楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

いろいろ面白いものが

2021-08-26 18:03:26 | 日記

しばらく行くと、小さな神社の祠がありました。地元の人たちが守っているんでしょうね。御嶽神社というそうです。

これも見事な作品ですね。

今度は、亀谷神社という神社に到着です。亀谷神社は、永禄年間(1558-1570)の創建と伝えられ、稲荷社と称していたといいます。明治2年亀谷神社と改称、明治5年亀ヶ谷村の村社に列格していたといいます。

本殿は、このようになっていました。質素ながらきれいに整っています。

境内は広く、これは末社の稲荷神社です。

これは亀谷神社の由緒書きされた石碑ですね。

マンホール蓋をパチリしました。

おや、今度は公園に来ましたよ、子供の遊び場もありますね。

こんな静かな場所もありました。

                         つづく


今日はこちらへ

2021-08-24 11:59:19 | 日記

今日は、こちらから出発します。

東所沢駅で下車しました。JR武蔵野線の駅になります。少し行くと、

到着しました。小さな祠です。

ここは、日比田薬師堂と言うそうです。堂宇の日比田薬師堂は、所沢市日比田にある薬師堂です。日比田薬師堂は、正保3年(1646)の創建と伝えられるといいます。昭和15年東福寺の所属になったといいます。ちなみに、東福寺というお寺は、これから訪れます。

また、少し行くとこんな大きなケヤキの大木がありました。

これから先には次から次へときれいな花が咲いていました。

だいぶ目の保養が出来ましたね。今度はどこへ行くか楽しみです。

                         つづく

 


今度、やって来たお寺は

2021-08-21 08:57:28 | 日記

またまた、かなり大きいお寺に来ましたよ。

さぁ、入って見ましょう。

ここは、井戸の跡らしいですね。これにまつわるお話もあります。江戸の神田には、毎日70人からの食客があり、角力取(すもうと)り、役者、絵師が寄食していたり、大名、旗本衆に大金を貸したりしていました。そんな長者伝説の遺跡が残る入間川は、歴史の1ページを飾る貴重なところです。むかしのお話です。入間川の綿貫家といえば、東北の本間家、大阪の鴻池(こうのいけ)家とともに、唄にうたわれたほどのお大尽(だいじん)だったそうです。 あるとき、井戸の水をわけてもらいにきた人がおったそうです。すると番頭さんがでてきて
『あー、それはおやすいご用です。わたしの方には四つの井戸がありますが、どの井戸をつかいますか』その井戸といいますのは、一つめは隠居場(いんきょば)のあったところで、現在の図書館の下あたり、二つめは狭山市駅前の八百屋あたり、三つめは綿貫家の墓地(現在は移転しました)のあたり、四つめは徳林寺(とくりんじ)のあたりだったといわれております。 いまさらながら、そのスケールの大きさにはおどろかされたということです。また、ぶっこし【一揆(いっき)】があったとき、綿貫家では、四つの井戸の中に金銀を隠しておき、家財道具は天岑寺に預けて無事だったことから、お礼にと『葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず』という石碑を奉納しました。今も参道の入り口にたっています。

たくさんの幟が立っています。裏へと回ると、

どうやら、ここは観世音堂の様でした。ところで、このお寺は福徳院と称し、福徳院不動尊は綿貫家代々の守本尊とされていました。二代目孫兵衛は不動明王尊を篤く信仰しており、年数回も成田山へ来詣し、成田山に金燈篭や多額の浄財の寄進を行うほどでした。これを聞いて、成田山新勝寺は彼の篤信に感銘を受け、大護摩を厳修してその浄灰をもって不動明王の尊像を謹製し、開眼の上、綿貫家に授与したと伝えられています。その後、本尊は明治8年徳林寺に17世賢光師が在住の時に寺へ寄贈され、明治30年には入間郡柏原村の小山保が所有していた御堂が寄進されることになり、諸信者の協賛を得て現在の場所に移転されました。昭和年間に入る頃、宝殿が著しく腐朽してしまいましたが、昭和11年に世話人27人の発願により改修工事が行われました。平成20年には、狭山市駅西口開発のため、綿貫家の墓所が駅前より福徳院不動尊に移転され、現在にいたります。

