楽しいお散歩

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
 自然豊かな多摩地区、そこには歴史の宝庫の神社仏閣もありますね。

恵比寿神を祀る神社を訪ねる

2018-06-25 19:04:41 | 日記

武蔵野七福神の恵比寿天を祀る神社のようです。

参道から本殿へと広い境内を歩きます。

これは大きなタブの木です。相当長い年月を経ているのでしょう。

いくつかの末社がありますが、どれも立派なものでした。

狛犬も、まるで獅子のような大きな威厳のある顔つきです。

こちらが本殿になります。諏訪八幡神社といい、永正13年(1516)初春11日に加治菊房丸等の勧請により創建、天正12年(1584)7月に加治勘解由左衛門家範が再建、恵比寿大神を勧請したと伝えられています。境内の恵比寿大神は、武蔵野七福神の恵比寿神です。

今から約400年の昔武州高麗郡中山村(現飯能市中山町)に平安の末期より代々館を構えていた中山家14代の当主勘解由家範は或る夜丑満(うしみつ夜中1時頃)の刻仏壇に祀られた本尊大日如来の枕辺に立たせ賜って「汝の館今安泰と雖も未申(ひつじさる)の方向(西南方)に不吉の兆しあり。恵比寿大神を勧請して守護神となし是を信ずる時は諸災は排除されて家運は開け後世に名を残し子宝に恵まれる事間違いなし夢々疑う事なかれ」とさわやかなる御声に目を醒ましました。家範は直ちに館の裏鬼門に守護神として祀ってある飯能村の諏訪八幡神社の境内に恵比寿大神の御尊像を安置し深く信仰した処、元亀元年長男照守、天正4年次男信吉(のぶよし)の二児に恵まれ恵比寿大神の授り児と信じて大切に養育長ずるに及んで徳川家康に仕えて共に信任厚く兄照守は馬術の名手として其の名高く御旗奉行に累進して知行2500石を賜りました。また、弟信吉は思慮深く誠実実行の人格者として知られ常に家康お座右に待し、常州水戸藩の創設に当り初代頼房の訓育を委ねられ諸事万端一切を司り、水戸藩の基礎を築き其の功により元和8年水戸の在松岡に25000石を賜わり松岡城主となり寛永55月従五位下備前守に任し、水戸家の筆頭家老として忠節をはげみ寛永19年正月6日病没した。とありました。

次に訪れたのは、帰り道にあった郷土館です。

埼玉県飯能市にある飯能市郷土館は、飯能地方の歴史や特徴をわかりやすく紹介する資料館です。館内の常設展示室は旧石器時代に始まり、縄文時代の人々の暮らし、高麗郡が設置された奈良時代、武士が戦乱に明け暮れていた中世、そして現代へと時代ごとにコーナーが設けられています。また、特別展示室では、テーマをしぼった企画展示や季節にあわせた展示を行っています。飯能市郷土館では展示を見るだけでなく、図書室での学習、研修室での講座、講演会、体験学習会への参加など、様々な利用ができるそうです。

 

                                     つづく

 

 


この町は、至る所に子育て信仰があった

2018-06-22 09:45:50 | 日記

 しばらく歩いていると、

鬼子母神堂というそうですが、「子どもを大事に育てよう」というみんなの願いでしょう。

近くには、芭蕉の句碑もありました。

そして、すぐ近くにあったのが公民館です。さて、その先には何があるんでしょう?

 何と、子育て入子地蔵堂という小さな祠でした。子どもを大切にする地域なんですね。それに比べて、今の日本はどうなんでしょう?

 また、神社に到着しました。

 飯能市稲荷町にある神社です。創建年代等は不詳ながら、寛永13年(1636)創建と伝えられ、江戸期には久下分村の鎮守社だったといいます。明治5年には村社に列格、明治41年に字川端村社秋葉神社、字真行坂無格社稲荷神社、字柳渕無格社稲荷神社、字打出無格社稲荷神社を合祀しました。

 稲荷神社ですから、狛犬ならぬ狛狐ですね。ご覧ください、狐の表情は下を向いていますが我が子をやさしく見守っているのです。

 

                                                    つづく

 


飯能鬼子母神のゆかりの地にある寺へ

2018-06-15 20:35:07 | 日記

 こんな古い店もまだ残っているんですね。

さぁ、先へ進みましょう。

何やら、お寺らしきところへ着きました。

えっ、これは象ですね。梵鐘堂に象とは、何でしょうね?

観音寺というお寺でした。案内板によると、真言宗智山派寺院の観音寺は、般若山長寿院と号します。創建年代は不詳ですが、江戸期には、慶安年中(1648-1651)に観音堂領として3石5斗の朱印状を拝領しています。本尊の如意輪観世音は弘法大師作と伝えられ、武蔵野三十三観音霊場24番、高麗郡三十三ヶ所霊場10番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所64番となっている他、数多くの仏像を所蔵しており、寿老人は武蔵野七福神の一つとなっています。とありました。

これが本堂のようです。

近づいて見ると、大きなカンテラのようなものが下がっています。

吉祥果ザクロを手に持ち、胸に子を抱く鬼子母神は、古来より安産・子育て・蓄財・吉祥の仏として人々の信仰を集めて参りました。この鬼子母神堂は観音寺宗祖弘法大師が遣唐使として学んだ長安(中華人民共和国西安市)青龍寺の土が御堂下に埋められておりザクロの街、西安「青龍寺」とザクロの郷、飯能「観音寺」との友好のシンボルでもあります。また飯能鬼子母神は、ザクロの里飯能の象徴として、飯能商工会議所青年部が創立間もなく進めてきた飯能名物づくり事業の一環でもあり、尊像は、飯能在住の彫刻家、佐藤敏明氏の手により、地元西川材の檜から創出され、御堂は現代の名工、吉澤良男氏をはじめ地元建設関連企業の熱意と裏面に連名の多くの寄進による浄財で完成を見ました。周辺の飯能河原・天覧山と共に飯能観光拠点のひとつにもなっています。という説明書きもありました。どうやら、このカンテラらしきものはザクロを象徴しているのでしょうか?

 境内には、鎌倉期のものといわれる五輪の塔や板碑があります。また俳聖芭蕉の句碑や水原秋桜子の句碑もあります。

 

                                  つづく  

 

 


飯能市の有形文化財だった

2018-06-04 19:28:43 | 日記

 ここは「店蔵絹甚」という建物、名前から想像されるように絹関連の品物を扱う場所で、市の指定文化財にもされている。外観から見ても、風格ある歴史を感じさせる建物で、内部の梁といい、トイレも昔風のものである。平成19年度に復原修理工事が終了し、毎週水~日曜日に一般公開を行っています。

 

中庭から居宅へと入ると、うなぎのねどこのように細長い敷地に建っているため、居宅と奥の土蔵との間に中庭が設けられています。採光や通風のために必要な空間でした。入口を入った頭上には、60cmもの太さのある人見梁が存在感を出しています。どの材木も太く、重厚な雰囲気をかもしだしています。 飯能市は、絹関連の買継が歴史を為して来た町でした。その名残をほうふつとさせる建物です。

                                                        つづく