楽しいお散歩

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 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

今日はこちら、新座を訪問です

2020-03-29 13:14:22 | 日記

何やらお寺らしきものが見えました。

入口まで来ましたよ。

瀧見観世音という額が掛かっています。どんなお寺なのでしょう?瀧見観音は、新座市の石神地区にあるお寺で「浄明寺」と号しています。瀧見観音は、宝永年間(1704-1710)に、観音銅像と瀧山浄名寺と記載された鐸とが石神村小名清水で掘り出されたことから、黄檗宗の僧を招待して庵室を草創したことから始まったといいます。それじゃ、もう少し歩きます。

今度は、墓地でしょうか?

墓地の中にはお堂がありました。

新座には、こうしたお堂があちらこちらに見られます。ここは栗原観音堂という場所でしょうか?

栗原観音堂というのは、新座市栗原地区にある仏堂で、創建年代等は不詳ながら、旧栗原村地域には村民管理の寮があり、観音像が祀られていたことから、この"寮"が栗原観音堂と考えられます。

                               つづく

 

 


今度は神社に来ました

2020-03-26 20:18:25 | 日記

 武蔵野神社という神社です、参道が随分長いですね。

いかめしい狛犬が見張っています。

初詣ののぼりが延々と続いています。お正月にはさぞかし大勢の人が参拝に訪れるのでしょう。

可愛らしい七福神が出迎えてくれました。

ここが本殿です。立派な屋根が威容を誇っています。

おやっ、これは何でしょう?

このような解説版がありました。

どうやら、これが猿田彦大神様のようです。

周辺にはこのような可愛いお地蔵様もありました。ところで、武蔵野神社の起源は、野中新田開発のときにさかのぼるそうです。次のような解説がありました。上谷保村(現国立市)の円成院住職大堅と矢沢藤八らは、新田開発に当たり全開墾地を12等分し、その1つを社地と寺地にすることに決めた。そして、新田開発の基礎ができた享保9年(1724)9月3日、上谷保村から毘沙門天を村の鎮守として野中新田に遷宮したのである。
以来、円成院(花小金井1丁目、享保12年(1727)上谷保村より引寺)が管理していたが、明治維新の際に分離独立し、末社として祭ってあった猿田彦大神を村鎮守に祭祀して、社号を「武蔵野神社」とした。昭和37年9月から11月にわたり、社殿の屋根葺き替えその他の大改修が行われている。

 

 

 


ふるさと村から歴史を感じる

2020-03-19 16:28:08 | 日記

郵便ポストがあるここは何処なのだろう?

周囲を見て、「小平ふるさと村」とわかりました。そういえば、小平市は郵便ポストでも有名ですね。小平ふるさと村は江戸初期から中期の建物を復元した開拓ゾ-ン、江戸後期の建物を復元した農家ゾ-ン、明治以降の近代ゾ-ンを配置し、時代を追って見学できるようになっています。また、年中行事の再現や各種イベントなどを行っているという解説がありました。また、郵便局については、局舎は、明治41年(1908年)建築の和風建築で、わが国に現存する郵便局舎の中でも、古いものの一つです。当初は集配業務を行い、また昭和初期からは電話交換業務も行っていました。和風平屋建、赤茶色の屋根、窓口は鉄格子、屋根の2か所に〒マークがあります。明治末期から大正期にかけての郵便局の様子を知ることができる貴重な建物です。昭和58年1月まで地域住民に親しく利用されていました。市指定有形文化財第1号(昭和58年3月31日指定)にもなっているんですね。

何やら民家の建物ですが、相当古いかやぶき屋根の建物ですね。この建物は、旧小川村及び小川新田村の開発事業の中心的役割を果たしてきた、名主の小川家に代々継承されてきたものです。創建時の棟札によって、この建物が文化2年(1805年)3月13日着工、同年5月25日に完成したことが明らかになりました。この玄関は主屋とは別棟として建てられ、主屋と廊下で接続していました。一般の名主宅に見られる形式とは異なり、小川家の格式の高さと江戸時代における当家の実力を示しています。市指定有形文化財第10号(平成5年3月1日指定)ということだそうです。

中に入ると、蚕の繭玉が飾ってありました。養蚕をして織物を作っていたのでしょうね。

庭の片隅には、お地蔵様もありました。

周りを見て見ましょう。

おやっ、水車もありますよ。明暦2年(1656年)小川村が開かれると、玉川上水から樋口一尺四方の分水をうけ、村の入り口で青梅街道の南と北の水路に分かれ、村の飲料水として利用されていました。享保年間以降に小川新田・大沼田新田が開かれると、その末流が村々の飲料水になりました。この分水には水車が盛んに仕掛けられるになりましたが、そのほとんどは自家用ではなく商売用として脱穀・製粉するためのもので、「上水記」によれば、天明8年(1788年)の調べで、玉川上水の分水にかかる水車は33か所にものぼりました。随分たくさんの水車があったようです。

最後に、「ふるさと村」からのお知らせです。平成22年2月に小平市の観光案内拠点として改修しました。文化財のビデオ視聴やベーゴマ、けん玉、郷土かるた、古文書などのグッズや小平の特産品の販売をしています。小平の歴史がわかる資料もそろえていますので、どうぞお立ち寄りください。さぁ、子どもたちには勉強になることがいっぱいありそうですよ。

                                  つづく

 


今度はお寺に到着しました

2020-03-16 12:23:36 | 日記

熊野宮をおいとましましょう。

しばらく歩いていたら、小さな鳥居が見えました。また、神社に着いたな?