駅へと向かうと、やって来たのはここ八幡神社でした。狭山市入間川にある八幡神社(入間川)です。八幡神社(入間川)は、新田義貞が鎌倉幕府討伐に際して元弘3年(1333)当地に勧請、新田八幡とも称され、入間川村の鎮守社だったといいます。慶安2年(1649)には八幡宮領五石一斗余、別当を勤めていた成円寺領一石余、及び成円寺境内の鎮守社牛頭天王社(現境内社八雲神社)領三石七斗余の御朱印状を江戸幕府より拝領、明治維新の神仏分離例に際して、成円寺は、八幡神社神職に復職、明治7年村社に列格したといいます。それでは、次へ

正面に見えるのは中央図書館です。ここで、仕入れたお話がありました。

狭山市は、昔、入間川とよばれる宿場町として大変栄えました。そのころ、綿貫様という長者どのがおりました。大きな屋敷には4か所の井戸を持ち、異変のためにたくさんの抜け穴が掘られました。現在の中央図書館前の道を「山下通り」・・・この「山下」は、綿貫家の屋号で、江戸の上野にも「山下」の地名をつくったそうです。入間川を本拠地として、江戸の神田周辺にたくさんの店や蔵、土地を持っていたことから、江戸の綿貫家、北の本間家、大阪の鴻池と、唄にうたわれるほどのお大尽でした。入間川宿から江戸までの道のりでは、一歩たりとも、他人の土地を踏まずに行けたといわれ、綿貫家の台所にある皿や茶碗を全部並べると、家の門から所沢まで続いたともいわれています。また、綿貫家のいろりは、それは大きく、そばに9尺2間の屏風が置かれていたそうです。

ということで、この地の訪問は終わります。


神社の次はお寺だ

2021-08-18 17:20:32 | 日記

現われたのは、この真っ赤な鳥居でした。

ちょっと見にくいのですが、天満天神社という神社でした。神社の建立年代は明らかではありません。先年までの社殿は、文久2年(1862年)に改築されたものでしたが、昭和37年3月25日に新築しました。祭神は京都北野神社福岡県太宰府天満宮より道真公の分霊を鎮祭しています。毎年3月第4日曜日に天満宮祭典を行っており、菅原囃子が奉納されています。ということです。

境内には、やはりこのような見事な梅の花が咲き誇っていました。さて、この先は

今度は、また立派な山門のお寺です。

きれいに並んだ六地蔵です。

本堂も立派ですね。

こちらは地蔵堂のようです。

徳林寺というお寺でした。さて、どんなお寺なのでしょう?

創立年代は、はっきりしませんが、入間市金子・瑞泉院末といわれ、開山は瑞泉院三世一樹存松和尚で、開基は小沢主税であると伝えられています。開山一樹存松は天文2年(1533年)に入寂しており、永正乃至享禄(1504年~1532年)頃の創立と考えられます。当寺の旧地については、旧登記所(入間川2丁目19番地)北方の低地であるとの伝えがあり、新田義貞、足利基氏らの滞陣の跡であるとの伝承もあります。また、武蔵野33観音霊場の第17番札所でもあります。ということでした。ところで、ここに、またお話があるんです。以下をご覧ください。

