楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

今日は、こちらを訪れました

2022-11-29 10:21:23 | 日記

到着です。

いざ、出発だぁ!

最初に訪れたのは、このお寺でした。さぁ、入って見ましょう。

可愛い小僧地蔵がお出迎えしてくれました。

境内の中には、こんなに沢山のお地蔵さんも並んでいます。

梵鐘堂です。

これは、寺宝の案内版ですね。

ここのお寺は高倉寺というそうです。お寺についての説明がありました。

曹洞宗の寺院で光昌山高倉寺と称し、建立されたのは天正年間(一、五七〇年代)のはじめと推定される。
開山は飯能市の能仁寺第三世材室天良禅師である。ここには国指定重要文化財(昭和二十四年指定)の観音堂がある。この御堂は、もと飯能市白子の長念寺に建てられてあったものを、延享元年(一、七四四年)高倉寺の第五世白翁亮清がもらいうけ、修理を加え移築したもので、創建は、室町時代初期と推定される。この建築には、方三間、一重、入母屋造、屋根は茅葺形銅板葺、粽を有する円柱、両肩の張る花頭窓、桟唐戸、組物など随所に禅宗様式がとり入れられており、本県を代表する優れた古建築の一つである。また、観音堂内には、中村芝翫(のちの四代目中村歌右衛門)の「九変化」の扁額が保存されている。これは、鳥居派五代目清満の作と伝えられており、江戸の小高亀吉が江戸時代に奉納したもので、演劇史上、貴重な資料となっている。と、このような説明があります。

お寺の奥の方には、広い霊園があります。すごいですね。

                    つづく


先へ進むと神社が

2022-11-21 17:07:30 | 日記

善福寺から少し進むと、通り沿いにこんな神社がありました。

住宅に挟まれて苦しそうに見えますが、この神社は大和市神社といい、御神体は剥製の大鷲です。
この大鷲は、大正14年(1925)秋、練馬区関町との境にあった一本松に留っているところを、散弾銃で撃たれたといわれています。大鷲は、弾が当たって松から落ちながらも向ってきたため、さらに撃たれて仕留められたそうです。鷲は、あまりの大きさであったことから、剥製として保存されました。翌15年(1926)には、村中の人々が話し合い、この鷲を御神体とするお社を建ててまつり、大和市神社としました。地域や近郷の人々は、大和市神社の講をつくり、現在も、毎年11月の酉の日に、井草八幡宮の神主を招いて祭礼が行われ、神社の前で熊手も売られています。以前は、お社のまわりが空いていたので、祭礼時はさまざまな屋台が出て、芝居や神楽なども行なわれました。とくに、芝居小屋が建つと、どこからこんなに集まったのかと思うほどの人で賑わったそうです。昔は娯楽が少なく、近郷近在の人たちにとっては、とても大きな楽しみだったのでしょう。大和市神社のほかに、大鷲の剥製を御神体とする区内のお社として、下井草1丁目の大鷲(オオトリ)神社があります。昔はなかなかのものだったんですね。

 

さらに進んで行くとまた神社があり、今度はかなり大きな神社です。

やや小さいながらも格式ある本殿の造りですね。この神社は、竹下稲荷神社といい、練馬区関町南にある稲荷神社です。竹下稲荷神社は、当地周辺の竹下新田が開発(天明四年1784)された頃に創建したと推定されています。明治時代に入り、近隣にあった竹下厳島神社に合祀、さらに竹下厳島神社は天祖若宮八幡宮に合祀されましたが、平成3年に分離して竹下稲荷神社となったといいます。青梅街道との関係について説明があります。青梅街道は、新宿から青梅を経て、甲府の東で甲州街道と合する道で、慶長十一年(1606)江戸城の大改修にあたって、青梅付近より産する石灰を江戸府内に搬入するために開かれたと伝えられています。石灰搬送などの産業道路としてばかりでなく、御嶽山の参詣や、甲州裏街道として、旅人が行き交う街道でもありました。この付近は江戸時代中頃に開発され、竹下新田と呼ばれていました。稲荷神社もその頃の創建と考えられ、「新編武蔵風土記稿」には村民持と記されています。大正二年(1913)以降は旧竹下新田の鎮守となりました。とのことでした。

                     この稿おわり


どんなお寺なんでしょう

2022-11-18 10:08:04 | 日記

入ると、こんな地蔵菩薩像が並んでいます。

善福寺の創建年代は不詳ですが、御堂阿闍梨が開山したと伝えられ、無量山福寿庵と称する浄土系の小庵だったといいます。その後月山機法という方が中興し、曹洞宗寺院に改めたそうです。それ故、開創は詳かではありませんが、開山は御堂阿闍梨と伝えられ、中興開山は月山機法です。古くは、浄土系の小庵でしたが、宝永六年(1709)に観泉寺(今川2-16-1)持となりました。(一説に享和年間1801-4ともいわれます)。曹洞宗寺院の善福寺は、福寿山と号します。池畔に「善福寺」という寺院があったといわれています。また、本尊の阿弥陀如来立像は室町時代の作といわれ、衣丈が流れるような美しい優雅な像です。その他、境内には浄土系寺院時代の歴代住職の墓石や、建武元年(1334)銘板碑、享保二年(1717)銘地蔵石像などがあります。

