた畠山重能の地(菅谷館)がある現在の嵐山町をめざして逃亡しましたが、当地入間河原で頼朝の追手に討ち果たされました。このくだりは「吾妻鏡」にのっていますが、それによると、政子と大姫は義高の討死を嘆き悲しみ、直接、義高を刃にかけた藤内光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため、その討ち果てた地、入間河原に社を建てたということです。それが清水八幡ですが、度重なる暴風雨や洪水で当時の社は跡形もなくなり、場所も現在では、はっきりせず、このあたりであろうと思われます。
またまた、神社がありました。ここは何という神社でしょう?
鳥居には、子之神社とありますね。
入間川町誌によると子ノ神社は、慈眼寺の境内にありましたが、慈眼寺の消失によって一時、諏訪神社境内に遷されました。さらに諏訪神社の社殿改築の際、ある者が御神体を家へ持ち帰ったところ、悪疫にかかったため、恐れて奥富村のある家へ遷されました。しかし、その家でもまた一家が悪疫に襲われたため、元の諏訪神社境内に仮宮を建てて祀り、のちに子ノ神町内に社殿を建築して御神体を遷したと言う伝承が残されています。祭神を大国主命としていますが、子ノ神は飯能市の子ノ権現社の信仰であり、本尊は子ノ聖大権現とされています。境内社に出雲神社(石祠)があります。毎年7月24日近辺の土曜日には子ノ神社の例祭が行われ、子ども神輿が担がれます。とありました。
さらに奥に行くと、また神社です。
この神社は入間川大國神社というそうですが、江戸時代末頃、甲田家先祖佐右衛門が信州木曽の霊岳「御嶽山」により創立し、明治15年御嶽教と称し、一教会として独立を許可されました。 その後、明治24年4月4日に御嶽教管長鴻雪爪殿より布教許可を、同時に御嶽大神奉斎主神に神霊を賜りました。 なお、慶応2年(1868)3月15日には、神祗官子爵従二位白川資訓殿より神道職を拝名しました。毎年12月の冬至の日、大国神社では、星祭りという行事が行われます。当日は午前11時になると、音楽に合わせて本殿に大黒さまが登場し、打出の小槌を振りながら大國舞が奉納されます。その後、大黒さまによる豆まきが行われ、参拝者を楽しませます。境内では、甘酒がふるまわれたり、大黒さまの姿を形どったおみくじなどが用意され、地元の人々や車で来る人など参拝者でにぎわいます。
つづく