お寺(てら)の境内(けいだい)の片(かた)すみには「成円地蔵(じょうえんじぞう)」というりっぱなお地蔵(じぞう)さまが、安置(あんち)されています。このお地蔵(じぞう)さまには、こういう伝説(でんせつ)が伝(つた)わっています。
それは、むかしむかしのおはなしです。入間川(いるまがわ)のほとりに、それはそれは働者(はたらきもの)のお農家(のうか)さん夫婦(ふうふ)が住(す)んでいました。この夫婦(ふうふ)には、一人(ひとり)のかわいい女(おんな)の子(こ)がいましたが、その子(こ)は生(う)まれて間(ま)もなく、夫婦(ふうふ)のちょっとした油断(ゆだん)がもとで、耳(みみ)が聞(き)こえなくなってしまいました。
夫婦(ふうふ)は、少々(しょうしょう)の不自由(ふじゆう)にはたえられますが、娘(むすめ)のことだけが一番(いちばん)の悩(なやみ)みのたねでした。医者(いしゃ)という医者(いしゃ)には何度(なんど)もみてもらいましたが、娘(むすめ)の耳(みみ)は、いっこうに治(なお)りませんでした。
そして人伝(ひとづた)えや、うわさを聞(き)いては、あらゆる所(ところ)へ願(がん)かけに行(い)きました。しかし、娘(むすめ)の耳(みみ)はよくなりませんでした。そんなある日(ひ)のこと、あまり近(ちか)くにあって気(き)がつかなかった徳林寺(とくりんじ)のお地蔵(じぞう)さんが、なかなか霊験(れいげん)あらたかだということを耳(みみ)にしました。そこでさっそく夫婦(ふうふ)は、娘(むすめ)を連(つ)れて願(がん)かけに出(で)かけました。そして、三七(さんしち)、二十一日(にじゅういちにち)の満願(まんがん)の日(ひ)の朝(あさ)のこと、娘(むすめ)は鶏(にわとり)の鳴(な)き声(ごえ)で目(め)をさましました。
それを聞(き)いた夫婦(ふうふ)は、たいそう喜(よろこ)んで、何(なに)かお礼(れい)をしようと思(おも)いましたが、家(いえ)は貧(まず)しくお礼(れい)になる物(もの)がありません。そこで、河原(かわら)にあるめずらしい穴(あな)あき石(いし)に糸(いと)を通(とお)して、娘(むすめ)の耳(みみ)が通(とお)った(聞(き)こえるようになったこと)お礼(れい)にしようと娘(むすめ)と一緒(いっしょ)に徳林寺(とくりんじ)へお礼(れい)に行(い)きました。そのことが、たいそうな評判(ひょうばん)になり、大願成就(たいがんじょうじゅ)のさいには穴(あな)あき石(いし)に糸(いと)を通(とお)してつるすならわしになりました。そして、今(いま)も穴(あな)あき石(いし)はお堂(どう)のわきにたくさん納(おさ)められています。
また、この成円地蔵(じょうえんじぞう)は子育(こそだ)て地蔵(じぞう)ともいわれ、小児(しょうに)の夜泣(よな)きや病弱(びょうじゃく)な子(こ)どもに霊験(れいげん)があるといわれています。

というお話を聞いて、可愛い小僧地蔵に見送られてお寺を後にしました。

                            つづく

 

 

 


さらにその先には

2021-08-16 17:21:33 | 日記

おや、今度は神社に来ましたよ。

この神社、諏訪神社(入間川)は、狭山市入間川にある諏訪神社(入間川)です。諏訪神社(入間川)は、正徳年中(1711-1716)に藤原正如が勧請したものと伝えられ、入間川村のうち入間川の鎮守だったといいます。明治5年村社となり、明治44年中入間川の春日神社、その境内社を合祀しています。狭山市指定無形民俗文化財に指定されていて、「お諏訪さまのなすとっかえ」という行事が有名です。また、長野県の諏訪大社を分祀したもので、祭神は「建御名方神」です。「なすとっかえ」は、自分の畑で採れたナスを神社に納める代わりに、神前に供えてあるナスを戴いて帰るもので、毎年八月の第四土曜・日曜に行われる神事です。その由来には次の伝説が残されています。昔、諏訪神社の裏に底なし沼があったころ、ある日村人達がそこを通りかかると、沼から水しぶきがたち、龍神が暴れ始めました。驚いた村人達は、持っていた鎌や鍬と一緒に、採ったばかりのナスが入った籠を投げ出して逃げ帰りました。これを聞いた村の若者達が駆けつけてみたところ、空っぽになった籠が浮かんでいるだけで、沼はすでに元の静けさをとり戻していました。しばらく後、村人の夢枕に龍神が現われこう言いました。「私はあの沼に住む龍神だが、騒がせて悪かった。実は夏病に苦しめられていたのだが、投げられたナスを食べたところ病がすっかり治った。これからは諏訪の大神に仕え、村のために尽くすつもりだ。」こうして夏病にナスが効くことを知った村人は、神前にナスを供え、代わりに龍神からナスをいただき、夏病を避けたといわれています。