本堂ですね。

                     つづく

 


善福寺池へと

2022-11-16 11:22:29 | 日記

さぁ、これから善福寺池へと行って見ます。

何やら立派な人物像がありましたよ。どういう人物なのでしょう?この人物の名前は、内田秀五郎という方だそうです。この方は明治40年5月、30歳という日本一の若さで井荻村長に就任した内田秀五郎(うちだ・ひでごろう)。道路や街路灯、水道の敷設、駅の誘致など都市基盤の整備の他、農業、教育、経済、産業など、幅広い分野の発展に貢献して、現在の住みやすい杉並のまちは、内田秀五郎村長の功績が土台となっています。それでここに銅像を設置したのですね。

東京都杉並区にある都立公園が、善福寺公園ですね。武蔵野三大湧水池に数えられる善福寺池(上の池)の畔にあるのが遅の井の滝(おそのいのたき)といわれていて、善福寺池の湧水のひとつです。残念ながら現在は自然湧水ではなく、地下水をポンプで汲み上げて流して復元していますが、23区内に残る貴重な滝だそうです。遅野井の湧水を水源としていた善福寺川は、この遅の井の滝が源流ということから、かつては遅野井川と呼ばれていました。昭和5年、当時の井荻町(現・杉並区の一部)が善福寺池周辺の地下水を利用して水道を開設するため、浄水場を建設、昭和7年、井荻町が東京市に編入されたことにより、水道も「東京市水道局」へ移管されていますが、これが現在も地下水を水源とする東京都水道局杉並浄水所のルーツで、遅の井の滝近くにあります(地下10mほど掘り下げると水源が確保できます)。それで、ここに碑が造られているようです。

善福寺池を少し離れて見たら、今度は善福寺へとやって来ました。

これから中へ入って、いろいろ見て見ます。

                    つづく


また、荻窪方面へ行くと

2022-11-15 19:40:15 | 日記

荻窪方面へ戻ると、

観泉寺を出ると、すぐの場所にこのような石柱が立っていました。

通りに出ると、このような場所があり、ここが今川家の墓所ということだそうです。今川氏は、室町時代戦国時代駿河国(現静岡県)などを治めた一大大名であったが、桶狭間の戦い今川義元織田信長に敗れたのち没落した。義元の子今川氏真徳川家康の庇護を受けてなどで暮らし、慶長19年(1614年)に江戸で没した。氏真の嫡孫今川直房高家として江戸幕府に仕え、朝廷との交渉の功績によって正保2年(1645年)に徳川家光から当地(井草村)を含む新たな知行地を与えられた。以後、当地は幕末まで今川家一円知行の所領として続くことになる。江戸時代の観泉寺は、今川氏の知行地支配の拠点でもあり、領民からの年貢の取立てや裁判なども寺の門前で行われていた。今川氏は明治時代に断絶したが、現在の当地の地名「今川」の由来となっている。という説明書きを目にしました。

今度は、このような標柱が立っています。

中には入れませんでしたが、前方に見えるのが穀櫃のようです。

これは神社のようですが、何という神社なのでしょう?

案内書きがありました。市杵嶋神社(いちきしまじんじゃ)は、東京都杉並区善福寺善福寺公園内にある神社。管理は井草八幡宮が行っている。当神社は、1189年(文治5年)に源頼朝奥州合戦の途時この地に宿陣し、飲水を求めて弓筈で各所に穴をあけたが水の出が遅く、弁財天に祈り、やっと水を得たという故事(当地の旧名「遅の井(おそのい)」の由来)に倣って、建久8年(1197年)に江ノ島弁財天勧請したのが当社の始まりであると『善福弁才天略縁記』で伝えられている。 寛永年間(1624年 - 1644年)には、それまで祀られていた右手奥の島から現在地へ移されたといわれている。かつては旱魃の折には、近隣の練馬(現・練馬区板橋区付近)や中野(現・中野区付近)などの村からも雨乞い祈願に訪れたと言われている。 また、かつて社殿へ向かう太鼓橋が架けられていたが、橋は井草八幡宮の境内に移設されており社殿正面の前に向かうことができない。とのことでした。

戻って来ました。ここは浅間神社といいます。こちらの小山は富士塚といって浅間信仰に由来するものです。
浅間信仰とは浅間神社の御祭神であり富士権現とも称される木花開耶姫命を信仰するもので、富士信仰とも言われました。富士信仰は、集団になって資金を集め、代表者が登拝する体参制を主流にした富士講によって発展を遂げていきました。富士講は、戦国時代末に長谷川角行によって創初され、十八世紀半ばから大変流行しました。講の名称には普通、地名が付けられる事が多く、井草周辺では昔の村名でもある「遅乃井」の頭文字をとって「丸を講」という講が戦前まで続いた。富士塚は、実際の富士登山が出来ない人たち(体が悪い・老人・婦女子)のため、精神的に少しでも信仰欲を満たすにうに造られ、現在も都内に約五十ヵ所あると言われていますが、この規模の富士塚は杉並区内では唯一のものです。以前は本殿西南側にあったもので、昭和五十年に現在地に移築され、塚前の浅間神社より丁度西方遥か遠くに富士山を仰ぐことが出来る位置にあります。

                        つづく