ところが奥へ入ると、

梵鐘堂があります。

道の傍らには、こんな可愛らしいお地蔵さんが出迎えてくれました。

こんなお地蔵様も、まだ新しい様ですね。

六地蔵と思いきゃ、七人いらっしゃいました。

本堂に着きました。臨済宗円覚寺派寺院の平安院というそうです。遠渓山と号し、小川寺6世省宗碩要禅師という方が開基となり、鎌倉瑞泉寺住職閑叔碩三禅師が開山した遠渓山平安院を月桂寺境内より当地へ引寺して、元文4年(1739)に創建したといいます。元文4年(1739)この地に移住した農民の菩提寺として建立されたものです。享保9年(1724)5月、幕府の許可を得て開発に着手したこの地は、その後順調に進展し、本寺建立の年には移り住む戸数89戸に達していたそうです。本新田の名主小川弥市は、小川寺6代の住職、省宗碩要禅師と相談して、この地に寺院の建立を計画、閑叔碩三禅師を勧請して開山に迎え、江戸市ヶ谷河田町の月桂寺の境内にあった寺号を移して遠渓山平安院と号しました。
開祖の閑叔碩三禅師は、鎌倉瑞泉寺の住職でしたが、隠退して現在の月桂寺の地に、その前身である遠渓山平安院を建立しました。元文4年に小川寺碩要禅師の懇請をいれ本寺の開山となるや、その年に、月桂寺境内にあった平安院の旧堂をこの地に移して小川新田の農民を檀家としてその基礎をつくったのです。境内には、開祖閑叔碩三禅師の法恩に報いるため、昭和27年4月15日、檀家一同で建立した石碑開山塔があります。

このような扁額が掛かっていました。

弘法大師像でしょうか、本堂の傍らにあります。

それでは、次の地を目指して歩くことにします。

                            つづく

 

 


今日は、小平市を散歩しました

2020-03-12 19:46:13 | 日記

青梅街道を熊野宮前というバス停で降りて見ました。こんなに長い参道が続いているんですね。

さぁ、狛犬のところまで来ましたよ。

小さな鳥居がありますが、ここは手水鉢みたいです。御神水という表示板が見えますね。

お参りする人も多いようですね。このお札やおみくじを見てください。

熊野宮についての由緒があります。それによると、小平熊野宮は、小平市仲町にある熊野宮です。阿豆佐味天神社の摂社を当地一本榎の地に遷座して宝永元年(1704)に創建、明治6年村社に列格、明治42年猿田彦神(元庚申社)を合祀したといいます。所蔵の文化財:一本榎 往時この一帯は「逃水の里」と称され、川もなく水の便が非常に悪い場所で、人家が一軒もない荒漠たる武蔵野の原野であったと言われています。その当時から重要な街道であった青梅街道と鎌倉街道(現在の府中街道)が、この小平の東西と南北に通じていて、特に青梅街道の田無から箱根ケ崎までの間には宿場もなく、往還する人馬にとって寒暑風雨や飲み水の確保に至極難渋した地域であったようです。そのような原野の中にあって、当地に一本の榎の巨木が聳え立っており、これが「武蔵野の一本榎」と呼ばれていて、両街道を往来する人々の良き目印や一時の休息の場になっていたと伝えられています。宝永年間の「一本榎」は、既に樹齢数百年を経た老大樹で、その枝は四方の広大なる地域に張り、その投影は百数十間にも及び、盛夏の炎天下にあっても絶えず千古の涼風が吹き通っていたとも伝えられていて、この初代の榎は、寛保年間(一七四二〜四四)に枯木となり、その後に一本榎神社として祀られ、現在その社は、末社殿に合祀されています。二代目の榎も目通り七尺の大樹であったが、大正三年九月の暴風雨により倒潰し、現在繁っている榎は、樹齢約百年の三代目の孫木です。また、社殿正面には、樹齢約二百五十年から三百年の二本の欅が寄り添って繁っており、「夫婦像」と呼ばれ夫婦円満の象徴として参拝者に親しまれてますとありました。

それでは、この鳥居をくぐって大ケヤキを見に行きましょう。

本殿の両脇にそびえ立つ夫婦ケヤキです。

これが本殿ですね。

お祭りの時は、さぞかし賑やかなことでしょう、太鼓や神輿が収納されている庫裡がありました。

末社も祀られています。

これが武蔵野に残る一本榎ですね。大事に祀られていました。

                             つづく