荻窪方面へ戻ると、
観泉寺を出ると、すぐの場所にこのような石柱が立っていました。
通りに出ると、このような場所があり、ここが今川家の墓所ということだそうです。今川氏は、室町時代・戦国時代は駿河国(現静岡県)などを治めた一大大名であったが、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れたのち没落した。義元の子今川氏真は徳川家康の庇護を受けて京などで暮らし、慶長19年(1614年)に江戸で没した。氏真の嫡孫今川直房は高家として江戸幕府に仕え、朝廷との交渉の功績によって正保2年(1645年)に徳川家光から当地(井草村)を含む新たな知行地を与えられた。以後、当地は幕末まで今川家一円知行の所領として続くことになる。江戸時代の観泉寺は、今川氏の知行地支配の拠点でもあり、領民からの年貢の取立てや裁判なども寺の門前で行われていた。今川氏は明治時代に断絶したが、現在の当地の地名「今川」の由来となっている。という説明書きを目にしました。
今度は、このような標柱が立っています。
中には入れませんでしたが、前方に見えるのが穀櫃のようです。
これは神社のようですが、何という神社なのでしょう?
案内書きがありました。市杵嶋神社(いちきしまじんじゃ)は、東京都杉並区善福寺の善福寺公園内にある神社。管理は井草八幡宮が行っている。当神社は、1189年(文治5年)に源頼朝が奥州合戦の途時この地に宿陣し、飲水を求めて弓筈で各所に穴をあけたが水の出が遅く、弁財天に祈り、やっと水を得たという故事(当地の旧名「遅の井(おそのい)」の由来)に倣って、建久8年(1197年)に江ノ島弁財天を勧請したのが当社の始まりであると『善福弁才天略縁記』で伝えられている。 寛永年間(1624年 - 1644年)には、それまで祀られていた右手奥の島から現在地へ移されたといわれている。かつては旱魃の折には、近隣の練馬(現・練馬区、板橋区付近)や中野(現・中野区付近)などの村からも雨乞い祈願に訪れたと言われている。 また、かつて社殿へ向かう太鼓橋が架けられていたが、橋は井草八幡宮の境内に移設されており社殿正面の前に向かうことができない。とのことでした。
戻って来ました。ここは浅間神社といいます。こちらの小山は富士塚といって浅間信仰に由来するものです。
浅間信仰とは浅間神社の御祭神であり富士権現とも称される木花開耶姫命を信仰するもので、富士信仰とも言われました。富士信仰は、集団になって資金を集め、代表者が登拝する体参制を主流にした富士講によって発展を遂げていきました。富士講は、戦国時代末に長谷川角行によって創初され、十八世紀半ばから大変流行しました。講の名称には普通、地名が付けられる事が多く、井草周辺では昔の村名でもある「遅乃井」の頭文字をとって「丸を講」という講が戦前まで続いた。富士塚は、実際の富士登山が出来ない人たち(体が悪い・老人・婦女子)のため、精神的に少しでも信仰欲を満たすにうに造られ、現在も都内に約五十ヵ所あると言われていますが、この規模の富士塚は杉並区内では唯一のものです。以前は本殿西南側にあったもので、昭和五十年に現在地に移築され、塚前の浅間神社より丁度西方遥か遠くに富士山を仰ぐことが出来る位置にあります。
つづく