今度は、清水八幡宮という神社に来ました。

この清水八幡宮は、木曽義仲の嫡子源義高(清水冠者義高)が寿永3年に当地で頼朝の追手に討たれたのを悲しんだ、北条政子とその娘(源義高の妻女)が源義高の霊を祀るために、当地に祠を建てたといいます。清水八幡には源義高(清水冠者義高)がまつられています。義高は源(木曽)義仲の嫡子ですが、源頼朝に人質として鎌倉へ送られ、頼朝とその妻北条政子との間に生まれた娘、大姫の婿になっていました。義仲が頼朝に討ち果たされたのを知った義仲は、自分にふりかかる難をのがれるため従者六人ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)や義仲を助けた畠山重能の地(菅谷館)がある現在の嵐山町をめざして逃亡しましたが、当地入間河原で頼朝の追手に討ち果たされました。このくだりは「吾妻鏡」にのっていますが、それによると、政子と大姫は義高の討死を嘆き悲しみ、直接、義高を刃にかけた藤内光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため、その討ち果てた地、入間河原に社を建てたということです。それが清水八幡ですが、度重なる暴風雨や洪水で当時の社は跡形もなくなり、場所も現在では、はっきりせず、このあたりであろうと思われます。

またまた、神社がありました。ここは何という神社でしょう?

鳥居には、子之神社とありますね。

入間川町誌によると子ノ神社は、慈眼寺の境内にありましたが、慈眼寺の消失によって一時、諏訪神社境内に遷されました。さらに諏訪神社の社殿改築の際、ある者が御神体を家へ持ち帰ったところ、悪疫にかかったため、恐れて奥富村のある家へ遷されました。しかし、その家でもまた一家が悪疫に襲われたため、元の諏訪神社境内に仮宮を建てて祀り、のちに子ノ神町内に社殿を建築して御神体を遷したと言う伝承が残されています。祭神を大国主命としていますが、子ノ神は飯能市の子ノ権現社の信仰であり、本尊は子ノ聖大権現とされています。境内社に出雲神社(石祠)があります。毎年7月24日近辺の土曜日には子ノ神社の例祭が行われ、子ども神輿が担がれます。とありました。

さらに奥に行くと、また神社です。

この神社は入間川大國神社というそうですが、江戸時代末頃、甲田家先祖佐右衛門が信州木曽の霊岳「御嶽山」により創立し、明治15年御嶽教と称し、一教会として独立を許可されました。 その後、明治24年4月4日に御嶽教管長鴻雪爪殿より布教許可を、同時に御嶽大神奉斎主神に神霊を賜りました。 なお、慶応2年(1868)3月15日には、神祗官子爵従二位白川資訓殿より神道職を拝名しました。毎年12月の冬至の日、大国神社では、星祭りという行事が行われます。当日は午前11時になると、音楽に合わせて本殿に大黒さまが登場し、打出の小槌を振りながら大國舞が奉納されます。その後、大黒さまによる豆まきが行われ、参拝者を楽しませます。境内では、甘酒がふるまわれたり、大黒さまの姿を形どったおみくじなどが用意され、地元の人々や車で来る人など参拝者でにぎわいます。

                              つづく